この命の一滴すら惜しくない

誰からも目を向けられることはない、それが当たり前なのだと諦観していた私に差し伸べられたふたつの手はあまりに眩しくてそれでいて儚いものだった。

「大丈夫か!?」
「無理に起こすのは良くないと思うしとりあえず仰向けにしよう。私たちの声、聞こえる?」
「はい……すみません、私なんかの為に」
菫色の瞳の先に映る男女ふたりがあまりに眩しくて桜は思わず目を細めた。
纏っていた赤色のカーディガンをおもむろに脱いだ少女はそれを桜に掛けると氷のように冷えきった手を己の手で包み込んだ。

「一足先に言って先生に話を通しておくから梓は彼女と一緒に来てくれ」
「分かった。白野くんよろしくね」
白野と梓、彼らの名前を胸に刻んだ桜は梓に寄り添われながら保健室を目指す。
顔色の優れない桜を気遣ってゆっくり、亀のような歩みで足を進める梓に対して今一度申し訳なさが滲み出てきてしまって桜は梓の金糸と翡翠の瞳から目を逸らすように顔を俯かせた。

「迷惑だとか私なんかのためにって思う必要はないからね。私と白野くんがしたくてしてるだけだもん、素直に甘えて欲しいな」
ね?と幼子に言い聞かせるように優しいソプラノを掻き消すように響く靴音が白野の帰還を知らせる。
梓と反対側に回って腕を回した白野はそのまま梓に鳶色の瞳を向けた。

「あとは俺が運ぶから」
「やだ。ここまでこの子を運んだんだし最後まで付き合う。もうちょっとで着くからね、大丈夫だからね」
「まったく……」
白野にべーっと舌を突き出し子供のような顔をしていたと思えば桜の前では菩薩のような顔で微笑を浮かべている。
こめかみを抑え溜め息を吐き出した白野の表情も満更ではないようで。
────だからこそ彼らの運命を知った時、愕然とした。
幾度やり直せど泡のように掻き消えるふたりの姿。
二兎を追う者は一兎をも得ずなのかと薄ら考え始めた自分の顔を叩き、■■回目の今日を迎える……はずだった。

「貴女、誰……?」
「そんな事別にいいじゃありませんか。貴女はここで死ぬ運命なんですから」
突然発生した泥とノイズの群れから命からがら逃げ延びた梓の前に立ちはだかる。
敵意に満ちた瞳にちくりと痛みを訴える心を無視して少女……BBは冷ややかに梓を見下した。
屋上に迫る泥と生命を喰らわんとするノイズの群れに彼女が上げた小さな悲鳴を確かに聞いたBBは妖艶に微笑む。

「死にたくないですよね、そうですよねぇ。だけどこうでもしないと──」
如何な手段を選んでも彼女らの命は救われなかった。だからこうする以外、道はないのだ。
彼は既にあちらの世界に英霊と共に飛ばした。残るは、梓のみだ。

「私の事より白野くんは?彼はどうしたの?」
「さあ?私の知ったところではないですね」
「泥で埋め尽くされた校庭とか目と鼻の先に迫る敵か味方ともとれないヒトとか本当に救いがないなぁ。こういう時彼なら……」
一歩後ずさった梓はそのまま勝気な微笑みをBBに見せると背中から地上へと落ちていった。

「そんな、ここまできて貴女はどうして……!!」
どうして私の手を取ってくれないのかと悲愴に暮れる間もなく一帯を金色が覆い尽くす。

「今暫く貴様に力を貸してやろう、死ぬ気で抗えよ雑種」
今まで一度も聞いた事のない男の声に強く唇を噛んだBBは姿を消した。

新たな運命の扉が今、開く。

極夜