彼女の魂は俺のモノ


鳥の囀りを聞きながら体を起こす。
未だぼんやりと意識の定まらない中でも明確に痛みを訴えてくる頭部にいよいよ風邪をひいてしまったのだと自覚する。
意識が鮮明になっていくにつれて鼻が機能していないことと、視野が霞みがかっていることに気が付く。
かといって当日になって仕事を休みたいだなんて我が儘は館長にも、ネコにも多大な迷惑を掛けてしまう。

ふらふらと頼りない足取りで立ち上がり救急箱の中にある特別きつい漢方を取り出した紫月はゆっくりと冷蔵庫まで歩み寄ってミネラルウォーターを取り出すとそれを一気に飲み干した。
今日1日頑張れば明日は休みだと自分に言い聞かせながら。


「こんにちはー!マスクなんかして何かあった?」
「太宰さんこんにちは。喉の調子がよくなくてちょっと声が出しづらいんです」
「ふぅーん……先日俺が紫月をイジメすぎたのが原因かなぁ」
頬に赤みが増し、何か言いたげに口をもごもごさせている紫月にうそうそ、ジョーダンだって!と言葉を返す太宰に紫月は黙り込んでしまう。
反論のひとつやふたつを待っていた太宰も訝しげな表情を浮かべ、俯いてしまった紫月の顔を覗き込んだ。

「紫月?おーい聞こえてる?」
昼食時に薬を飲み忘れている事に気が付いた紫月は額に幾重もの脂汗を滲ませ、背中に走る悪寒とじくじくと痛む頭痛を堪えながら首肯する。
口から吐き出した吐息は熱く、朝より状態が悪化しているのは火を見るより明らかであった。

「そろそろ失礼しますね。太宰さんも引き続きお仕事頑張って……」
床を踏みしめているはずの脚が酷く歪む。
ぐにゃぐにゃに湾曲した紫月の視野が突如として暗澹に包まれた。

「紫月!おい、紫月!!」
暖かな手が自身の体を包み込んでいるのを感じながら紫月は深い闇の中に意識を手放した。

***

重い瞼を押し開いた先に映るのは自分が毎朝見る、見慣れ過ぎた天井だった。
体を起こそうという気は微塵も起きない。
それ以上に鉛を仕込んでいるのではないかと錯覚してしまうほどの倦怠感が全身に蔓延していた。

「目を覚ましたんだな」
「太宰さん。私、仕事の途中で……」
「39℃越えの高熱だとさ。朝の時点で顔色酷かったしずっと見てて本当に良かった。みんな言わなかっただけで紫月の不調を気にかけてたんだぜ」
「あはは、そうでしたか。皆さんにはバレバレだったんですね」
「マスクも顔色の悪さを隠すためにしてたんだろ?そこまで体調が悪いなら当日だろうとなんだろうと休みゃいいのに……それをしないのが紫月なんだよな」
温くなった額のタオルを取り上げ、氷が浮かぶ桶に浸す。
それを絞り再び額の上に乗せてやると紫月がふにゃりと脱力しきった顔になった。

「……紫月が倒れたあの時、今まで感じた事の無い不安と置いていかれたのかもしれないって漠然とした、途方もない絶望に襲われた」
頬に伸ばされた太宰の手はひやりと冷たく心地がいい。
タオルが落ちない範囲で首を太宰の方に傾けると男は伏し目の状態で血が出てしまうのではないかと思うほど強く、唇を噛んでいた。

「紫月は普通の女性だ。だから今日みたいに病に冒される事もこの先沢山あると分かってはいる。だけどもし、それが原因で先に逝ってしまうような事があったら俺は……この魂が焼き切れるその間際まで紫月を恨み続ける。俺と最期まで一緒に居ると約束した人が傍に居ないことが許せない」
「だざい、さん……」
「……病人に吐露していい内容じゃなかったな。そろそろ薬も効いてくる頃だろうし、今日はゆっくり休んで明日には愛らしい紫月の笑顔を見せてくれ」
おやすみの言葉と共に額に寄せられた柔らかい感触に紫月は己の瞼がゆっくりと落ちていくのを感じた。
それから少しして寝息をたて始めた紫月のいつもより蒼白い華奢な手に指を絡め寝顔に見入っていた太宰の唇が音を形作る。

「死ぬ時は一緒だって約束したもんな。例えそれが哀れと思って紡がれた言葉だったとしても俺は、紫月を信じてるから」
紫月が映りこむ男の瞳に、光は灯っていなかった。


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極夜