十月二十一日の陽光
十月十九日、朝。
図書館近くに植わっている金木犀の香りが日を重ねる毎に強くなり、館内まで届くようになってきた今日この頃。
清々しい朝の空気を取り込む為に窓を開けば甘い金木犀の香りが肺を満たす。
平穏そのものな室内で言い争っているのは部屋の主である紫月と、彼女の助手を務めている眼鏡を掛けた長身の男性──坂口安吾その人であった。
外ハネの強い黒髪を押さえて深々と溜め息をつきながら、安吾は薄い唇を動かす。
「これ以上悪くなる前に自分の部屋戻って寝とけ。やる事終えたら看病しに行ってやるから」
「ほんのちょっと体調が悪くなっただけなので問題ありません、大丈夫です」
このやり取りもかれこれ十分間以上繰り返している。
白いを通り越して不健康に蒼白い肌と対照的に赤い頬。
どこか焦点の定まっていない潤んだ瞳をこれ以上見ているのは自身にとっても良い影響を及ばさないと判断し、何度も自室へ戻るよう勧めているのだがこういう事に限って彼女は意思が固い。
頼りない足取りで辿り着いた机の椅子を引き、腰を下ろした紫月は咳を袖口で押さえ机上の書類に手を伸ばしていた。
彼女の上司にあたる館長に今の司書の状態を話せば彼も早退を認めてくれるだろうし、己の言葉より素直に聞き入れてくれるかもしれない。
「少し席を外すが、くれぐれも無理はするなよ」
「安吾さんは心配性ですねぇ。大丈夫ですよ」
病人そのものの顔で言われても説得力はこれっぽっちもないのだが、ここは黙って引き下がっておこう。
館内は走っちゃダメですよ!という紫月の顔と声が廊下に出た途端急に蘇ってきて、駆け足で館長の元に行きたい気持ちをぐっと抑え大股の早歩きで館長室までの道を辿る。
「君は……表情が険しいが何かあったのか?」
顔を合わせるなり眉間を指差し苦笑いしている館長に手短かつ的確に紫月の現状を伝えると、みるみるその顔は翳り安吾の考えに同意してくれた。
「無理をして倒れるような事になってからでは遅いからな。俺から直接伝えに行こう」
「ありがとうございます」
頭を下げてから直ぐさま体を反転させた安吾を少しばかり笑ってから、館長も後に続く。
「悪いな遅く……おい!」
ドアノブを捻って扉を開け放ちながら彼女に掛けていた謝罪の言葉は、切羽詰まった声へと刹那に切り替わった。
笑顔で送り出してくれた紫月は椅子から崩れ落ち、安吾の声に肩を揺らすと蚊の鳴くような声で名を呼んだ。
駆け寄って紫月の体を抱き起こした安吾は遠ざかる靴音で館長が医者を呼びに行った事を悟り、しっとり汗ばんだ額の汗を指で拭う。
「館長がすぐ医者を連れてきてくれるから、もう少しだけ頑張れよ」
「ごめん……なさ、い」
「謝罪は元気になってからだな」
そうじゃないんです……という紫月の声は館長が連れてきた白衣を纏った男性の足音にもみ消されてしまった。
私室はこっちです!と彼女を抱き上げ彼らに説明している安吾の声を聞きながら、紫月は瞼を閉じた。
* * *
「季節の代わり目で風邪をひく人が最近多くてね。薬をちゃんと飲んで療養していればすぐ落ち着いてくるよ」
「そうですか……ありがとうございます」
老齢の医者は司書の顔を見ながら大きく頷くと安吾に薬を幾つか手渡した。
「心配なのは彼女の免疫力が著しく落ちている事かな。熱が引くまで面会は避けた方が懸命だろう」
「……あ、んごさ……ん」
「看病するって約束守れなくてごめんな。お前が元気になったら快気祝いに二人で牛鍋食いに行こうぜ」
「ちが……う。そ、じゃなくて……」
駄々っ子のように頭を振って涙を滲ませている紫月の頭をひと撫でしてから、医師の言葉に従い退室した。
今まで片時も離れず一緒に生活してきた紫月の不在は安吾の心に大きな穴を穿ってしまったが、それも一時的なもの。
少しでも早い回復を願いながら去り際に見せた縋るような、何か言いたげな彼女の瞳がこびり付いて離れない。
「……紫月が元気になってからでも遅くないよな」
近日重要な事があるのならば、親しい文豪が教えてくれているだろう。
今日まで何も耳に入ってきていないのであれば、特別急ぐ事でもないはず。
────とまあ明日の主役である安吾は楽観的に捉えていた。
翌朝、顔を合わせた織田と太宰から誕生日祝いと酒を贈られ顔見知りからも祝いの言葉を貰った。
どこか上の空、心此処にあらずな状態で酒を受け取り祝い言葉に礼を言う安吾の頭は司書の事でいっぱいであった。
「あの顔見てみ?おっしょはんの事が気になってしゃーないって言ってんで」
「安吾は司書さんゾッコンだから仕方がないって。まあ俺も早く元気になって欲しいとは思ってるけどさ」
安吾を指しながらコソコソ小声で話していた織田と太宰が再度安吾へと向く。
全く変わらないその顔に二人は同時に息をついた。
* * *
十月二十一日、朝。
安吾の顔は雲一つない秋晴れのように爽やかであった。
館長伝いに紫月の体調が快方へ向かい、今日から復帰すると教えられた為である。
薄もやの中に放り出され暗中模索していたなか、やっとひとつの光明が差した……彼の心境はそれに最も近かった。
扉をノックして返事を待つ。
開いた扉から顔を覗かせた紫月の顔色を見て飛びついた大男と反射的にその背中に腕を伸ばし、男の名を紡ぐ柔らかな声。
ただそれだけで空いた穴が瞬く間に修復され、空っぽだった心が幸福の二文字で満たされていくのを感じる。
「病み上がりなので唇はダメです!と言われるのは分かってたからな。一緒に朝飯食いに行こうぜ」
「はい……!」
腕の力を弱め頬に口付けを落とした安吾は肩を並べ、歩幅を合わせて彼女が不在の間にあった他愛ない話を伝える。
自身が臥せっていた間にそのような事があったのかと表情を綻ばせている紫月の顔色の良さはどれだけ見ていても飽きないし、やはり嬉しい限りだ。
目的地の食堂は朝食をとる人でごった返し、今まさに安吾が名前を挙げている男二人の姿もあった。
「それでわざわざオダサクと太宰がだな……」
「ごめんなさい!!」
あんなに賑わっていた食堂内が瞬く間にしん、と静まった。
安吾と司書の姿を捉え声を掛けようとしていた織田と太宰の顔も石像のように固まり、音一つない無音空間になっている。
身に覚えのない紫月からの謝罪にワンテンポ遅れて声を絞り出した時には既に遅く、安吾の耳に聞き覚えのある声が響いてくる。
「病み上がりのおっしょはんに安吾は何したんやろ……太宰クンはどない思う?」
「司書さんのあの綺麗な謝罪をオダサクも見てただろ?要はそういう事だって」
「……場所変えるか」
見知った二人の囁きを発端にざわつきはどんどん広がっていく。
紫月の腕を引いて彼女の部屋に上着を取りに行ってから、エントランスを経由して外へ飛び出した。
何も口にしないまま出てきてしまった……と思っていると、どちらともなく腹の虫が切なげにくぅと鳴いて顔を見合わせる。
「この先にある喫茶店で腹拵えするか。お前もきっと気に入るはずだ」
手首を掴んでいた手を数秒離して、細い指に自身の指を絡める。
紫月から返ってきた言葉を噛み締めながら食堂までの道筋と同じように歩幅を合わせて、喫茶店へ入っていった。
* * *
「さっきはいきなり大きな声ですみませんでした。昨日安吾さんの誕生日だと知っていながらお祝い出来なかったのが申し訳なくて」
「熱出して寝込んでたのに祝うも何もねぇだろ。気にすんなって」
「好きな人の、恋人の誕生日はお祝いしたいじゃないですか。……一日遅れになってしまいましたが、安吾さんの誕生日お祝いさせてもらえませんか?私が出来ることなんて限られてますが」
珈琲を啜る安吾と向かい合う形で座っている司書の言葉に即、首を振る。
自分からしてみれば紫月が元気に自身の側に居てくれるだけで、何物にも得難い贈り物なのだと告げるが彼女の顔は未だ晴れない。
「(それなら──)」
咄嗟の閃きと悪戯心。
本心からそれを欲しているわけではなく、八割程は反応見たさで吐き出した言葉だった。
いじらしい紫月の事だ、と脳裏に描いた展開に笑みを零しそうになるのを堪えながら安吾は一字一句丁寧に言霊を吐き出す。
「そこまで言うなら……お前が欲しい。俺に紫月をくれよ」
言葉の真意を慌てふためきながら問うてくる紫月と、紅葉した樹木の葉のように綺麗に色付いた頬。
彼が想像していたのはそんなものだった。
だからこそ、紫月の返答に安吾は大いに戸惑ってしまった。
「安吾さんがご所望でしたら喜んで!」
……きっと紫月は一日自分を独占してデートさせてほしいといった意図で汲み取ってしまったに違いない。
そうでなければ、満面の笑みで「私の全ては安吾さんの物ですから!」なんて言葉を言うはずがない。
「(ああ、そうだった)」
お前はそういう清い人間だった。
ほんの僅かでも期待してしまった俺を許して欲しい。
そんな哀愁を漂わせる安吾の背中を十月二十一日の朝日が照らしていた。
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極夜