ハッピーバレンタイン&ホワイトデー


「ハッピーバレンタインです!」
 突然目の前に現れた恋人から発せられた言葉にパッセンジャーは僅かに目を丸くした。かれこれ三十八年生きてきたが、これまで一番自分と無縁な行事だと感じていたしこれまでもそうだろうと思っていたのだが、今はそうでないらしい。
「ありがとうございます、ルネッタさん」
 柔らかな髪を撫でてやると目を細め、彼女は頭を擦り付けてくる。何気ない日常の中に幸せ噛み締め、無意識のうちに柔らかな表情を浮かべていたパッセンジャーだったが、自身の手をすり抜けたルネッタが持ってきたチョコレートを見た途端、ぽかんと口を開け間の抜けた表情で固まってしまった。
「初めて作ったのでとても苦労しましたが、上手くいって良かったです!」
 台車に乗せられたあまりにも巨大なチョコレートはパッセンジャーの見間違いでなければ、自身の出で立ちと瓜二つ……否、そのものであった。
「等身大パッセンジャーさんチョコです!!」


 鳥の囀りが鼓膜を揺らし、カーテンの隙間から差し込む陽光がパッセンジャーの顔を柔らかに照らしている。
 ベッドの中で瞼を開いたパッセンジャーは今まで現実だと思っていたものが『夢』であったのだと認識するとほ、っと胸を撫で下ろした。
 彼女からの贈り物はなんであれ嬉しいし尊いが自分を模した等身大チョコレートを前にして「ありがとうございます」とは言える自信がなかった。だからこそ、先のあれが夢で良かったと心底安堵したのである。
「……今日がバレンタインですか」
 だからこそ、妙にリアルでありながらやや現実味に欠けるあんな夢を見たのだろうと自分に言い聞かせながら、パッセンジャーは身嗜みを整え始めた。
「パッセンジャーさーん、起きてますか?」
 鈴を転がしたような、耳に馴染む声がパッセンジャーの耳に届いた。直ぐドアへと向かい、開け放つとそこにはふわふわの白色の耳と尻尾を揺らすフェリーンの姿があった。
「おはようございます! 朝早くからお訪ねしてすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。中に入りますか?」
「はい!」
 そのままルネッタを迎え入れたパッセンジャーはマグカップを用意すると手際よく二人分のコーヒーを作ってしまった。
「いつ見ても鮮やかな手際ですね。いただきます」
 ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレにふうふうと息を吹きかけた後、ゆっくり口を近付けていく。
「火傷をしないよう……遅かったようですね」
 ルネッタの肩が大きく揺れ、直後にパッセンジャーを見たアンバーの瞳は薄らと透明の膜が張っていた。事前に用意していた水を差し出すと頭を下げながら彼女はそれを飲み干した。
「ありがとうございます……やっぱりパッセンジャーさんの淹れて下さるカフェオレは最高ですね」
 マグカップから口を離し、微笑むルネッタにパッセンジャーもまた目を細める。
 それから暫くして温くなったカフェオレを綺麗に飲み干したルネッタは「ご馳走様でした」と告げて流し台にマグカップを下げると改めてパッセンジャーの真隣に腰を落ち着けた。
「そう言えば今日、夢の中にルネッタさんが出てきましたよ」
「え、本当ですか?!」
 途端に耳をピンと立て、尻尾をゆらゆらと揺らし始めるルネッタを見つめながらパッセンジャーは話を続ける。
「ルネッタさんがバレンタインという事でチョコを作って下さったのですが、それが私を模した等身大の物でして……どうやって食べようか悩んでいる所で目が覚めました」
「凄いですね、夢の中のわたし……パッセンジャーさんはを困らせていたのは許せないですけど」
 頬を膨らませて少しばかり憤っている恋人の姿に愛おしさが込み上げてくるのを感じながら、パッセンジャーはルネッタの髪に触れる。
「ふふ、パッセンジャーさんはわたしの髪に触れるのがお好きですよね。お返しです」
 ルネッタの細い指がパッセンジャーの指通りの良い髪を撫でた。まだ明朝な事もあり廊下からは物音ひとつ聞こえてこず、この世界に二人だけ切り離されたかのような──なんて思案していたパッセンジャーの前にルネッタは小さな箱を取り出した。
「遅くなってしまいましたがバレンタインのチョコです。受け取ってくれますか……?」
「ええ、勿論です」
 ピンクの愛らしい包装紙をパッセンジャーは丁寧に開封していく。真っ白い箱を開けた先にはココアパウダーがまぶされたチョコレートトリュフが鎮座していた。
「早速ひとつ頂いても?」
 大きく首が縦に振られたのを視認してからパッセンジャーは口の中に放り込む。途端に口の中にチョコレート特有の甘みが広がっていくが、ココアパウダーの苦味も相まってそれは決してしつこい甘さではない。
「どう、で……」
 どうですか、と続くはずだった言葉を奪ったのは他でもない目の前の恋人で、重ね合わされた舌に目を白黒させている間に舌の熱に溶かされたチョコレートトリュフを流しこまれる。
「っ、ふ……ぁ」
 鼻にかかる甘ったるい吐息を漏らし始めた矢先に漸く解放されたルネッタは顔を真っ赤にして口をパクパクと開閉させながら、パッセンジャーを見つめる。
「『どうですか』と聞きたそうにしておられたので、食べさせて差し上げたまでです。何か問題がありましたか?」
「ありありです! うう〜〜味、分からなかったぁ……」
 顔を伏せそう叫ぶルネッタの顎を捉えたパッセンジャーはライアの双眸を見つめながら、口端を上げる。
 この顔は良くないことを考えている時のだ! とルネッタは即座に離れようとするが、いつの間にか腰に回されていた腕によってそれは叶わなかった。
「まだまだチョコはありますし、幾らでも食べさせてあげますよ」
「いえ、もう……んぅっ」
 その後、やけに上機嫌のパッセンジャーと耳まで赤くしたルネッタの両名が肩を並べて歩く姿が見られたらしいが、それはまたの機会に。



 ロドス艦内の廊下にて、長い赤髪を靡かせている長身の男性──パッセンジャーは険しい表情を浮かべていた。
「パ、パッセンジャー?」
「ん……? ああ、ドクターでしたか。何か御用でしょうか」
 顎の下に置いていた指を下ろし、ドクターに軽く会釈をしたパッセンジャーにドクターと呼ばれた人物は「はあ、良かった」と大きな息を吐き出しながらそう漏らした。
「さっきから廊下の片隅で凄い顔をしていたから、ルネッタと何かあったのかと心配していたんだ」
「ルネッタさんとは何もありません。順風満帆ですので御安心を」
「それならどうしてさっきまであんな顔を?」
 ドクターから目線を外したパッセンジャーの顔が再び険しさを帯びる。
 やはり二人の間に何かあったのかと、唾を飲み込んだドクターに再び向き合ったパッセンジャーからもたらされた言葉は全く予期せぬ物であった。
「ドクターは本日が何の日かご存知ですか」
「今日はホワイトデーだね」
 それが一体……と漏らしたところで聡明なドクターは彼が何を言いたいのか察したのだろう。手を仰け反らせ、パッセンジャーの耳元に口を寄せたドクターから滲む声は実に弾んでいた。
「ルネッタなら『パッセンジャーさんから頂ける物なら、何でも嬉しいです!』って言うだろうなぁ」
「はい。事前にルネッタさんにお返しが何が良いか尋ねたのですが、一字一句違わない返しをされてしまいました」
 パッセンジャーの顔には色濃い困惑の色が滲んでおり、本気で悩んでいる事がドクターの方にも伝わってきた。
 サンドソルジャーと呼ばれ、知略の限りを尽くしてきた男は今まで多くの人間に『贈り物』を渡し、数多の情報を得てきたに違いない。
 それと同一人物とは到底思えない、困りきった彼の姿にドクターはマスク越しに口端を吊り上げた。
「既製品じゃなくてもいいと俺は思うけどな。ライアには日常的に色々贈ってきているんだろう?」
「それは勿論」
「なら普段言えない事を言えば良いと思うよ。俺も人様の色恋沙汰なんて経験無いから偉そうな事は言えないけどさ」
 困った様に頬を掻くドクターの言葉を聞き終えたパッセンジャーのグレーブルーの瞳に強い意志が宿る。
「ありがとうございます、ドクター」
 踵を返したパッセンジャーはしっかりとした足取りのまま、踵を返した男の背をヒラヒラと手を振ってドクターは見送るだった。

* *

「……良かった。上手く焼けたみたい!」
 オーブンから立ち込めてくる香しいコーヒーの香りにルネッタは思わず顔を綻ばせる。取り出した天板をテーブルの上に置きながらふう、と息を吐き出した彼女の耳に部屋の扉が開かれる音が飛び込んできた。
「この足音は……」
 振り返った先には両手に大きな紙袋を持ったパッセンジャーの姿が視界に飛び込んできて、ルネッタは花の様な笑顔を浮かべて彼に駆け寄っていく。
「お帰りなさい、パッセンジャーさん! 丁度コーヒークッキーが焼き上がったところなんです。甘いのが苦手な人にも食べやすいように甘さを控えめにしてみたので、あの……」
「私の為に焼いて下さったクッキーなのでしょう? 喜んで頂きますよ」
 微笑みかけられた途端に頬に朱を走らせ、「あぅ」と呟きながらもこくりと首肯する女性の姿がとても可愛らしく見え、自然と手が伸びてしまった彼はそっと頭を撫でた。途端に揺れ始めた耳と尻尾を見て、パッセンジャーは目を細める。
「今日が何の日かご存知ですか」
 唐突に投げ掛けられた問いに「え? あ、はい。ホワイトデーですね」と答えたルネッタの前でパッセンジャーは徐に手を差し出した。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すルネッタの目を見つめたまま、パッセンジャーは口を開く。
「『何でも嬉しい』と言うのであれば、私が貴方に渡せる物がこれにしか思い付かびませんでした」
 ゆっくりと差し出された包みを受け取った彼女はそれを胸に抱きかかえる。
「開けても良いですか?」
「どうぞ」
 許可を貰うなり包装紙のリボンを解く彼女の目は期待で輝いていた。丁寧に蓋を開けるなり鼻腔をくすぐるのは芳ばしいコーヒー豆の匂いだ。
「今まで作ったコーヒー豆をルネッタさん好みにブレンドしてみました。お口に合うと良いのですが……」
 不安そうに見つめてきたグレーブルーの瞳と視線を合わせながらパッセンジャーは再びライアの頭を優しく撫でる。
「わたしの為にブレンドして下さったんですか? 嬉しい……」
 豆の詰まった瓶を大切そうに抱えて嬉しそうに微笑む彼女を見つめていると、心の奥に暖かい気持ちが流れこんできて、胸を満たすのは確かな幸福感であった。
 ああ、これが愛おしさか。
 今まで他人に対して特別な感情を抱いた事が無かったパッセンジャーにとって、これは大きな衝撃であり、自覚と共に湧き上がってくるのは目の前にいる大切な女性を守りたいという強い想いだった。
「無くなりそうになる頃合いにまた声をかけて下さいますか? まだ飲んでいただきたいブレンドがありますので」
「本当ですか?! 楽しみにしています!」
 屈託の無い笑顔を見せる彼女につられる様にパッセンジャーの顔にも笑みが浮かぶ。大切なコーヒー豆をテーブルに置いたルネッタの口がゆっくりと開かれる。
「わたしはきっと、このテラで誰よりも幸せです」
 真っ直ぐに向けられた金の瞳は眩い程に煌めき、その輝きは何処までも純粋だ。この人を護り抜くと心に誓ったパッセンジャーはそっと手を握り締める。
「これからもずっと、一緒に居て下さいね」
 ルネッタの言葉に無言のままに、ただ穏やかに目元を細めた男の腕が背中へと回される。そのままぎゅっときつく抱きしめられ、ルネッタの顔が驚きに染まった。耳元に感じる吐息がくすぐったくて身じろいだ瞬間、鼓膜に響いたのは優しい声だった。
「ええ、勿論。私も幸せですよ」
 耳まで赤く染まったルネッタの口から言葉にならない何かしらの声が上がり、それを見たパッセンジャーは思わず笑いを漏らしてしまう。
 密着した体を少しだけ離したパッセンジャーから告げられた一言は、彼にとって人生で最大級の愛の告白だっただろう。
「これからも私の側で、共に歩んで下さい」


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極夜