その香は優しすぎた
俺の名を呼ぶあいつの声はいつも柔らかく、屈託のない微笑を浮かべていて常時心地よい匂いを漂わせていた。
「多忙なのは分かっているけれどちゃんと布団で寝ないと体が休まらないよ」
眉を八の字にし書簡を持ってきた紫月は開口一番に述べた。
「俺の多忙さはよく知っているだろう。そんなことを言うお前はきちんと休んでいるのだな?」
う…と分かりやすく言葉をつまらせ目を逸らした後、三成より忙しくないから大丈夫!と少々的外れな返答が返ってきた。
「三成はいつも根を詰めすぎ。気難しい性格で味方も少ないのに」
ぼそりと呟かれた言葉に咳払いをひとつすればふぅと紫月は嘆息した。横目で見ると心配そうに瞳を揺らし、ただ真っ直ぐ俺を見ていた。
「そんな貴方のために…はい」
無理矢理腕引かれ何かを置かれる。
手の上には小さな巾着が収まっており、紫月は俺を見つめたまま口を開く。
「私が好きな香りなの。お香もいいけれど匂い袋の手軽さには敵わないね」
執務漬けの合間のちょっとした気分転換になるのと口元を緩ませる。
それはいつも紫月が纏っている香に違いなかった。
襖が閉まって紫月が退出したを確認して手渡された巾着に目をやる。
自分でも分かるほどに口角が緩んでいた。
**
「……三成から同じ匂いがするのも、不思議なものだね」
俺の胸に顔を埋める紫月の顔色は蒼白を越えて真っ白であった。
先から何度も喋るなと叫んでいるのに、左近や吉継のようにこいつを失うわけにはゆかぬのに。
「あれから何も言ってくれないし、捨てちゃったのかなと思っ、て…た」
「お前がくれたものを捨てるわけがないだろう!」
「そっかぁ。嬉し……な」
足元の血だまりが広がるにつれ紫月の声が小さくなり、煌々としていた瞳からも光が失われていく。
ごめん、と短い謝罪を述べた直後、紫月は血の気のなくなった唇を俺の寄せた。
穏やかな笑みを浮かべたまま紫月が静かに瞳を閉じる。
ずっと好きだったと遺言のように、或いは呪詛のように言葉を残して。
「俺の答えを聞かぬ気か馬鹿紫月」
言葉を頻繁に交わしていたあの日より更に華奢になった体を強く抱きしめる。
戦場に関わる全ての物が似合わない普通の女だった。
鼻をつくのは血の匂いでも紫煙でもなく紫月が好きだと言っていた、懐に大事にしまいこんだ匂い袋だった。
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極夜