LOST

心因的なもので自分の名前が把握出来なくなったマスターの話

 カルデアのマスターになったその瞬間から私の何かが狂い始めたのかもしれない。
 新しいサーヴァントと知り合って絆を深めていく度に私の名前は増え、その中でもとりわけ行動を共にする事の多い花の魔術師──マーリンは宵明け間近の深い紫の瞳を細めて親愛の意を込めてマイロードと私を呼んだ。

        *

(……また女の人に声を掛けてる)
 マーリンから声を掛けられ頬を赤に染めた女性を視界の端に捉えながら黄金色の液体の注がれたグラスを掴んでそのまま食道へ流し込む。林檎の爽やかな酸味としつこくない甘さが口内に満たされていく心地良さに思わず口端がつり上がってしまう。
 「美しい女性を見て口説かないだなんて失礼に当たると思わないかい!?」といつか返ってきた答えを思い返して苦笑いしながら私は結露したグラスを再びテーブルの上へ置いた。
 太陽に反射してキラキラと輝く銀の髪は見慣れている私でも美しいと感じるし、時折見せる爽やかな微笑には毎回心臓が跳ねる。薄い唇が開かれると聞いた者皆をうっとりとさせる美しい声が紡がれる。
 外貌だけでなく声まで百点満点の青年から声を掛けれたらあの女性のように蕩けた顔をしてしまうのも仕方ない。一番の問題はその中身──非人間故に心が伴わない、人間として感情が寄り添わない点だった。
(今回初めてナンパに成功する……かも?)
 いい所まで行ったと思いながら遠くから傍観を決め込み、ほんの僅かな時間席を外している間に頬に見事な手形をつけて笑顔で帰ってきた時は眼球が乾燥してしまうほど大きく瞠目したものだ。
 今回のナンパが成功した場合、マーリンはあの女性の肩を抱いて、人の波の中へ消えてしまうのだろうか。それとも律儀に一度こちらへ戻ってきて「私は今夜、別の場所で寝るよ」といつもと何ら変わらない言葉尻で伝え笑顔を浮かべて去って行ってしまうのだろうか。
 そこへ思考が至った途端、マーリン初のナンパ成功を素直に喜べなくなってしまった自分とそんな自分の心境の変化に頭を抱えた。この街に滞在するのは明日の明朝まで。それまで現地で契約した英霊達も思い思いに過ごしているし、私も極々自然な流れでマーリンと二人きりになって今の今まで散策をしていた、ただそれだけ。
 カルデアのマスターでしかない私が一体何を考えているんだろう。いよいよ私の考えも煮詰まってきたのかもしれない。
 空になったリンゴ水のお代わりをお願いして薄く開いた目で再びマーリンの方を……腰に手を回してる! それ以上はとても見ていられなくて私は並々に注がれた新しいリンゴ水に視線を移すと一気にそれを飲み込んだ。遠くから耳に馴染む柔らかな声が鼓膜を刺激する。
 ──ああ、こんかいもだめだったんだね。ひっしにこえをかけてくれてるのにごめんなさい。わたし、まーりんのくちからすべりおちることばが、いみが、わからないや……。

「■■■、■■■! マイロード!」
 突如持ち上がった瞼と意識に思考は追いついておらず、質素ながら柔らかなベッドに横たわっているのに気が付くまでそれなりの時間を要した。切羽詰まった表情のマーリンを見るのは久しぶりだなぁと思いながら「どうしたの? 難しい顔をして」と返すも青年の麗しい顔は依然険しいまま。
「私の言葉が分かるかい?」
 首肯する。
「キミの名は?」
 私はマスター。カルデアの、たった一人のマスター。
 殊更表情を強張らせた花の魔術師は頭を振った後、驚くほど穏やかで慈愛に満ちた笑顔を作った。
「確かにキミはカルデア唯一のマスターだ、それは違いない。だけどそれと同時にキミは何処にでも居る普通の女の子。■■■■ちゃんだ」
 耳奥に不協和音が生じる。嫌だな、気持ちが悪いなと感じながら私は気丈に笑顔を作って「分かってるよ」と返すんだ。
「……キミは紅月梓。僕が何より大切にしている────」
 ああまた目の前が白んでいく。本当に、疲れてるんだなぁ。

       *

「夢の中でもマーリンに会ったの。そこでマーリンはいつもみたいに女の人をナンパしてたんだけど、見事に失敗してね……」
 梓の屈託のない笑顔が好きだ。カルデアのマスターとして恥じぬよう常に上を向いて背筋を伸ばし、凛とした空気を纏った梓は年不相応で無理に背伸びをしているように映って見れたものではないなと改めて認識しながら男は少女の話に耳を傾けている。
「どうかしたのマーリン。いつもより口角上がってる」
「夢の中にまで私の姿を見出すなんてね……梓ちゃんは相当な私好きと見た」
 きゅ、と口を結んで俯いた梓の首が僅かに上下に揺れたのを確認し、マーリンは唯一無二の尊い名を呼ぶ。
「僕も梓ちゃんの事が好きだから両想いだね」

極夜