温もりはんぶんこ
室内に響くくしゃみの音にルネッタは本から視線を外し、顔を上げた。
「読書をされている最中に失礼致しました」
コーヒーでも淹れてきましょうかと付け足して席を立ったパッセンジャーの背中を目で置いながら、ルネッタも本に栞を挟んで立ち上がる。
(確かあっちに……)
自分の記憶違いでなければそこで間違いないと部屋の隅へ行き、そこにある籠に手を伸ばす。
「ルネッタさん? いかがされましたか?」
コーヒで満たされたカップを二つ持って戻ってきたパッセンジャーが再び椅子に腰を下ろしたのを音で認識したルネッタは両手に抱えたブランケットを恋人の体にふわりと掛けた。
「ありがとうございます。ですが、これは……」
「どうぞ遠慮なく使って下さい」
そう言って微笑むルネッタを見てパッセンジャーは頬を緩めた。
「…………鳥肌が立っていますよ」
「パッセンジャーさんの見間違いです」
言葉通り、ルネッタの腕や首筋には間違いなく鳥肌が立っていた。その様子に小さく笑いながら自分の真横を叩いたパッセンジャーに導かれるがまま腰を落ちつければ、肩を寄せられる。
「……暖かいですね」
ぽつりと零された言葉と共にパッセンジャーは少しだけ体を預ける。そんな恋人の行動にルネッタは何も言わずにただ寄り添った。
(あわわわ……パッセンジャーさんからいい匂いが漂ってくる! 促されるがまま隣に座ったけど、これって結構大胆な行動だったんじゃない!?)
突然降ってきた甘い雰囲気に動揺を極めているのは勿論ルネッタである。
(今更離れられないし、どうしよう……)
緊張しているせいなのか、それとも別の理由からか、心拍数は上がっていく一方だ。そんなルネッタとは反対にパッセンジャーの方はとても落ち着いており、目に見えて動揺している彼女の様子がおかしくて仕方がない。
「……ルネッタさん」
そっと耳元で名前を囁けば、面白いくらいにビクッと反応する体。
「私の名前を呼んでくださいませんか?」
「え?」
「お願いします」
至近距離からの懇願。それに抗う術など持ち合わせていないルネッタは戸惑いながらも口を開く。
「……パッセンジャーさん」
名前を呼んだ瞬間、腕の中に引き寄せられ、唇を奪われる。触れるだけのキスだというのに心臓が爆発してしまいそうな程激しく脈打っていた。
「────エリオット」
唇を離した直後、吐息混じりの声で紡がれた名前にルネッタが首を傾げるよりも早くパッセンジャーは言葉を続けた。
「私の本当の名です。呼んで下さいませんか?」
ルネッタがパッセンジャーからの頼みを断れるはずがないと知ったうえで狡猾な男は甘さを含んだ声を出す。それは正しく確信犯と呼ぶに相応しい行為であった。
「……エリ、オット……さん」
消え入りそうな声で名を呼ばれた男の顔に浮かんだ笑みは今まで見たことのないような柔らかなもので、それを真正面から見てしまったルネッタは自分の顔が熱を帯びていく感覚を覚えていた。
「もう一度、呼んで頂けますか?」
「っ……エリオットさん……」
二度目の要求にも素直に応じたルネッタに再び口づけたパッセンジャーは満足気に目を細める。
「どうしてわたしに……?」
顎に手を宛て、考え込み始めたパッセンジャーの様子を見て慌てて話題を変えたルネッタにパッセンジャーは表情を変える事無く答えていく。
「ルネッタさんが私の名前を呼ぶ時の表情が好きなので、呼んで欲しいと思っただけです」
ストレート過ぎる言葉に思わず赤面してしまうルネッタであったが、当人は至って真面目にそう言っているのだ。それが分かるだけに恥ずかしいのだが、それと同時に嬉しくもあった。
(本当に好きだなぁ……)
こんな風に思ってくれる人に出会えて良かったとルネッタは強く思う。だからこそこれから先も一緒に居たいと、この人の傍にいたいと願ってしまう。
「パッセンジャーさん」
顔を上げればそこには優しい眼差しをしたパッセンジャーが見つめている。
「好きです。大好きです」
「存じておりますよ」
再び唇が重なる。今度は触れ合うだけではなく深いものへと変わっていき、互いの舌を絡ませ合えば水音が鼓膜を刺激する。
「んぅ……ふ……」
徐々に深くなっていく口付けに酔い痴れていると、いつの間にか背中に回されていた手が服の中に侵入してきていることに気付いたルネッタは慌ててパッセンジャーの胸板を押した。
「これ以上は駄目です!」
「何故ですか?」
「だ、だって……その……まだお昼だし……」
顔を真っ赤にしながら言い放ったルネッタにパッセンジャーはそれはそれは悪い顔をして、耳元で囁く。
「夜なら構わないのですね?」
「ひゃあ!?」
耳にかかる吐息にぞくりと身を震わせながらルネッタが抗議の言葉を口にする前にパッセンジャーは素早く立ち上がった。
「仕事に戻ります。それではルネッタさん、また後ほど」
颯爽と部屋を出て行ったパッセンジャーを見送ったルネッタは暫くの間動けずにいた。
「エリオットさん……好き、です」
無意識に零れた想いにルネッタは更に体温が上がるのを感じながらその場にしゃがみ込んだ。
『エリオットさん、好きです』
扉が閉まる間際に聞こえた言葉にパッセンジャーは扉の前で小さく笑っていた。
初めて会った時はまさかここまで心惹かれるとは思わなかった。だが、今ではルネッタの一挙手一投足に心が乱されているのが自分でもよく分かる。
(随分と骨抜きにされてしまいましたね、私も)
最初は彼女のことをただの可愛い小動物程度にしか思っていなかったはずが不思議なものだ。
「──愛していますよ。ルネッタさん」
廊下に出てから呟かれた言葉は誰に聞かれることもなく消えていった。
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極夜