蠱惑的な口付け

「悪い梓、そっちの皿取ってもらえるか?」
「うん大丈夫……わ、っ!」
確かに手の中に収めた筈の白磁の皿が滑り落ちる。
梓がアクションを起こすよりも早く、床に落ちた皿は一帯にけたたましい音を響かせた。

「士郎君ごめんなさい!直ぐに片付けるから!」
「バカ!後片付けは俺がするから梓は……」
幸いにもフローリングは傷んでいなさそうだ。
目に見えない破片は後で掃除機で吸引するとして、大きな破片を早くかき集めてしまおう。
制止をかける士郎に大丈夫なんて返しながらその場にしゃがみ込んで拾い集めた直後、ちくりと鋭い痛みが指先を襲う。

「あーあ、言わんこっちゃない。お前の事だから絶対こうなると思って止めたのに」
「(このままじゃエプロンだけじゃなく、フローリングまで汚しちゃう!)」
思った以上に勢いよく流れ出てくる鮮血が冷静さと正常な思考を奪い去ってしまった。
救急箱はどこだっけ?そう問いかけようと振り向いた梓の白い手首を掴んだ士郎は、そのまま口の中に指を放りこんでしまう。

「や、駄目!し、ろ……く……んっ!」
熱い舌が指に絡みつく。
咥えられた指先は相変わらず痛くて仕方がないし、それ以上に目の前の少年から逃げ出したい一心で勢いよく身を捻り指を解放された……までは良かった。

「暴れたら危な──」
身を捻り逃げ出そうと試みた梓の足が艶艶としたフローリングの上を滑る。
ドスン、という鈍い音と共に固く閉ざしていた瞼を押し開いた先には塵一つない床と鮮やかな赤の髪。

「間に合って良かった。怪我、してないか?」
下敷きになっているにも関わらず、苦言一つ漏らすどころか頬に指を這わせた士郎は黄金色の目を細めて微笑んでいる。
意図していないとはいえ彼の顔を挟むように両手を置き、覆いかぶさっている梓。
詳細を知らない第三者が両者の姿を目の当たりにすれば間違いなく、あらぬ誤解をしてしまう。

「衛宮先輩、梓先輩遅くなってすみませ……」
台所の入り口で固まっている大切な後輩の姿に梓は悲鳴を上げるわけでもなく不思議な感情を映し出している間桐桜の瞳を見つめ、呆然としていた。

* * *

急用が入った家主、衛宮士郎の代わりに衛宮家の夕飯を一任された梓は今日のメニューを考えながら門を潜り抜けようとしていた。

「梓せんぱーい!」
「桜ちゃん?」
「学校から出る前に見つかって良かった……夕飯を作るお手伝い、私にもさせて下さい」
その好意は純粋に嬉しいのだけれど、彼女の都合は大丈夫なのだろうか……?
梓の考えはありありと顔に出ていたらしく、桜は口元を手で覆ってフフッと笑うと梓の手を掴んだ。

「メニューはもう決められてますか?」
「今日は特別寒いから鍋物にしようとは思ってるんだけど、桜ちゃんは何が良い?」
「先輩が好きなお鍋なら何でも」
どこまでも私に優しく、可愛い後輩だなぁなんて呑気に考えながら梓は桜と二人肩を並べ商店街へ向かって歩き始めた。


「きゃっ!」
買い出しを終えて衛宮邸に帰ってきた梓達は役割を分担し、仲良く台所で調理を行っていた。
そんな最中に響いた桜の悲鳴と床に落ちて、今この瞬間からガラクタと化した陶器の皿。

「桜ちゃん大丈夫!?後片付けは私が……桜ちゃん?」
「……あの時と一緒ですね。梓先輩」
彼女が指し示すあの時とは一体いつの事だろうか?
心ここに在らずな桜を気にしつつもこのままではいけないと伸ばした指先に走る痛みと、そこから滴る鮮やかな赤。
うっとり恍惚の表情を浮かべた桜のほっそりとした滑らかな指が梓の手を包む。
桃色の唇を開いた彼女はそのまま、止まる気配のない指を咥えこんだ。

「桜ちゃ、んっ!?」
「梓先輩の血、甘い……」
顔に熱が集まっていくのを感じながら、舌を這わせ続ける桜を見つめる。
漸く視線が交わった桜は瞳と口を三日月に模して、そのまま梓の胸を押した。
いつか聞いたドスン、という音。
床に散らばる自身の髪。両サイドに置かれた少女の手。

「顔を真っ赤にして体を震わせて……私が怖いですか?梓先輩」
「怖くはないけど……ど、うしたの?」
胸元のリボンに手を伸ばした妖艶な後輩は問いかけに目を丸め、首を傾げた。

「こうでもしないと私の気持ち、分かってくれないでしょう?」
「その、あの、つまり私の事がす……すきってことでしょうか」
返事の代わりに降ってきた唇を拒めず、彼女の体を押し退けられなかった梓自身も気付かぬうちに、間桐桜という人物に好意を寄せてしまっていたらしい。

「とっても可愛らしい先輩の姿が見れたので、今日はここまでにしておきます。お返事待ってますから」
上から桜が退いた後、視線を外して何度も頷いていた梓は知らない。
帰宅した家主から引く気配のない顔の熱を指摘されて、どもりながらよく分からない言葉を述べて殊更心配される少女の初々しい姿を藤色の瞳が焼き付けるように見つめていた事など。

極夜