こんなのでも信頼はされているらしい


「凛おはよう。昨日はよく眠れたみたいだね」
「だったらなんだ」
 グラウンドに響く女性の声に糸師凛は大きく伸びをしながら極めてぶっきらぼうにそう答えた。
「担当している選手のコンディションを把握するのは指導者として当たり前の事だからね」
「指導者? サッカーの知識もまともにないお前が?」
 すっかり凛の対応に慣れてしまっている紫月に今の言葉は何のダメージも与えなかったらしい。
 エメラルドグリーンの瞳を向けた凛はわざと大きな音を立てて舌打ちをしたがそれすら慣れてしまっているのか、彼女からは何の反応も得られなかった。
「……まぁいい。それより今日は何だ」
「ウォーミングアップも兼ねてまずはダッシュかな。その後でパス練、シュート練習をして午前中は終わり」
「分かった」
「コーン置いてくるから先に柔軟始めておいてくれると助かる」
 言葉に従ってストレッチを開始した青年の後ろ姿を見た後、紫月は背中を向けた。
 組まれたスケジュールを脳内で繰り返しながら念入りに体の筋を伸ばしていく。
 ドが付くほどのサッカー素人である紫月の指示に従う事に最初は強い難色を示していた凛だったが、彼女なりの指導方法が意外にも凛と合っていたらしく最近では大人しく従ってくれるようになっている。
(こんなもんでいいか)
 薄い唇からふう、と息を吐き出した凛はいつものように腕を組みながらコートに足を踏み入れる。既に他の選手達も練習を開始しており、そんな彼らの横を興味無さげに彼は通過していく。
「お待たせ。ダッシュ始めようか」
 いつものように「ああ」と返事をしてダッシュに移ろうとしていた凛の視界に飛び込んできたのは、紫月の背後から彼女に迫るサッカーボールだった。
 無意識のうちに体が動いた、と言った方が正しいかもしれない。気づいた時には数メートル離れている紫月の元に駆け、強く手を引くと迫ってくるボールとの間に割り込んでいた。
「このヘタクソな球を撃った奴は誰だ」
 地面に転がるサッカーボールを拾い上げた青年は苛立ちを含んだ声を上げると、そのままグラウンドの中に居る選手に鋭い眼差しを向ける。ただでさえ普段から無表情で威圧感があると言うのに怒りの色を浮かべた瞳に射抜かれてしまった彼等は慌てて首を左右に振った。
「俺だ」
「馬狼……」
 紫月の声を聞き取った凛は、すぐにその声の主の姿を探そうと辺りを見回す。彼の目はすぐに赤茶の髪を持つ青年の姿を捉えるとそちらへ歩み寄っていった。
「どういうつもりだ」
 凛の手の中にあるボールを見た馬狼と呼ばれた選手も負けずに凛のエメラルドグリーンの瞳を睨み返す。
「コントロール力のねぇモブだな。そんなんでよく日本一のストライカーを目指そうなんてめでたい事を思ったもんだ」
「あ"? グラウンドの中でのんびりコーン出しをしてたこいつに何も非がねぇとでも思ってんのか?」
 馬狼との距離は徐々に縮まり、互いの胸ぐらを掴み合おうかという距離になる。まさかここで殴り合いが始まるというのか。凛に腕を引かれた衝撃でその胸に飛び込む形になったまま、二人の圧に気押されて微動だに出来ない紫月の背中に冷たい汗が滑り落ちていく。
「凛に馬狼も落ち着けよ」
『外野は引っ込んでろ』
 青い監獄の良心、潔の制止する声すら耳に入らない様子で互いに威嚇し合う二人の間に小柄な体の持ち主が割り込んだ。
「馬狼が近くでシュート練習をしてるのを把握出来ていなかった私に非がある。練習の邪魔をしてごめん」
「分かりゃそれでいいんだよ」
 鼻で笑い飛ばし元の場所に戻っていく馬狼の背中を睨み続けている凛だったがそれ以上言葉を発する事はせず、舌打ちを零して視線を外した。
「ありがとう凛。私の後ろからボールが迫ってるのに気付いて助けてくれたんだよね」
 振り向いて感謝を伝えると、凛は無言のまま紫月の腕を掴んだ。
 突然の出来事に驚きを隠せない彼女の反応を一瞥した凛は「時間を無駄にした。早く行くぞ」と一言告げてグラウンドの方へ引き返す。
「お前に何かあると俺の練習メニューを組む奴が居なくなる。それだけの事だ」
「何かあれば別の人が代わりに組んでくれから大丈夫だよ」
「……紫月以外の奴が組んだメニューをする気はねえって言ってるんだよ」
「え?」
「ダッシュ行ってくる」
 掴んでいた手を離すと、そのまま駆け出してしまう。その足取りに先程までの不機嫌さは無く、何処か楽しげに見えるのはきっと自分の思い過ごしではない筈だ。
 そんな凛の姿に思わず笑みを漏らした紫月は遠ざかる青年の後を追った。


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極夜