臥龍と旧友と妹御


人が訪れる事など滅多にない庵の前で倒れ込んでいる人を目視した諸葛亮は目を細めた後、ゆっくりと歩みを進めた。
煤けた灰色の衣と痩せこけた体から聞こえるか細い呼吸音……目の前に伏した小さき者から漂う濃厚な死の臭いに彼は思わず顔を顰めた。
諸葛亮が顔を顰めたのを感じとったのか或いは間が合っただけか、童は薄汚れた顔を上げて深い緋色の瞳の中に諸葛亮を捉えた。
生きる気力をすっかり失ったその瞳は濁り、澱んでとても直視出来るものではない。

童の体が宙を舞う。
己のような小汚い生物を玄関先に置いておけぬと男に放り捨てられただけだと考え次に訪れる衝撃に備えるも、その瞬間は永劫に訪れなかった。

「汚れを落としてから朝餉にしましょう。貴女を死なせはしません」
──自身は男の腕に抱かれているのだとようやっと理解するのと同時に少女……紫月は深い眠りに落ちた。

* * *

机の上に置いた手に顎を乗せた諸葛亮はいつになく深刻な表情を浮かべ、溜め息をついた。
自宅前に生き倒れていた紫月に手を差し出してから早いことで数年が経つ。
時間の経過とは大層恐ろしいもので貧相な体つきであった幼子も女性特有の丸みを帯び始め、街中を出歩けば数多の異性から熱視線を受ける美少女へと成長していた。

……しかし年月だけでは解決しえない問題も存在する。
例えば彼女の生い立ち。
両親と死別した紫月は悪心に満ちた人間の波に呑まれ、生物の本性を目の当たりにしながら自身が生き抜く為にそれらの血で手を汚してきた。

「……ころさないと、わたしがしんでた」
年不相応に表情筋をピクリとも動かさず、幼子は淡々と諸葛亮に述べた。
今までの日常が小さき心に黒い影を落とすのではないか……。
その予感は見事に的中し、紫月は他人の好意の"裏"を考え素直に喜べない性根の曲がった娘へと成長してしまった。

「誰知らぬ男の血で汚れ、加えて可愛げもない女を娶ろうなんて物好きが居るか否か……ご聡明な兄上なら既に答えはお持ちでしょう?」
「貴女は何故いつもそうやって自分を卑下するのですか」
「……少しばかり頭を冷やして参ります」
頭を深々と下げ麗しき少女は姿を消した。
紫月に女としての幸せを掴んで欲しいという気持ちは日に日に強くなるものの、当人の言い分も一理ある。
ほんの少しで構わない、可愛い妹の心の闇をどうにか振り払えないものか……。
目尻に悲愴を漂わせ背中を向けた紫月を思い出し、殊更大きな溜め息を吐き出した。

「……そういえば近日彼がこちらを訪ねてくる予定になっていましたね」
瞼の裏に浮かぶのは眉尻を下げた、どこか翳りのある男の姿。
彼の性格が妹にどのような影響を与えるかは未知数だが、試す前から変化なしと決め付けてしまうのは良くない。
来るべきその日に向けて諸葛亮は顎に蓄えた髭を撫でた。

* * *

「臥龍かぁ……」
兄直々の頼みで街へ降り、必要資材を購入していた最中に聞いた言葉。
最近自分が出掛けている間に見知らぬ足跡や蹄の跡といった痕跡が度々見受けられるようになってきていた。
頭の切れる兄を雇い、軍師として重用したいと考える者は少なくないのだろう。
兄がどこかの国に仕える事になった場合、自分は────。

それ以上考えるのはよそうと頭を振って見慣れた庵の扉を開く。
そこに人の気配はなく、両手を塞いでいた荷物を置いた紫月はいつも兄が鎮座している机の上に残された書き置きを手に取った。
……直後、庵に自身とは異なる気配を感じ取った少女の動きは迅速であった。
書き置きを机の上に戻し、そろそろと忍び足で外の様子が見渡せる場所まで移動する。
紫月の存在に気が付いていない様子の青年は己をここまで運んでくれた馬を優しい手つきで撫でてやりながら、忙しなく辺りを見渡し首を傾げている。
その所作は兄である諸葛亮と会う約束でもしていたのに、該当人物が見当たらず困り果てている────かのような。

「(お客人なら兄上は今留守だってお伝えしないといけない……よね)」
もし顔見知りでも何でもない只の他人であった場合、多少冷たい対応をしても良いだろうか。
いいや、それによって兄の名に泥を塗ってしまうのは不本意だし……。

「諸葛亮様に御用でしょうか」
「彼に今日この時間に来て欲しいと先日文を貰っていてね。ところで君は?初めて見る顔だね」
「わ、わたし……は……」
諸葛亮の妹です、とこの口から言ってしまっても良いのだろうか。
自分は兄として慕ってはいるが、諸葛亮に妹が居る事を知らない人間の方が圧倒的に多い世の中。
そんな中で彼の妹だと名乗る己の存在は、無数の人々にどう映るであろうか。

ほんの数秒の葛藤は、目の前の柔らかな緑の衣を纏った長身の青年に不信感を抱かせるには充分だった。
垂れた瞳をきりりと吊り上げ腰に吊り下げた変わった形状の得物に右手を添えたまさにその時、耳に馴染んだ声が二人の間に割って入った。

「彼女が前から話していた私の妹、紫月ですよ」
「君の妹!?俺は何という無礼を……どうかお許しを」
「一番悪いのは言い淀んでしまったこちらですので、どうか頭をお上げ下さい」
一触即発のぴりぴりした空気が凪ぎ、安堵している紫月に「客人が来ると伝えると貴女は風のように何処かへ姿をくらませてしまいますから」と諸葛亮が耳打ちすると小さく呻き、宙に視線をさ迷わせ始めた。

「俺の名は徐元直。君のお兄さんとは長い付き合いなんだ」
「お名前はかねがね伺っておりました。兄の御友人である徐庶様に対する御無礼、お許しいただけますでしょうか?」
次は徐庶が目を見張り、慌てふためく番であった。
しどろもどろではあるが彼の長い口上を纏めると紫月の謝罪を真摯に受け止め、非はないと確かに言っていた。
聡明な妹もその言葉を正しく理解したのか、俯きがちに喋り終えた徐庶に柔らかな微笑を浮かべていた。

「(……おや)」
紫月の微笑を見つめ惚けている徐庶の身体を肘でつつくと漸く我に返ったのか、その体躯をびくつかせ赤い顔を隠すように口元で手を覆っている。

「折角来ていただいたのですし、庵の中でゆっくりお話しましょう。先程甘味を……徐庶様?」
「あ、ああ!すまない。改めて君の名を聞きたいと思っていたんだ」
「わたしの名……ですか?」
間が抜けた表情を直ぐに引き締めた紫月は、徐庶の言葉の裏を探ろうと自身より遥かに高い場所にある双眸を見つめている。
少女の行動理由が見いだせず先よりも顕著に顔を赤らめながら徐庶は旧知の友であり、紫月の兄でもある諸葛亮に救いの手を求める。

「紫月は少々人間不信なところがありまして……彼は純粋に貴女の名前を知りたいだけですよ」
「……そう、ですか」
歯切れの悪い返事と共に小さな声で紡がれた音を徐庶も復唱する。
兄以外の異性から名を呼ばれる事に慣れていない紫月は徐庶から隠れるようにして兄の背後に回った。
その耳が確かに赤かった事を臥龍が見逃すはずもなく、含み笑いを浮かべる諸葛亮に紫月と旧友はただ首を傾げていた。


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極夜