安息の場所
「柳瀬です」
鳴動する携帯に表示された名前を見るより早く通話ボタンを押した紫月の耳には、いつまで経っても何の音も届かない。
迷惑電話かと通話を切ろうとした時いつもより何倍も低く、掠れた声がスピーカーを震わせた。
「……紫月?」
「はいそうです。何か……」
「今、仮眠室に居る」
上司にあたる降谷零は聞き返す時間すら与えず、ぶつりと通話を切ってしまった。
自身が今居る仮眠室に来いという事なのだろう。ほんの少しでも構わないからこちらの都合も考えて欲しいものだ。
「降谷さんから呼び出しか?」
「はい。大変申し訳ないのですが、この件風見さんにお頼みしてよいでしょうか」
「あの人に呼び出されたのなら仕方がない。こちらの事は気にせず行ってこい」
風見の頼もしい言葉に頷き深々と頭を下げた紫月は手元の書類を纏めあげ、それを風見に渡すと駆け足で仮眠室を目指す。
「(仮眠室で仮眠をとってる時くらい仕事の事を忘れたら……なんて道理がまかり通る人じゃないか)」
見えてきた仮眠室の扉の前で立ち止まり三回ノックをした後、再度そこで名乗る。
奥から聞こえてきた入室を促す声に凛とした声で返事をしてから、ドアノブに手を掛けた。
仮眠室は貸切状態で目の焦点がやや定まっていない、どこかぼんやりとした様子の降谷がそこに居た。
ネクタイを緩めボタンを開いたシャツから覗く褐色の肌をなるべく直視しないよう、要件を聞いて即座に退出しようと考えた紫月の薄いピンクの唇が開く。
「仮眠室にまで呼び出すだなんて、一体何の御用でしょうか?」
「今は俺と二人きりなんだしその堅苦しい敬語はやめろ」
「公私混同は絶対にするな、と仰ったのは降谷さんの方じゃないですか」
そう言えばさっきまで一緒に居た風見さんが「降谷さんが連日徹夜してるし、どうにかして寝てもらわないと……」とかぼやいていた気がする。
普段太陽の光を浴びて煌々としているスノーブルーの瞳が虚ろな事も、キレ者である降谷零の脳の回転が落ちて過去の発言を忘却してしまっているのにも納得がいく。
仮眠室の質素で硬いベッドに腰を下ろし、こちらを見据えている降谷の瞳が据わっていることに暫くして気が付いた紫月は一秒も早くこの部屋から退室したいという気持ちに駆られ、捲し立てるように再度同じ問いかけを投げた。
それによって降谷の目尻が吊り上がり眼光が鋭くなったことに小さく悲鳴を発した紫月に男の靴音が近付く。
「(降谷さんはきちんと場所を弁える人だし、こんな所で私を求めてくるはずが──)」
そんな考えは彼の口付けによって奪い去られる。
いけない、この流れは本当に宜しくない。
彼に手を引かれるがまま、狭い仮眠室のベッドに押し付けられ紫月に覆いかぶさるように降谷もまたベッドに横たわって……る?
「ふ、るやさん……?」
そんなに強く後頭部に腕を回して密着させてしまったら、降谷さんの服が私のファンデーションと口紅で汚れてしまいますよ。
続くはずだった言葉は更に強くなった腕の力と、彼の静かな寝息によって喉奥で留まった。
常に神経を研ぎ澄ませている彼がこんな穏やかな表情で安眠しているのだ。
それに彼の服を汚した要因を洗濯するのは間違いなく私なのだろうから、もういいか。
どうにかこの腕から抜け出せないものかと思案するも後ろは無機質な壁、目の前には体格のいい成人男性と頭と腰に回された逞しい腕。
ふぅ、と息を漏らし降谷の目の下を撫でると擽ったいといわんばかりに震え、彼は固く縛っていた口の端を綻ばせた。
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極夜