こんにちは、初めまして

「おや? どうしたんだい梓。浮かない顔をして」
 大規模特異点から無事帰還したというのに、彼女の顔は常に憂いている。そんなキミの顔も愛らしいね、なんて軽口を叩けば「そうやってまたからかうー」なんて普段であれば返ってくる言葉さえなく、魔術師は静かに紫紺の目を伏せた。
「先の特異点で絶対何かを忘れていると思うんだ」
「何故そう断言出来るんだい?」
 男の問いかけに梓は瞳を瞬かせる。何故、と言われると明確に説明は出来ない。ただ漠然と、忘れてはいけないことを忘れてしまった気がするのだ。
「何だろう……すごく大事なことだったはずなんだけど」
 首を傾げる彼女に魔術師は肩を竦め苦笑を浮かべる。
「まあ、気にしすぎない方がいいよ。そういうのって大抵気のせいでしかないものだからさ」
 確かにその通りだ。彼の言う通り自分の思い過ごしかもしれない。しかしどうしても気になって仕方がない。
 梓は考え込むように俯いたまま黙り込んでしまった。そんな彼女の横顔を見つめていた青年は梓が抱いている違和感に気付いているのか否か、そっと息をつくと穏やかな声音で語りかけた。
「ゆっくりでいい。梓の考えを聞かせておくれ」
 男の言葉を受け、彼女はこくりと小さく首肯するとゆっくりと口を開いた。
「トラオムで私達がどんな戦いを繰り広げたかは知ってるよね?復讐界域との最終対決で──」
 あの人の顔を覚えている覚えていない
 彼の優しい声色を知っている知らない
 あの人が誰かは分かるのに、誰なのかが分からない。それがひどく気持ち悪くて仕方がなかった。
「固く封じられていた門が自然に開いたの。その時はどうしてそうなったのか深く考えず、前だけを見て突っ走っていたけど……」
 門の前で膝をついている誰かを見た。体の至る所に矢が刺さっていて血まみれになっているのに、彼は前を見据え駆けていく私やシャルルマーニュ達を見て確かに笑っていた。恐ろしいほどにこやかに、満足げに微笑んでいたのだ。
「どうしてそこに引っ掛かりを覚えるのか、よく分からなくて」
 そう言って視線を落とした梓の横顔を見ながら男はにぃ、と唇の端を持ち上げる。
「成程……。それじゃあ、僕の方からひとつ提案させてもらおうかな」
 その言葉を聞いた瞬間、梓は弾かれたように顔を上げた。期待に満ちた眼差しを受けて、魔術師は困ったような笑顔を見せた。
「とりあえず召喚部屋に行こう。善は急げだ」
「え!?」
 驚く彼女を尻目に、男は椅子から立ち上がるとスタスタと歩き出す。慌てて彼女もその背を追いかけた。召喚部屋に着くなり梓の背中を押した魔術師は扉を締め切ってしまった。
「ちょっと!?」
 突然の行動に抗議の声を上げるが、彼は意にも介さず向こう側から声を掛ける。
「大丈夫大丈夫。キミならやれるさー!」
 まるで無責任な発言だが不思議と不安感はなかった。大きく深呼吸をして意識を集中させる。令呪が刻まれた左手を前に突き出し、詠唱を始める前に一つ確認したいことがあった。
「ねえ! 一体何を喚ぼうとしているの?」
「さあ? キミと縁のあるサーヴァントじゃないかな」
 適当な返事をする魔術師に少し苛立ちを覚えながら滞りなく詠唱を済ませていく。
「──告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に……聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
 朗々と響く少女の声に呼応して、召喚陣が強く発光し始める。やがて光が収まるとそこには一人の青年の姿があった。癖のついた金髪に目の覚めるような碧眼。茄子紺を基調とした服に身を包んだ青年は梓と目が合うなり白い歯を輝かせてみせた。
「サーヴァント、セイバー! ローランだ!」
 高らかに名乗りを上げ、胸を張る青年に梓はぽかんと口を開けて惚けてしまう。そんな梓を尻目に召喚されたローランは言葉を続けている。
「脱ぎっぷりには定評があるぞ! マスターの許可が……え?」
 知り合って数分、いや数秒のマスターが涙を流していた。妙齢の女の子に脱ぐ脱がないって話は流石に良くなかったか! なんて考えつつ、どうしたものかとローランが悩んでいると彼女は勢いよく抱きついてきた。
「そんなに俺の力を必要としてたのか?!」
 予想だにしない反応に目を白黒させているローランに梓は泣き笑いを浮かべている。
「あ……えっと、なんでだろう?」
 梓の脳裏に過るのは楽しかったトラオムでの記憶。そこに"彼"は居なかったはずなのに、何故こんなにも心が満たされるのだろうか。
 突然の抱擁に戸惑っているのは何もローランだけではない。当人でさえどうしてこうなったのか理解出来ていないのだ。しかしそれでもいいと思った。今はただ、こうしていられるだけでいいと。
「うん、そうだね。私は貴方に会いたかったみたい」
「……きっと俺もだよ」
 涙を拭いながら微笑む梓を見て、ローランもまた嬉しそうに破顔した。
「改めてよろしくね。ローラン」
「ああ! こちらこそよろしくな、マスター!」
 二人の間に流れる空気は穏やかで温かい。その様子を見ていた魔術師は満足げに笑うと、静かにその場を後にした。

極夜