転倒注意!
暖炉から響くパチパチという牧の爆ぜる音を聞きながら紫月は椅子の背もたれに背中を預け、大きな伸びをした。
館長から頼まれていた火急の用事も済んだ事だし、少し気は早いけれど今夜の献立でも考えようか。
「今日みたいに一段と寒い日には鍋……すき焼きにしようかな」
そんな彼女の声をかき消してしまう程の轟音が突如室外から響いた。
あまりにも大きな音に危うく肘でインクを倒してしまいそうになったが、何とか最悪の事態は避けられたようで胸を撫で下ろす。
膝上に掛けていたブランケットを椅子の上に畳んで席を立つ。
室外に出た瞬間全身を襲う冷気にぶるりと身を震わせながらエントランスを介し、外へ出た。
薄ら雪化粧を纏ったその中に佇むこれまた真っ白な男性──志賀直哉の姿を捉えた紫月は彼に声を掛けながら歩み寄ろうとした。
「志賀さん……」
「こっちに来るんじゃねえ!」
先とはまた違う理由で体を震わせた紫月の視界が反転する。
「例年以上の冷え込みで路面が凍結する地域もありそうです。転倒には充分お気をつけ下さい──」
脳内で再生されるニュースキャスターの言葉にそっと瞼を閉じた。
「紫月まで俺の二の舞になるつもりか?」
どこかおどけたような声色が頭上から振ってきて恐る恐る目を開く。
転倒する直前に感じた温もりは自分の勘違いじゃなかった、抱きとめてくれた志賀にお礼を言おうとしたところで彼の言葉がひっかかった。
「志賀さんの二の舞?……あっ!」
「そこで俺も足?いや車輪か?まあどちらにせよすっ転んでな。立ち上がった直後にあんたが来たから同じ目に遭わないよう制止をかけたんだが、ちょっと遅かったみたいだな」
「と、いうことはどこか怪我をなさったのですね!?今すぐ処置しましょう」
一気に距離を取った紫月は志賀の頭の先から爪先まで何度も視線を送り、右手から滴る鮮血に息を飲んだ。
「そこまで酷い傷でもないし大丈夫だぞ」
「それを判断するのは私です!自転車は一旦ここに置いて、と……さあ参りましょう!」
志賀の左手を掴みずんずん歩き始めた紫月の背中に大袈裟だなと嘆息をつく。
一方で彼女が自分の身を案じてくれている事に歓喜しているのも紛れもない事実なのだと僅かに緩んだ唇が証明していた。
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「本当の本当にそこだけですか?嘘はダメですよ」
「あんた意外と疑り深いな。本当にここだけだ。咄嗟の事ながら受け身も取れたし」
「(……志賀さんから受け身の取り方教わろうかな)」
無事処置を終えた紫月はすっかり冷えきってしまった体に再び熱を灯そうとティーカップに湯を注いだ。
「私の独断で紅茶にしてしまいましたが大丈夫でしょうか?」
「おう、ありがとな!」
ティーカップから立ち上る紅茶の香りを楽しみながら火傷しないよう程々に冷まして唇をつける。
彼女に倣って紅茶を嚥下した志賀に夕焼け色の瞳が注がれた。
「どちらまでお出かけする予定だったんですか?」
「今日はいつもにまして寒いだろ?だから鍋とかすりゃ体が温まると思ってチャリで遠出するついでに食材を買いに行こうかと考えてたんだ」
「奇遇ですね!私も今日は鍋にしようと思っていたんです」
「案外似たもの同士なのかもしれないな俺達」
お互いに柔らかな笑みを零す二人を穏やかな空気が包む。
それならよ、と言葉を続けた志賀はティーカップをソーサーに置くとニイっと口端を上げて白い歯を覗かせた。
「この後一緒に買い物行くか。それなりの荷物になるんだろ?」
「志賀さんの自由時間を私の為に使っていただくのは……」
「大した用もないし気にすんなって!最近何かと物騒だし万が一に備えてだよ」
「それでは直ぐに支度しますね!」
わたわたと室内を走り回る紫月に転ぶんじゃねえぞと言葉を掛けた直後、段差で躓いた彼女の腰に腕を伸ばした志賀は深い溜め息をついた。
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極夜