百目鬼潜さんという人は、あまり意識していなかったが正しくアイドルだった。
 街中、老若男女問わず声をかけられるのを見つめながら三歩下がってついていく。時折ちらっと私に向けられる視線にいたたまれない気持ちになりながら、勝手にどこかへ逃げることもできず潜さんの後を追う。

「潜さん……あの、あんまり人のいないところ行きましょうよ」
「大胆だね。二人きりがいいの?」

 そういう意味じゃないけど、そもそもデートをしようって誘ったのは潜さんじゃないか。
 あれ、私ってなんかちょっと期待してたんだ。潜さん相手に?
 少し先は晴れ間がのぞいているのに、雨粒が大きくなってきた。ざっと一雨降るのだろう。

「いいよ。行こうか」

 手を引かれて路地へ入る。少し危ない香りがして足を踏ん張っても、潜さんの力には適わない。

「ちょっと、嫌です。潜さん!」
「お馬鹿さん。近道だよ」

 短い路地の先、開けた道路は商業施設の並ぶ大通りだ。そうか、ひとつ先の信号で曲がるより、この路地を通った方が早かった。そうとわかれば、雨粒から逃げるように、潜さんから逃げるように駆け出す。
 大通りに面したコスメブランドで、二人並んでリップを眺めた。ごめんなさい、とたった一言が言えないまま時間だけが過ぎて、店員さんから差し出されたリップを受け取る。

「Ev3nsさんがアンバサダーをしてくださった商品です。在庫は店頭のみで、残り僅かですよ」

 こっそり囁かれて、そういえばこういう仕事もしてたな……と黒いパッケージを眺めた。私にはあまりにも似合わない、暗くて大人っぽい口紅だった。ポスターの潜さんはすごく色っぽくて、あまり興味のない私でも当時はちょっと見つめてしまったくらいだ。

「欲しいの?」
「……いや、普段使いできないので」
「そう」

 いくら興味がなくたって、本人を目の前にこんな物言いしなくたっていいのに。
 いつも使っているような、無難なピンクのリップを手に取った。潜さんも店員さんも何も言わなかったし、私もこれでいいと思った。

 気付いたら家路についていて、何事もなく「デート」は終わった。デートっぽいことは何もしなかったな、とハンドバッグから仕事用のバッグへ財布を入れ替えていると、内ポケットの中に黒いパッケージが入っているのに気付く。
 目頭があつくなって、次の雨が待ち遠しくなった。

2026/08/31

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