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いつも通りポアロの扉をカラカラと鳴らしながら入店すれば、それはそれは眩しい安室さんの笑顔と「こんにちは紫月さん。お待ちしていました」という言葉に出迎えられながら定位置になったカウンター席に腰と荷物を落ち着かせて「いつものをお願いします」という流れに本日もなるはずだった。
カラカラと鳴った店内には珍しく客の姿が一切なく、いつも「いらっしゃいませ!」と弾んだ声を掛けてくれる梓さんの姿もない。

「紫月さんとすれ違うように買い出しに行かれてしまって……じきに帰ってこられると思いますよ」
考えが思い切り顔に出ていたのかくすくすと笑い声を漏らしながら、私が注文するより早くカップに珈琲を注いだ彼はそっと隣にカットケーキを添えた。

「いつも足を運んで下さっている紫月さんに特別サービスです。幸いにも今このお店には僕達しか居ませんし、ね」
「本当に良いんですか!?ありがとうございます!」
程々に疲労を感じていた私には僥倖以外の何ものでもなく、ウインクを飛ばしている安室さんに何度も感謝の言葉を述べながら特別サービスのケーキに早速手を伸ばした。
先程まで雲一つなかった空が灰色の分厚い雲に埋め尽くされ、ぽつぽつとアスファルトを濡らしていたのが瞬く間に豪雨へと化してしまった。
ガラスを叩く雨音に耳を澄ませながら突然の土砂降りに見舞われた梓さんは大丈夫かなぁなんて考えていると、表情を引き締めこちらを見据えている安室さんと視線が重なる。

「……本当は僕、公安の人間なんです」
その声が雨音でかき消されてしまったらどれだけ良かっただろう。
口に運ぼうとしていたイチゴがフォークから転がり落ちる。
普段の声量と声色で同じ内容が紡がれていたのならまだ、冗談として聞き流す事も出来た。

目の前に鎮座する紫月にしか聞こえないように声を潜め、もたらされた言葉は決して嘘偽りではなくその情報が機密事項に該当するのだろうと悟った紫月は脳の引き出しを漁り"公安"が何なのかを考え始める。
それより何よりそんな極秘情報を只の常連客である自分に彼が漏らした理由やメリットを全く見いだせず、返答を探してる間に安室はすっと目を細めた。

「今この瞬間から紫月さんは僕の秘密を知り得てしまった"共犯者"です。大変申し訳ないんですが貴女はこの瞬間から今まで通りの生活は送る事は出来ません」
そんなご無体な!こちらから安室さんの素性を根掘り葉掘り聞き出したわけでもなく、突然そんな話を聞かされた私の身も考えて欲しい。
目の前にチラつく鈍色の鍵と安室さんを見比べていると「僕の家の合鍵です」と穏やかな顔のまま、半ば強引にその鍵を握らせてくる。

──この時、この瞬間から紫月という女性の未来は確立されてしまったのかもしれない。
「今日は夜から雨になって客足も遠のくでしょうし僕一人で大丈夫だと梓さんを上手く丸め込んで彼女には早く上がっていただいたんです。……帰りましょうか紫月さん」
手を絡め、連れてこられた建物を前に呆然と立ち尽くす紫月に「今日から貴女もここに住むんですよ。公安の人間と関わっていると知れたら紫月さんにも少なからず火の粉が飛び掛るでしょうし……荷物運びは僕も手伝いますから安心して下さい」と本人の意思なんて関係なく、とんとん拍子に話は進んでいく。

気が付けば『降谷』という表札のある一軒家で暮らすようになり、謎の流れで紫月の名字も降谷になっていた。
あの雨と共に差し出された言葉と合鍵が彼なりのプロポーズだったのだと気付いたのは、大分後になってからだった。

***

安室……降谷さんが自身が所属する警察庁警備局警備企画課、通称『ゼロ』の話と今日に至るまでの経緯を聞いた夜は情報過多で頭が爆発するかと思った。
それに先程も言ったように至って普通の常連客である私にそんな重要な立ち回りを告げ、更には安室透は偽名だと明かして良かったのか?と爆発しかけの頭で問い詰めたところ涼やかな顔で「紫月さんとこういう関係になりたいとずっと思っていたので、強引だと分かっていながらこの手段を取らせていただきました」と返された時は心音がとにかく凄かった。

「もし私が降谷さんに微塵の好意も寄せていなかった時はどうするつもりだったんですか?」
「順序は逆になりますが籍を入れた後でも僕を好きになってもらえばいい話わけですし、何も問題はないですよね 」
その自信は一体何処から湧いて出てくるのでしょうね……!?
安室さん目当てで日参していた私の気持ちなんて私立探偵さんにお見通しだったのかもしれないけど、ほんのちょっぴり悔しい。

「これって軽い拉致監禁に当たるんじゃ……?」
そう言って頭を悩ませる紫月の姿を降谷は笑って見守っていた。


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極夜