阿芙蓉

ふう、と一息ついて梓が髪をかき上げた直後、隣の立香が声を上げた。
瞳を動かし彼を見やれば右側の耳朶を指さし、顔を顰めている。

「赤くなってるけど、そこどうしたんだ?」
「え、また?困ったなぁ」
何の前触れもなく、それはある日突然出現した。
部屋で一人寛いでいた時、右耳に違和感を覚えながらさほど気に留めることもなかった。
そのような瑣末な事、気にかけるだけ無駄であろうと。
しかしそれは一向に収まる気配を見せず、連日続く右耳の腫れと痒みにお手上げ状態に陥った梓の鼻腔を名も知らぬ花の香りが掠めた。

「お困りかな?」
「マーリンさん!待って下さい、今すぐお茶を……」
席を立ったほんの僅かな瞬間に見えた右耳の赤みに、マーリンはすぐさま険しい表情を浮かべた。
梓の手を掴み、髪を払い除ける。
真っ赤に色付いた耳朶にマーリンは静かに首を振る。

「……これはいつからだい?」
「数日前からです。すぐに収まると思って放っていたらどんどん酷くなってきて……原因も皆目見当もつかないので、完璧お手上げ状態でして」
「もしかすると何かにかぶれてしまったのかな?それにしても耳だけこうなるなんて、珍しくこともあるものだね」
マーリンのひやりとした指が梓の熱を帯びた耳朶にそっと触れる。
「やめて下さい」と擽ったさに目を閉じていると、再度違和感を覚えた。

「あれ?さっきまでの痒みが嘘みたいに和らいだ」
「不思議なこともあるものだね。他におかしなことは……おや?」
突如マーリンに身体を預け、動かなくなった梓の肩を掴み顔を見合わせる。
夢心地な表情でマーリンを見つめてくる梓と、先までの原因が何かを察したマーリンは彼女の肩を抱き恍惚とした眼差しを愛おしそうに受け止めた。

それから暫く、耳朶の件など忘れそうになっていた夜更け。
あとは布団に入って眠りにつくだけだという時に、あの痒みと腫れが再び梓を襲った。
収束したと、てっきり思っていた病状の再発に舌打ちを思わずしそうになっていると、うっとりするような花の香りに室内が包まれた。

「夜遅くにすまないね。少し話したい事が……積極的な女の子は嫌いじゃないよ」
少しでもその香りに包まれていたいと夢魔の胸に飛び込んできた梓の背中に手を伸ばしたマーリンは、艶艶とした髪を優しい手つきで撫でていた。


そういう理由から梓にとってマーリンは鎮痒剤とも呼べる存在になっていた。
彼から漂う花の香りに包まれていると不快な痒みから解放され、多幸感に満たされる。
またこの時期が来てしまったとマーリン求め踵を返そうとした梓の手を突如、立香が掴んだ。

「これダヴィンチちゃんに診てもらったの?」
「ダヴィンチさんに頼らなくとも、マーリンさえ居れば落ち着くから大丈夫」
「それって……」
うっとりとした顔で思い浮かべるのは幸せの香りと花の魔術師の体温。
それを思い浮かべるだけで、いてもたってもいられなくなり駆け出そうとした梓の前に男は颯爽と姿を現した。

「マーリン!マーリンマーリン!」
「そんなに私に会いたかったのかい?昨日会ったばかりだというのに、意外と強欲だね梓は」
「マーリンの香りと体温を感じていると落ち着くの。だからもう少し、こうさせて?」
一帯にむせ返る強烈な花の香りに立香は袖口で鼻を覆った。
みるみるうちに梓の赤みは引いていき、蕩けきった顔を夢魔に見せるその光景はどこかおかしかった。

「そんなわけで私達は失礼するよ」
強い花の香りを残し花の魔術師と梓は姿を消した。
通り過ぎる間際に見えた梓の常軌を逸した表情に残された立香は一人打ち震えていた。

極夜