背中に刻まれた
ライアにとってドクターの存在は絶対無二なものである。
話の流れでそれを聞いたオペレーターから何故? と尋ねられた彼女はあっけらかんと答えた。
「わたし、ここに来るまでの記憶がなくてね。ドクターが拾ってくれてなかったら野垂れ死んでただろうから」
だからドクターの指示は絶対従おうって決めてるの。
グラスに注がれた甘いカフェオレをストローでくるくるとかき混ぜながらライアは続けた。
それを聞いていた知人がじゃあさ、と口を開く。
「大好きなパッセンジャーさんより、ドクターの方が大事なんだー?」
その言葉にアンバーの瞳を瞬かせ一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、小さく吹き出した。
「パッセンジャーさんとドクターはまず『好き』も『大切』のベクトルも別次元だからね。どっちが大切なんて決められないよ」
困ったように眉をハの字にしてそう答えた彼女に周りの友人たちは納得したようなしていないような曖昧な返事をしていたのをよく覚えている。
「ライアはパッセンジャーさん大好きだもんね、ご馳走様〜」
「もう!冷やかさないでよ!」
なんて返したわたしの言葉に彼女はどんな言葉を返したんだったっけ。
「……い。おーい」
ふっと意識が浮上する感覚があった。目の前には端正な顔を持つ男性がライアの前で手を振っていた。
そこでようやっとナンパされていた事を思い出したが、ライアにとってかっこいい・顔が整っているの基準はパッセンジャーで、それ以外の男性は皆等しくモブ。興味がないどころか視界に入ってすらいない。
(パッセンジャーさん遅いな……)
いつもであれば必ず先に待ち合わせ場所に着いているのだが、今日に限って恋人はまだ姿を見せておらず何かあったのではないかと心配になる。
「ねえ聞いてる?」
どうやら思考の海に浸りすぎていたらしい。目の前の男性が再び話しかけてきている事に気づかず、彼の機嫌を損ねる結果となってしまったようだ。
最も仲間とパッセンジャー以外の機嫌がどうなろうが知った事ではないライアからするとそれすらどうでもいい事ではあるのだけれど。
「さっきから返事もしない上に全くこっち見ないしさ……可愛いけどちょっと失礼じゃない?」
可愛いと言われても嬉しくはない。むしろ不快だとさえ思う。
それはパッセンジャー以外に言われたくない言葉であり、この軽薄そうな男性に言われたところでちっとも心に響かない。それに、今ライアが求めているのは他の誰の評価でもない、パッセンジャーからの評価と褒め言葉である。
(……面倒だなぁ)
思わず口から嘆息が漏れる。
パッセンジャーの為なら何十分、何時間でも待てる自信はあるのだが目の前の男の声を聞き続けるのは正直苦痛以外の何物でもない。どうしたものかと思案し始めたライアの手を男が掴む。
「まあそんな冷たいところも可愛いんだけどさ」
必死過ぎるでしょ、気持ち悪。
咄嵯に出そうになった罵倒を飲み込み男の手を振り払おうとした時だった。
「遅くなりました」
聞き慣れた声と共に腕を強く引かれ、ぽすんと誰かの腕の中に収まる感触がしてそろりと視線を上げればそこには焦がれていた愛しい男性の姿があった。
「遅刻の連絡を入れず申し訳ありません。緊急性を要する仕事が入ってしまい急いで片付けてきたのですが……」
「いえ大丈夫です!」
ぐりぐりと胸に頭を押し付けると優しく撫でられる感触があって、それが心地よくてつい甘えたくなる衝動を抑えるのが難しい。
「おい」
背後から聞こえてきた地を這うような低い声音にライアの耳がピクリと揺れるがパッセンジャーは気にせず言葉を続けている。
「行きましょうか。今日をとても楽しみにしておりました」
「……はい!」
先程までの無表情さが嘘のように満面の笑みを浮かべたライアはパッセンジャーの左腕にしがみつくようにして歩き出す。
「待てよ!」
当然それを良しとしない男はパッセンジャー達前に立ち塞がり行く手を阻んだ。
「お前誰だよ!俺の邪魔をするんじゃねぇ!」
「ライアさんが楽しみにされていたお店ですが、軽食からディナーまで幅広く提供してくれる人気のお店のようですね。予約必須だと聞きました」
(視界にすら入れてない……)
男を存在しないものとして扱うパッセンジャーにライアは苦笑いを浮かべつつ話を合わせる。
「ランチタイム限定でデザートバイキングもあるみたいです!コーヒーにも拘っていましたよね?今から行くのが楽しみです!」
「無視するなよ!」
苛立ちを募らせた男の手がパッセンジャーの肩を掴んだ瞬間だった。
「汚い手でパッセンジャーさんに触れないでくれませんか?」
「は?」
今まで聞いたことのないような底冷えするようなライアの声にパッセンジャーですら驚きで目を見開いた。
「ライアさん?」
「聞こえませんでしたか?パッセンジャーさんに触れるな、と言ったんです」
普段の可愛らしい彼女からは想像できない程の威圧感に気圧されたのか、男はパッセンジャーから手を離すと後退りを始めた。
「行きましょう、パッセンジャーさん!」
「ええ」
男を一瞥し去っていくパッセンジャーと視界にすら入れず、存在そのものを抹消したように扱うライア。二人背中が見えなくなった頃、ようやく我に帰った男が慌てて追いかけようとするも、それは叶わなかった。
「くそっ……なんなんだよ……!」
底冷えするような瞳を思い出し、足が縫い付けられたかのようにその場から離れられなくなったのだ。
まさか異性からの眼差しでここまで恐怖を覚えるとは思ってもいなかったのだろう。ガタガタと震えながらその場にへたり込む男が居るなど知る由もない二人は言葉を交わしながら歩いていた。
「改めてさっきはありがとうございました」
「恋人を助けるのは当たり前の事ですよ」
「へへ……嬉しいです」
パッセンジャーの腕に擦り寄って甘えるライアはまるで子猫のようだ。
(本当にかっこよかったなぁ、さっきのパッセンジャーさん)
上目遣いで見つめてくるライアにパッセンジャーは一瞬驚いた表情を見せた後、ふわりと微笑んで見せた。
「ライアさんのそういう素直なところ、好きですよ」
「わたしはパッセンジャーさんの全てが大好きです!」
目的のカフェまでもうすぐだ。早く行かないとデザートバイキングの時間が無くなるかもしれないという懸念もあるが、それよりも今はパッセンジャーとのデートを心ゆくまで楽しまなければとライアは意気込むのだった。
prev next
[back]
極夜