彼女バレしました


「凛おはよ……そろそろ離れてくれないと朝飯の支度が出来ないんだけどな」
「もう少し良いだろ」
 自分に引っ付いて離れようとしない凛を何とか引き剥がそうと紫月は身じろぐも当然、男女の体格差や力の差という物に阻まれて思うようにいかず、ベッドに横になったままである。
「良くない! 早く起きて!」
 紫月は必死に抵抗を試みるが、その様子すら目を細め、楽しそうに或いは愛しそうに見ている凛を見ると何をしても無駄だと諦める。
「……気が変わった」
 言葉の通り痛いほどの拘束(凛本人はただ抱き締めていただけに過ぎない)を止めたかと思うと今度は後ろから覆い被さるようにして抱き締めてくる。そのまま顔を近づけ首筋へと顔を埋めるとそこに唇を寄せてきたのだ。これには紫月も驚き慌てて声を上げる
「ちょっ……凛!?」
 チュッとリップ音が部屋に響くと凛はその白い肌にほんのりと紅くなった部分を一撫ですると満足したのか漸く離れた。
「歯磨いてくる」
「あ、うん」
 紫月が呆気に取られているうちに恋人は素早くベッドから抜け出すと部屋を出て行ってしまった。
(本当に自由過ぎる! というかこれ絶対キスマークついたよね?!)
 スウェットの首元を引っ張るとチラッと覗いたそこにはしっかりと赤い跡がついており思わずため息をつくと自身も洗面所に向かうべく立ち上がる。
(今凛と顔を合わせるのは恥ずかしいしリビングに逃げよう)
 先までの距離の近さだとか、自分の心拍数が異常な程跳ね上がってる事とか諸々考える事が山積み過ぎて頭がショート寸前である。
 とりあえず今は落ち着く時間が欲しいと思いつつ、足早に自室を出ると道中にある洗面台には目もくれず紫月はリビングに逃げ込むのだった。

* *

「ねえ凛──」
 朝食を食べ終え二人で片付けをしている時、偶然つけていたTVから凛の声が聞こえてきて紫月は思わず手を止めた。
『糸師凛選手が今回の試合でも我々サッカーファンに素晴らしいプレーを見せてくれました! そして本日は特別にスタジオへお越し頂いております!』
 TVの中の凛は相変わらず無に近い表情で淡々と質問に応えていく。
『この試合を経て更に糸師選手のファンが増えたと思いますがいかがですか?』
『そうですね』
 いつも通りの素っ気ない態度だが女性アナウンサーがそれに気分を害することはなくむしろ食いついており、それを見た紫月は小さく笑う。
(本当に人気あるなぁ)
 ただでさえカッコいいという部類に入る凛なのにその上このクールな態度なのだ、人気にならないわけがない。
 スラッと伸びた長い手足に端正な顔。更には日本代表に選ばれるほどの実力者と来れば約束された人気要素しかないだろう。
(そんな凛と私が恋人なんて、今でも信じられない)
「おい」
「へ? あ、なに?」
 いつの間にやら目の前に居たらしい恋人の存在に驚きつつも平静を保つように努め返事をする。紫月の様子に疑問符を浮かべながら凛は再び同じ言葉を繰り返した。
「何か言いかけただろ」
 問いに対して紫月はある事に思い当たり思わず口籠る。確かに伝えなければいけない事があるのだが何分唐突で、上手く言葉に出来なかったのだ。
「えっと……」
(そうだ。今日友達と出かけるんだった)
「凛、今日の夜なんだけどね」
「あ"? 夜だと」
 明らかに不機嫌になった凛を前にして思わず後込みしそうになるのを踏み止まる。凛の不興を買ったのは自分の発言のせいでもあるが、普段そんなにわがままを言ってもいないし偶にはこちらの主張を通しても良いだろうと意を決して言葉を続けた。
「実は友達と出かける事になって」
「男じゃねぇだろうな」
 間髪入れずに発せられた言葉に紫月は数回目を瞬かせた後、クスリと笑い首を振った。
「違うよ。女子同士だから安心して? 大丈夫だから」
 未だに疑わしげに見つめてくるエメラルドグリーンの瞳を何とか出来まいかと更に紫月は言葉を続ける。
「中学時代からの友達でね、久しぶりに会いたいって連絡が来たんだ。最近忙しくて夜にしか時間が取れないみたいだし……夕飯はちゃんと作っておくから」
 申し訳なさそうな顔をしながらそう告げた紫月に漸く納得がいったのか凛は軽く溜息をつくと言った。
「──まあいい。お前の事だからどうせ断れもしないんだろうが」
「ごめんね、ありがとう凛」
 紫月の言葉を聞き届けた後、彼はふいとそっぽを向いてしまった為、彼女の目には凛の顔は映らない。けれど僅かに紅く染まった耳元から、彼なりに心配してくれている事は分かった。こういう所は昔から変わってなくて可愛らしいと思ってしまう。
「何かあったら連絡しろ。迎えに行く」
「凛に迎えに来てもらうのは……」
「嫌なのかよ」
 眉根を寄せ、むくれたような顔を見て紫月はくすりと笑う。そして凛の目を見つめて言った。
「嬉しいに決まってる。けど、折角の休みを潰させちゃう事になるでしょ? それは嫌だよ。凛にはゆっくりして欲しいもん」
 凛は一瞬目を大きく見開くとフッと笑みをこぼした。その顔はTVに出ている時の凛とは違う優しく穏やかなもので、それを目の当たりにした紫月はドキリとする。
 凛がこんな表情をするのは私だけ。そう思うと自然と心拍数が跳ね上がる。しかしすぐにいつもの仏頂面に戻った凛を見て紫月は心底残念に思ったのだった。
「俺がしたいと思ってやってる事だ、気にするな。分かったな」
 それだけ言って凛は部屋を出て行ってしまった。紫月はその姿を見送ると振動している自身のスマホを手に取り確認する。
『紫月おはよ! 今日はよろしくね』
 視線の先に映し出されているメッセージを確認して思わず口元が緩んでいくのを感じ、慌てて頬を押さえると「よし!」と気合いを入れて部屋を出るのだった。

 それが今から丁度十二時間前の事。
 友人と楽しいお喋りを楽しみにしていた紫月は、今自身の目の前に広がる光景──所謂合コンのそれに愕然とする事しか出来なかった。
「どういう事? 私、合コンなんて聞いてない!」
 友人の服の裾を引っ張り、小声ながらも強い口調で言う。しかし紫月の反応とは対照的で友人達はあっけらかんとした様子で言い放った。
「紫月には言ってないから当たり前だよね」
「合コンとかそういう類いのには参加しないって前からハッキリ……」
「紫月ちゃんって言うんだ! 待ってる間に色々話は聞いてたけど、すっごく可愛いね! 俺は──」
 いつの間にやら隣にいた茶髪の男が馴れ馴れしく肩を抱いてきた事に驚いた紫月は、咄嵯に身を捩ってその腕から逃れようとした。
「ありがとうございます。あの、近いです」
 引き攣っているであろう顔を何とか笑顔の形にして言葉を紡ぐが相手は聞く気がさらさらないらしく、今度は手を掴まれてしまった。
「いいじゃんいいじゃん! ね、それより皆座ってさ、そろそろ始めよ! 全員揃ったでしょ?」
 その男は強引に紫月の腕を引いて空いている席へと案内する。その様子を見た紫月はこれはまずいと内心焦った。
「すみません、私はやっぱり──」
 そう断りを入れようとするものの、時既に遅し。気づけば周りに人が座っており、完全に退路が塞がれてしまっていた。
 そんな絶望感に苛まれる紫月に追い討ちをかけるように幹事らしい女が「じゃあ早速乾杯しようか」と言って来た事でいよいよ紫月は逃げ場を失ってしまった。
(適当にお茶を飲みながら躱すしかないかな)
 既に凛という恋人が居る紫月にとって今回の集まりは何としても参加したくないものだったのだが、かと言ってこの場を荒らすような事をしたいわけでもないし……と諦めて小さく息を吐き出す。
(大丈夫。適当に話合わせてやり過ごせば……)
 そんな紫月の心境を知ってか知らずしてやら、先程からずっと隣に座っている男はニコニコと楽しげに話しかけてくるのだった。

* *

 それから数時間経った今もなお、紫月は愛想笑いをしながら会話に相槌を打っていた。
 正直全く面白くもない。だが自分がここでつまらない素振りを見せれば場の空気を悪くしてしまうかもしれない。それだけ避けたかった。
「紫月ちゃんって歳いくつ? てか連絡先交換してよ!」
「それはちょっと……」
 また一人面倒な奴に絡まれたと内心辟易しながらやんわりと拒否しながら店員が持ってきた烏龍茶を口に含む。
「っ!?」
 それの味が先までの物と異なる事に気づいた紫月は驚きのあまり目を瞬かせた。まさかと手元にある伝票を見ると、それは注文した記憶のないウーロンハイであったのだ。
 どうして、と視線を上げた先にはヘラリと笑う友人達の顔があった。そこで漸く謀られたのだと悟る。
「紫月ちゃんどうかした? 具合悪い?」
 心配そうに覗き込んでくる男に何と返せば良いのかと言葉に詰まりそうになりながら、必死に思考を巡らせる。
「大丈夫です。ちょっと暑くて喉が渇いてしまっだけなので」
 なるべく平静を装いながら答えてみたものの、そっと背中に触れた手は明らかに体調を心配したものではないだろう。
 ぞわっと鳥肌が立ちそうになるのを何とか堪えて作り笑顔を続けると「良かった」と呟く男を見て安堵のため息をついた。
 紫月の友人は彼女の様子が可笑しいことに気付かないのか「次どうします?」などと盛り上がっている。
(外では絶対酒を飲むなって凛にも言われてるし、ここは酔ったフリして帰っちゃおう。そうしよう)
 そうと決まれば実行に移そう。徐に立ち上がった紫月は強い目眩に襲われ、そのままその場に座り込んでしまった。
 身体に力が入らない。気持ちが悪い……。そう感じながらも顔を上げる事も出来ないまま、どんどんと意識が遠のいていくのを感じた紫月だったがそれも仕方がない事だった。
 普段酒を飲まない彼女にとって今口にした飲み物は度数の高いアルコールを含んだものであったからだ。
「紫月?」
「化粧直してくるね」
 ふらふらとおぼつかない足取りで席を立った紫月は歪む視界の中どうにかこうに部屋を出る事に成功するとトイレへと急いだ。
「とりあえず凛に連絡……」
 鞄の中からスマホを取り出したところで彼女はハッとした。
 連絡をして、その後一体どうすればいい? 友人に嵌められたとは言えこんな状況になってしまった以上、彼は烈火の如く怒るに違いない。そう思うと恐ろしくなってスマホを握る手が震えてしまう。だからと言って今の酔いが回った状態で凛の待つ自宅に一人で帰れるかと言われると答えはノーだ。
 どうしよう。このままじゃ迷惑をかけちゃう、早く何か考えないと。そんな焦りだけがぐるぐる回って頭が真っ白になってしまう、その時だった。
 手に握っていたそれのバイブが鳴り、ビクッと肩を揺らす。画面に映し出された名前は今まさに考えていた人物のものであった。
『大丈夫か?』
 たった一言だけのメッセージに胸が熱くなるのを感じながらすぐに返信を打つ。
『ごめん凛、謝らなきゃいけない事がある』
 既読はすぐに付いた。が、それから少しの間があってから今度は着信を知らせる画面が表示された。
「もしも──」
「さっきのアレはどういう事だ。説明しろ」
 通話ボタンを押して出た瞬間に飛んできた凛の第一声はそれだった。
「友達と出かけるって言ってたんだけど……」
「お前、酒飲んだな」
 凛の言葉に黙ってしまった紫月の反応に肯定の意味を見出したらしい彼はため息をつきながら言った。
「すぐ迎えに行くから待ってろ。詳しい話は帰ってからだ」
「ごめんね。ありがとう」
「切るぞ」
 一方的に電話は切られてしまったものの、彼が来るまでの間ずっとトイレに籠っている訳にもいかない。
 友人に一言声を掛けて店先で待ってようと重い足を動かし、店内へと戻った。
「紫月ちゃんどこだろ」
 キョロキョロと辺りを見回すその男はつい先程まで紫月の隣に居座っていた例の男である。そしてそれは他の参加者も同様で、突然戻ってきた彼女に首を傾げていたのだが当の本人はそんな視線には気づく余裕もない。
 とにかく友人の方へ行こう。そう思った矢先に後ろから腕を掴まれてしまった。
「あ、居た居た! この後二次会やるんだってさ! 俺ら以外は先に行ってるって」
 ニコニコしながら話しかけてくる茶髪の男は有無を言わさず紫月の腕を引っ張り強引に歩き出す。
「あの、私ちょっと具合が悪いので帰ろうかと……」
「そうなの? あー残念。じゃあ紫月ちゃんの家の近くまで送るよ」
「えっ」
 何を言っているのだこの人は。そう思いながら思わず振り返ると男は何とも言えないような顔をしてヘラリと笑った。
「そのお気遣いだけ頂きます」
「遠慮しなくていいって! まだまだ紫月ちゃんと話したいしさ」
 男は紫月の手を握ったまま離さない。それが酷く不快に思えて紫月は咄嵯に手を解こうとしたが、それは叶わず、それどころかより一層力が強くなった。
「離してくだ……」
 抗議しようと口を開いた時、背後から誰かの手が肩に置かれたと思うとそのまま強く引かれる。
「人の女に気安く触んな」
 耳に馴染む心地の良い声音と共に抱き締められた身体は温かい。聞き慣れた声と彼から漂う香りがふわりと鼻腔をくすぐり、強張っていた身体から力が抜けていった。
「凛……」
 ぽつりと名前を呼ぶと抱きしめられた身体はそのまま横へとずれて、凛の胸に頭を預けるような体勢になった。
「中々店から出てこねぇから見に来た。車まで歩けるか?」
「ん、大丈夫」
「なら行くぞ」
「ちょっと待ってくれ!」
 二人の会話を遮るようにして割って入ってきた男の声は若干上擦っていて、凛はそちらを興味なさげに見つめている。
「も、もももしかしてこの人って糸師──」
「あ"? まだ居たのかよモブ野郎。さっさと失せろ」
 凛の容赦ない言葉と威圧感に気圧されたのか、その男は何も言い返すことなくすごすごと退散していった。その姿を見送った後、凛は紫月に向き直り腰を抱くようにして支えながら駐車場へと向かった。
「凛ごめんね、巻き込んじゃって」
「別にいい。それより体調は?」
「まだちょっと頭ふわふわしてるけど大丈夫」
 車の助手席に乗せられシートベルトを締めながら答えると、凛は安堵したように息を吐いたが依然その目は鋭い。
「そんな顔真っ赤にしてフラついてる奴が大丈夫なわけあるか、アホ。家に着くまで寝とけ」
「うん……ありがとう」
 凛の言う通り、瞼を閉じると途端に眠気が襲ってきてそのまま意識を手放した。
 ──次に目を覚ましたのは見慣れたリビングのソファの上だった。
「とりあえず水持ってきたから飲め」
 ぼんやりとする頭に恋人の声が響く。言われるがままにゆっくりと起き上がりテーブルに置かれたグラスを取ろうと手を伸ばしたのだが……。
「なんでグラスが3つもあるの?」
「は? どれだけ酔いが回ってんだお前は」
 訝しむ表情をしている凛を横目に相変わらず顔の赤い紫月はぼんやり熱に浮かされた目を彼に向け、こう言い放った。
「飲ませて?」
 いつもなら「甘えた事言ってんじゃねぇぞ」等と言いながら拒否してくるのに、今日はどういう風の吹き回しなのか、目の前の凛は呆れた様子ではあるものの特に嫌がる素振りもなくこちらへ近付いてきた。
 どうしたんだろう、珍しい。そんな疑問を抱いているうちに水を口に含んだ凛の顔が迫ってきて、紫月の唇を塞いだ。
「ん、」
 冷たい水が喉を通り過ぎていく感覚にふるりと身を震わせながらも流し込まれるそれを飲み干していく。
「もっと……」
 一度口を離してそう催促すると、今度は先程よりも多めの量を飲まされる。何度かそんな事を繰り返してから漸く解放されると、息をつく間もなく再び深く口付けられ舌を差し込まれた。
「ふ、ぁ」
 絡め取られる舌先にびくりと肩が跳ねるが逃さないと言わんばかりに押さえつけられてしまい、口内を貪られる。歯列の裏まで舐められ上顎をなぞられてぞくぞくとした快感が背中を走り、無意識のうちに身体をくねらせてしまう。
「りん……」
 口の端に伝う銀糸を拭いながら未だどこか夢現な瞳で見上げる紫月の姿に凛は思わず生唾を飲み込んだ。
 自分から求める事は滅多にない紫月からの誘いに抗える筈もなく、凛はそのまま細い肩を押し倒そうと腕に力を入れた瞬間、彼女の方から小さな寝息が聞こえてきた。
「……おい」
 すやすやと眠る紫月を見て凛は大きなため息をつくと起こさないように注意しながらそっと彼女を抱き上げ、寝室へと向かうべく足を動かし始めた。

* *

 翌朝、重たい目を擦りながらSNSを何気なく開いた紫月は目に飛び込んできた内容にベッドが軋むのも気にせず、勢いよく体を起こした。
『熱愛?! 糸師凛選手、女性を自宅へ連れ込む決定的瞬間を激写!!』という見出しが写真付きで掲載されていたのだ。しかもご丁寧にあの店の外観の写真まで貼られている。
「り、凛!!」
「うるせぇ。朝から騒ぐな」
 隣に居る人物の名前を呼ぶとすこぶる機嫌の悪い声音と共に睨まれたが今はそんな事を言っている場合ではない。
 急いでテレビをつけると、どの局も画面いっぱいに記事の映像が流れていた。
「どうしよこれ……」
 当の本人は涼しい顔をしていて何を考えているのか全く読めず、不安と焦燥感だけが胸の中を埋め尽くしていく。
「凛」
 恐る恐るもう一度名前を呼ぶと、凛は大きく息を吐き出しこちらを振り向いた。
「この際だからハッキリ言っとく。紫月との関係を隠す気もなければマスコミの奴らが面白おかしく騒ぎ立てても構わねぇって思ってる」
 淡々と告げられたその言葉を聞き終わる頃にはすっかり冷静さを取り戻していた。だがそれはほんの一瞬の事で、続く凛の言葉にまた頭が沸騰するような思いになった。
「俺は紫月しか見てねぇ。これから先もだ」
 真っ直ぐに見つめてくる双眼には一点の曇りもない。その言葉に嘘偽りがない事など百も承知だったのだが……それでもやはり恥ずかしくて紫月は布団に潜り込んでしまった。
「凛のそういうところ、本当に狡い」
「あ? 文句あんのか」
「ないです……」
 顔を出す勇気がない紫月はそれだけ言うだけで精一杯だった。
「電話か」
 携帯の着信音が静かな室内に鳴り響く。それを聞いて小さく溜め息を吐き、携帯を手に取った凛だったが相手を確認するとすぐに耳に当てることなく通話ボタンを押した。
「……分かった。今から行く」
 短く返事をしてそのまま切ると凛は立ち上がる。
「会見を開く事にした。行ってくる」
 玄関へ向かう恋人の後を慌てて追った紫月は靴を履いている凛に声を掛けた。
「少し待って」
 振り返ったその顔に迷いはない。凛ならどんな困難にも立ち向かっていけるだろうと確信に近いものがあった。そしてそれは決して自分の勘違いではないだろう。
「気を付けてね」
 そう伝えてぎゅっと抱きつく。背中に手を回されて優しく頭を撫でられるこの感覚が好きだ。まるで子供みたいだと思うが、こうしてもらうのは心地が良いのでもう少しこのままでもいいかもしれないと思いながら、紫月は暫くの間そうしていた。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
 扉が閉まるのを見届けてからリビングに戻った紫月は放置してしまっていた食器の後片付けを始めるのだった。

 その日の夕刊の見出しが『熱烈告白! 糸師凛、最愛の女性は一般女性!!』になったのはいうまでもなかった。


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極夜