微睡みは優しい


世は群雄割拠する三国鼎立の時代。
兵として戦場に駆り出されて父を喪い、自分と同じように女手ひとつで育てられた赤子はきっと多いのだろう。……全ては私の憶測の範囲内でしかないけれど。
元々体が強い方ではなく、心労との兼ね合いもあり母は数年前に私を残してこの世を去った。


「今日まで培ってきた知識の全てを貴女に伝授します」
今より一回りほど小さな私は母の言葉を理解しきれず、大きな目を見開いてじっと最愛の母の顔を見つめている。
そんな私の髪を愛おしげに撫でながら薄汚れ擦り切れた……かなりの年季の入った書簡を小箪笥から取り出し、母は言葉を続ける。

「いつ何が起きるか分からない時代だから紫月には必要最低限の知識と生き抜く術を身に付けてもらいたいの」
今思い返せばあの時から既に母の体は病魔に蝕まれつつあったのかもしれない。
蒼白い顔で、細く筋張った指で書簡を開きながら母は蒼色の瞳を細めた。

「こう見えてお母さん昔はちょっと凄いところで薬師として働いていていたのよ」
「ふぅん」
愛娘からの関心なさげな、嘘か真か計り兼ねているような視線を受け流しながら母は薬草学の何たるかを説き始めた──。

**

薄灰の天井が視界に広がっている。
申し訳程度の掛け布団を頭から被って目を閉じ、先まで見ていた亡き母の幻想を思い起こす。
家を後にする前に箪笥から出てきた困窮を極めていた我が家に分不相応な小物……窓から差し込む陽の光を反射し、きらきらと光を放つ深い蒼色の宝石を厖大にあしらった髪飾り。
どういった経緯で母の手に渡ったのか知る由もなく、唯一の形見として年頃の女子のお洒落として密かに身に付けている髪飾りを取らんと硬いベッドから起き上がった。

「次から泊まる宿はよく吟味としよう」
手櫛で髪を整え後ろで一纏めにした髪にそっと髪飾りを差し込んで目深に頭巾を被る。
母が亡くなった後も戦火は落ち着くという事を知らず、国同士の対立は激化の一歩を辿っていた。
そんな環境下で女がひとり旅をするなんて自殺行為にも等しいわと話し、母は性別を偽りなさいと言葉を続けた。
背丈ばかりはどうしようもないが外を出歩く時は声を低くし、歩き方をそれらしくするなど工夫をしたうえでこの頭巾を被っていればまず女だと気付かれはしないし。

「洛陽に着いたら久しぶりに街の中をゆっくり散策しよう」
各地を転々としながら自作の薬を売って生計を立てる。
その日暮らしで毎日大変だが、最近は人伝てで薬の効能の高さと私の名前が広がってきているようで色々なところから声がかかる。
今日薬を渡す初老の男性もその一人で、その人と会うのは……二月ぶり程になるだろうか。
あの時より少しでも体調が良くなっていることを祈りながら紫月は宿を後にした。


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極夜