肺を満たす空気は澱んでいた

・過去に冬木の大火災に遭ったマスター
・全体を通して暗い


底など最初から存在しない沼のような空間なのだと梓が気付いた時には既に、片脚が食われ始めていた。
何とかそこから抜け出そうともがく程にずぶずぶと音を発して少女の体を、それはそれは美味そうに呑んでいく泥のようなモノに少女の喉がひきつく。
落ちていく最中、鼻腔を突いた刺激臭と無数の人々の阿鼻叫喚。
こちらに助けを求め這い出た手は今や幼子を押し潰さんと頭部を押さえつけ、梓の体は問答無用でそこへ落とされた。

建物を焼く炎が爆ぜ、灰燼が遠方まで広がる地で音を奏でる。
ゆっくり頭を上げ視線を右にやれば燃焼した瓦礫に挟まれ、既に事切れた屍。
それから目を背けるように反対側を見ると、屍同様に建物の下敷きとなり迫り来る炎の渦に色濃い恐怖の表情を浮かべている女性と目がかち合ってしまった。

「助けて!まだ、死にたく……」
手を伸ばした女性が手を差し出した直後、かろうじて形を保っていた瓦礫が無慈悲な音を発して瓦解した。
無音となった隙間から覗く手は、ピクリとも動いていなかった。
至る所から救助、苦悶、それらが入り交じった声が絶えず響く。
非力な少女が己より大きな人間をこの生き地獄から救う手立てなど有しているはずもなく、背後から聞こえる無慈悲な音にそっと目を閉じ最期の時を待った──。


「お目覚めかい?マイロード」
「マーリンさん……どうして私の部屋に?」
自室で眠気と戦いながら作業を続け、作業と眠気を天秤に掛けた結果効率を上げる為に数十分仮眠をとっていた事を思い出す。
瞼の裏に文字通り焼き付いた光景は否応なしに心音を速まらせ、びっしょりとかいた汗の不快感と冷たさに腕を摩った。

「梓が魘されている声が聞こえたから来た、では駄目かな」
「そんな事はありません!ただマーリンさんもお忙しいのに、私の事に気を回して更に時間まで割いていただいたのが申し訳なくて……」
もう大丈夫ですので──と続くはずだった梓の体が暖かいものに包まれる。
あの夢の中では一切得られなかった生者の温もりと彼のゆったりとした心音に酷く安心感を覚え、幼子のように目の前の白い人に縋りついた。

「私が実際に体験したか否か、それすら分からないのに幾度も見る夢があるんです。そこはいつも炎に呑まれていて至る所から焦げ臭い匂いと悲鳴が上がって……後ろから嫌な音が響いてくるのを聞いている間に目が覚めるんです」
「それは只の夢だ。"幼い君"が気に病む要因は何一つないんだよ」
小刻みに震えていた白磁の手は今や目に見えて大きく震え、マーリンの瞳に映る梓の瞳の奥も揺れている。
下唇を噛み、マーリンの胸元に頭を擦り付けてくる梓の髪を優しく梳かしてやりながら彼は薄い唇を開いた。

「今の君には休息が必要だ。お望みとあらば子守唄を歌おうか」
「……ありがとうございます」
金の髪を揺らし、確かに頷いた梓を見ながら花の魔術師は至極穏やかな声で子守唄──物語を紡ぎ始めた。

極夜