塗り潰す
「国を統治している大名は皆、民を想って行動されているではないですか。貴方の場合はそれが智謀という話なのでは?」
今日まで計略によって侵略国に亀裂を生じさせ、破滅へ追い込んできた手をしげしげと見つめ薄汚れていると漏らした安芸の領主、毛利元就の言葉を真っ向から否定しそう言葉を続けた。
わたしの言葉を聞いても尚まだ何か言いたげな元就殿であったが、瞼を閉じ深く息を吸い込んだ彼は柔和な空気を纏い微笑を浮かべていた。
「……ありがとう紫月。君の言葉で幾分か気持ちが軽くなった気がするよ」
この瞬間からわたしはこの身を毛利家、安芸を統べる元就殿の為体内に流れる血の一滴に至るまで捧げようと誓った。
以後わたしは彼が考案した策が円滑に進むよう、より一層武に腕を磨いた。
元が流浪者で更に女ということもあり、わたしが毛利の土地に留まる事をよく思わない連中も少なくなかった。
その考えを払拭してやろうと戦が始まれば一番槍で駆け出し数え切れない敵の四肢を切断し、首を刎ね続けた。
返り血で全身を染めながら彼らに鋭い眼光を飛ばせば皆体を震わせ譫言のように「悪鬼……」とぼやいていた姿はいつ思い出しても気分がいい。
元就殿は毎度そんなわたしの身をいつも案じてくれた。
策を成功させる為の一兵、駒にしか過ぎない自分には勿体ない言葉だと軽くあしらって頭を垂れ彼の前を去るのはいつもの事だった。
血と泥に塗れた醜い我が姿を主である元就殿の瞳に映してはならない。
そんな考えをいつしか自然に抱くようになっていた。
* * *
ひゅーひゅーと喉奥から響くか細い呼吸音と身を焦がすような痛みを伴いながら滴る血を目視する。
宵闇色の衣に身を包んだこの忍は隣国の間者でおよそ間違いないだろう。
放たれた苦無を身を捩って避けたまでは良かったものの、次の攻撃を右手、第三波を右頬に受けてしまった。
そこまで接近されていながら反撃ひとつ出来なかった己に憤りながら自由の効かない利き手にさて、どうしたものかと冷静に思案する。
何となく胸騒ぎがして寝巻き姿のまま得物を携えて城内の中庭まで来たところで忍の襲撃に遭った。
夜空に浮かぶ欠けた月が殊更深い闇を助長している気がして、背中に汗が流れた。
「(この間者を城外へ出してはいけない。何としても始末しなくては)」
もしわたしが元就殿に今宵の事を伝えれば彼は城の防備を増強し、今以上に侵入は困難になるだろう。
それを一番避けたいのは依頼を受けた他国の間者達。
月の光を反射している白銀の苦無の先には毒々しい色の液体が滴っている。
その何かが全身に回り始めたのか視界が白み、今にも意識を消失してしまいそうになる。
血の止まらぬ右手を忌々しく睨みながら寝巻きの袖を破り、得物と右手を固定してから傷より上の位置を縛る。
庭に敷かれた白い石が血で赤く汚れ始めた時、敵が石を踏みしめる音が鼓膜を鳴らした。
肺から全ての酸素を吐き出し今やすっかりぼやけて捕捉出来ているのか、本当にその場に居るのかすら怪しい忍に目をやる。
直後何かが空気を切り裂いたのを肌で感じ取った。
続いて奇っ怪な音が前方から響きわたしは周囲を見渡しながら、音の発生源と思わしき場所へ鉛のように重い足を踏み出した。
「こら。今、紫月が優先すべきは傷の治療だろう」
「も、となりどの……?」
「うん私だよ。城内を異質な空気が包んでいる気がして見に来たんだ」
元就殿の穏やかな声に心が落ち着いていくのと、安堵感が胸に一気に押し寄せる。
────これ以上意識を保っているのは不可能だ。
そう判断を下した脳に従い意識を手放し、その場に崩れ落ちそうになった紫月の細い腰に腕を回し抱き寄せた元就は確かに呼吸をしている彼女にふうと息を吐き出した後、急に酷薄な顔をして紫月の頬に出来た傷を撫でた。
指に付着した血を拭う事もせず膝裏と背中に腕を回した元就は冷えきった忍を目を細め見下ろすと、血なまぐさい庭を後にした。
* * *
「毒が回りきる前に解毒薬が効いてくれて本当に良かった」
「その節は大変ご迷惑をお掛け致しました。わたしは日に日に介抱へ向かっておりますので、元就殿もそろそろ……」
グルグルに包帯を巻かれた右手を上げて口角を上げると、嫌な音が二人の間で確かにした。
そっとその部分を押さえると未だに治る兆しが感じられない頬から鮮血が滲んでいる。
「手の方は確かに良くなってきているみたいだけれど、こちらは傷が深い事と場所なこともあって治りが悪いね」
ウコン色をした液体と固体の中間点にあるもの……塗り薬に同時に目線を落とした。
血を手拭いで拭ってくれた元就殿はいくつもの薬草を混ぜ合わせて生成された薬を掬って、わたしの頬の上で薄く伸ばす。
「綺麗な顔をしていたのに勿体ない」
「今までが奇跡だったのですよ。今後顔に傷を負うことは幾度もあります」
「……女人としての幸せを踏みにじったのは私だ。きちんと責任を取らないと」
毛利家に仕えることになってから女としての紫月は既に死んでいるのだ。
そこまで必要以上に責任を感じられると、こちらとしてもいたたまれない。
言葉を返すより早くわたしは元就殿の胸の中に引き込まれていた。
「ずっと君の事を想っていた。女人として紫月を幸せにしたいんだ」
「わ、たしは……」
背中に回されていた腕の力が強くなる。
「今回の忍の目当ては間違いなく私だろう。それに君を巻き込み、こんな深手を負わせてしまった毛利元就の償いを受け入れてはくれないだろうか」
貴方がこれからも仲間を鼓舞し策を講じて下さるだけで、わたしは──。
その本心を飲み込んで元就殿の胸に顔をうずめた。
耳元で心底嬉しそうに何度も有難うと言ってくる元就殿。
まるでわたしが現れるのを予見していたかのように中庭で黙していた忍と、自身の危機に颯爽と姿を現した……これ以上裏を考えるのは止めよう。
ゆっくり体を離した元就殿はわたしの額と唇を落として髪を撫でた。
「本当に有難う」
ぽつりと漏らされた感謝の言葉は何に対してだったのか。
今もわたしの中で燻り続けている懐疑を塗り潰すように、あの日と同じようにまた唇を奪って元就殿は全てを上塗りしていくのだ。
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極夜