安室透に翻弄される


「(これで終わり、かな?)」
水気を絞ったモップで乾拭きを施した床は天上の明かりを受けて、艶艶と輝いている。
「お疲れ様です紫月さん」
「今日も相変わらず凄いお客様でしたね。安室さんもお疲れ様でした」
エプロンの紐を解きながら姿を見せた安室に紫月は深々と頭を下げた。
閉店の手筈を終えて一息つき、最後の後片付けをしようとバケツを持った紫月の耳に届いた言葉を何気なしに復唱する。

「……そのディナーのお誘いは私に対してでしょうか?」
とびきりの笑顔と共に頷き「はい」と返す彼に吊られて、思わず首を縦に振ってしまいそうになる。

「この後、どなたと会うご予定でも?」
「あ、いえその……」
彼と二人きりでディナーだなんて自殺行為にも程がある。
以前安室さんと二人で買い出しに出た梓さんが目もあてられない凄惨な被害?に遭っているのはよく知っているので可能であれば"二人きり"という最悪の状況には陥りたくないし、そういう類いは全般的に御免被りたい。

──そんな考えも彼は全てお見通しなのだろうか。
以後、口籠もったまま視線を床に落としていた私の指をじんわりとした熱が伝う。
弾けるように顔を上げると筋張った安室さんの指が私の指と絡みついている。

「紫月さんと是非一緒に行きたいと前から思っていて……既に予約もしてあるんです」
パチン、と飛ばされたウインクに紫月の心は容易く射抜かれた。
近い場所にある美青年の顔を見ないよう顔を背ける紫月の顔が耳まで真っ赤に色付いている姿に、安室透は柔らかく微笑んでいた。

***

高そうな車に乗せられ、更にさり気なく肩に手を回されながら連れてこられた建物は外観から高級店だと物語っていた。
予約、と聞いた時点で多少覚悟はしていたけれど規模が大きすぎる。
仕事終わりでヨレヨレの顔と服のまま足を踏み入れてもいい空間ではないはずなのに、紫月の足は彼にエスコートされるがまま。

あれよあれよと席へ案内され出てくる高級料理に目を輝かせ咀嚼している間も感じる薄水色の瞳に首を傾げながら、紫月は一度ナイフとフォークを置いて大層美しい瞳を見つめ返す。

「安室さんも食べましょう?折角の料理が冷めてしまいますよ」
「紫月さんがあまりにも幸せそうな表情をして食べられるので、見惚れていました」
返ってきた言葉に再び熱を帯び始める頬。
急いで手にしたお冷が一秒も早く火照りを沈めてくれるのを願いながら、喉奥に流し込んだ。


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極夜