非人間わたしの願望

「君が化粧をするなんて珍しいね」
その一言に少女の瞳が大きく揺れ動いたのを男は見逃さなかった。

「折角女の子に生まれたんだし、偶にはおめかしするのも良いでしょ?」
「確かに悪くは無いけど、私としては素顔の梓の方が好きだな」
頬紅の乗った頬を更に赤らめて俯いた梓は自身の視界が突如ぐにゃりと歪んだ事に目を見張り、小さく息を飲んだ。
…目の前にはまだマーリンが居る。床に倒れ込む惨めな姿を彼に晒すわけにはいかない、と心を固めた梓は唇をこれでもかと噛み締めて全身に走る不快感を表立って出さないよう必死に耐える。

「あ…ありがとマーリン。他に用がないなら私行くね」
英霊達から何と不甲斐ないマスターだと呆れ、失望されてしまう前に一刻も早くマイルームに逃げ込んでしまおう。
無表情で沈黙を守っているマーリンに手を振ってなるべく瞳に彼を映さないようにしながら前を通り過ぎる。
底なしの沼に足を取られているかのように踏みしめる度に足は重くなり、歩を進めるいう何気ない動作に顔が険しくなっていくのが分かった。

「はあ……私のマスターは変なところで強情っぱりだなぁ」
長い長い溜息の後呆れを存分に滲ませたマーリンの声が廊下に反響する。
彼女が口を開くよりも早く離れていた距離を詰めたマーリンはごめんねと唇を動かした後、形の良い眉を顰めて梓の顔を覗き込むと体を引き寄せてそのまま膝裏と背中に腕を回した。
途端に高くなった目線に普段なら悲鳴のひとつやふたつ上がっていたかもしれない。それ以上に全身の倦怠感は酷く、いよいよ声を発するのが億劫になってしまうほどにそれは彼女の身体を蝕んでいた。

「ごめんねマーリン。ファンデーションがお洋服に着かないよう気を…つける。…重くて腕が疲れてきたら何時でも降ろ、して……」
「君を抱えて運ぶくらい朝ご飯前さ。部屋に着いたら声を掛けてあげるから梓は目を瞑っていなさい」
とろとろと夢と現をさ迷っている梓の意識にマーリンの優しい声が染みて、瞼が落ちる。

「マーリンにはぜんぶお見通し、か……情け…な、いな」
力なく笑って1人ごちた梓は糸の切れたあやつり人形のように脱力し、全てをマーリンに預けた。
瞼の下を少々乱雑に指で拭うと化粧でも隠しきれていなかった濃い隈が顕著に浮かび上がる。

「(……なんと脆くひ弱な生き物だろう)」
蒼白い顔で早々に去ろうとする梓を無理矢理抱え込んだ時、予想以上の軽さにただただ困惑した。
腕の中に収まっている少女は規則正しく胸を上下させて静かに眠りに落ちている。
必死に足掻き、死に物狂いで運命に抗い続けているこの娘は卓越した能力を有した実力者ではない。
普通の人間である紅月梓が自身より更に未熟な藤丸立香を支え、仲間を守らんと命を燃やし尽くす勢いで戦う姿に"彼女になら力を貸してもいいかもしれない"と思うようになるまでそう時間はかからなかった。
身を粉にして、時に己が身を捨駒のように扱いながら駆けていることを周囲に勘づかれぬよう神経を張り詰め笑顔という化粧でひた隠す少女の痛ましいほどの健気さは一国の王として君臨し、一切の弱音を吐かなかった騎士王アルトリア・ペンドラゴンを連想させた。

「君が守ろうとする未来明日にはその労力に見合うほどの価値があるのか……私には分からないよ」
未来を救った瞬間、自分の命の灯火が吹き消えてしまったら?それまでの無理が祟っていつ果てるかもしれないし、何よりその努力が実るのか現段階では分かりもしないのに。
自分の命より優先して守り抜きたいと思うモノなどこの世に有りはしない。どれだけ心を、言葉を飾り立てようとも人間はエゴの塊そのものであり最終的に自分が一番可愛くて仕方のない生物なのだ。
……だからこそ紅月梓の行動と感情が理解出来ないし、それがどうしようもなく歯痒いと感じている自分が居るのだから本当に"人間"とは摩訶不思議な生き物だ。

「今ほど人の身でありたいと思った日はないよ」
己の望みが叶う事は億が一にもないと承知の上で彼の花の魔術師は心にもない"心の底から"の願望を口にする。

「"私が人の子であったなら"何か違ったのかな」

極夜