ザ・マン

とある伝説の地がある。
そこはスカンジナビア半島と北極海の中間に存在し、冷たく荒々しい大波の畝りと前後左右を不覚にする濃い霧に閉ざされた絶海の孤島である。
だが、多くの超人達は過酷な道のりを省みることなくその島を目指すのだと言う。より強大な力を手に入れる為の"聖地"と呼んで。

その聖地の名は「聖なる完璧の山」。

またの名を「超人墓場」。

そんな偉大な聖地を治める偉大な主がいる。その主を知る者達は慈悲深き神"ザ•マン"と呼んだ。
否、一つ語弊がある。彼は"元神"である。超人と呼ばれる種族の絶滅を防ぐ為に神の領域を捨て、自ら超人になり下天した地上に住まう全ての超人の管理者、それがザ•マンと呼ばれる男の正体である。
逞しく鍛え上げられた強靭な肉体に纏うのは神々しいまでの威風堂々とした空気と、真っ直ぐと向けられる眼差しは揺らぐ事のない厳格さと尽きる事のない慈悲の温かさを宿す。この聖地を滑る主の風格は多くの強者を屈服させ従えるだけの魅力に溢れる。
まさに"完璧な超人"のオリジナルと言っても過言ではないだろう。

そんな彼に纏わる噂がある。

噂と言えどもそれは真実である。

だが、それを真実であると知る者は少ない。

ザ•マンの側に控える親衛隊も、彼の生み出した超人墓場を管理する墓守り鬼達も、超人墓場で労働に励む亡者達の誰も、真実を見た者はいない。
最早誰が言い始めたのか、いつからその噂があったのか確かめる事は不可能だ。それくらい昔から語り継がれているのだから、「この聖なる完璧の山の何処かに彼の"聖なる秘宝"が隠されている」と。


人は成長するものらしい。


人間も、動物も、植物も、超人も、全て等しく成長するものだと言う。赤ん坊から子供へ、子供から大人へ、大人から老人へと成長をするらしい。
一方では、成長を忘れてしまった者もいると言う事だ。どれほど長い時間を生きても、手も足も身体も、はたまた心までもまるで変わらずにいることができる者達。いつかに聞いたのは、「それは選ばれた超人のみ与えられたギフトだ」という事だ。超人もして大変名誉あることなのだと、誰もが口を揃えて言っていた。
だから、"少女"はとある男に尋ねたことがある。

「私も超人だから変わらないの?」

「うむ、お前は超人とは少し違うな」

「じゃあ、私はどうして変わらないの?」

「それはー…お前が神に選ばれた特別な存在だからだよ」

それもまた他と比べようもないくらいに名誉あるギフトなのだと、片膝をついた男はーザ•マンはー少女の頭を愛おしげに撫でてそう言った。
少女がザ•マンと出会ったのは、そのやり取りをした少し前の事だった。彼は一目見て幼い彼女を気に入って、身寄りのない小さな身体を不憫に思ったからなのか、彼の根城で引き取ることを決めたのだ。彼女には全てが与えられた。

暖かな寝床に、

温かな食事と衣服、

そして、永遠に老いない特別な身体。

初めの頃は、あまりにも手厚い待遇に戸惑いながらも少女は彼に感謝をしていた。身体の変化にも何の疑問を感じる事はなく。気がついたのは、ふとした拍子だったのを覚えている。
だから少女は彼に尋ねたのだ。

ー私の身体はどうしてしまったのかー

その時に答えたザ•マンの顔は、今でも忘れる事はない。あまり笑うことのない男は微笑んで、ひどく満足げでいて、ひどく愛おしそうでいて、ひどく狂おしげに見えたのだ。

「今のお前は誰よりも清らかで美しく完璧なのだ、私はそれを永遠に守りたい」

と、男はそう言って少女の柔らかな髪と頬を大きな掌で撫でた。彼女はその余りある"寵愛"を小さな身体で受け入れる他ない運命を悟った。
次に、思い出される事もまた随分と前のことである。

「貴女、巷で何と呼ばれてるか知ってますか?」

そう尋ねて来たのは、ザ•マンと言う男の10人目の弟子だ。彼にはたくさんの弟子がいるが、この弟子は良く少女と話をしてくれる近い存在だった。
いつもの様にニャガニャガと意地悪な笑みを浮かべて、その弟子は少女にそう言う。

「あの人が隠している"聖なる秘宝"ですって、大層な呼び名ですねぇ」

弟子の言う"あの人"とは、ザ•マンの事であると理解している少女が不思議そうに顔をして「ひほうってなに?」と尋ねる。
彼はキョトンとした顔をした後に、勿体ぶらずにすぐに答えてくれたのだ。意地悪な彼にしては珍しい事である。

「宝物、と言う事ですよ…それも非常に大切で隠しておきたいくらいの、ね」

「宝ものだから、隠しておくのですか?」

「まぁ、そうですねぇ…誰にも見せたくない、取られたくないと思うのは、人ならば当然の感情なのかも知れません。最近のあの人は、貴女の外出には消極的ですから」

もちろん、外出と言っても何も超人墓場の外へと出るわけではない。少女に与えられた部屋を出て少し限られた空間を歩くだけ、そして、彼の弟子とあったら少し会話をするだけの、その程度の外出であるにも関わらず、ザ•マンはあまり良い顔をしない事が増えた。
少女がこの超人墓場にやって来た時はまだ、色々な部屋に連れて行ってくれていたが、今ではそれもめっきり無くなった。

「私が言うのも何ですけど、貴女は相当あの人に気に入られていますよ」

「それは…うれしいこと?」

「さぁ…どうでしょうか、それをどう捉えるかは貴女しだいですよ。少なくとも我々は遠慮しますがね」

それからニヤリと口角を吊り上げて、私はあの人の癖に振り回されるなんてご免ですけれどねと、彼はまた高らかに笑う。だが、途端に表現をサッと固くして少女を見つめる。
ずいっと遠慮なく近づけられた顔に、少女は困惑げに少しばかり身を引いた。

「たからこそ、貴女にはあの人を見捨ててほしくありません」

「見捨てるなんて…そんなの、」

少女は戸惑った様に彼から視線をおずおずと下げる。
この超人墓場に連れてこられてから、少女の世界はザ•マンによって作られて来たと言っても過言ではない。安心できる寝床、美味しい食事、温かい衣服、すべてザ•マンから与えられているのだ。捨てられることはあったとしても、捨てることなどあり得ない程に恵まれた世界に違いない。
少女の考えを汲み取ったのか、彼は大袈裟に頷いてみせる。

「えぇえぇ、分かりますよその気持ち、とてもね。私にとってもあの人は恩人ですから」

それは少女も知っていることだった。なぜならば、以前に何番目かの弟子が少女に武勇伝として語って聞かせてくれたからだ。死に行く運命だった彼ら十人の命を救った救世主、それが少女が知るザ•マンの顔の一つである。
不意に伸びて来た指が、少女の髪を一房掬って撫でて行く。彼の眼は目の前の少女越しに、何か別の景色を見ている様で。

「だからこそ…あの人の特別な寵愛を受ける貴女は、あの人を裏切ってはいけない。もし、貴女までも彼を裏切る事があれば」

「ねぇ、ちょーあいって?」

「…いえ、幼い貴女には関係のないことでした。すいません、忘れてください」

パッと少女の髪を指で弾く。
くるっと踵を返してしまったその背中を、少女はただ見つめていた。

「私もね、存外貴女を気に入ってるんですよ…そんな優しい私に酷い事などさせないでくださいね」

では…とそのまま振り返る事なく、彼は少女のそばを離れて行った背中を、ずっと忘れる事はない。きっとこれより先ずっと、少女は少女のままでザ•マンの側に居続けるだろう。
彼から与えられる寵愛を人は宿命とも、天命とも、使命とも色々な呼び方で呼んでいたのを少女は知っている。少女は自身、己の愛を何と呼べば良いのかも分からないままである。


ーーーーーーーー


グリムリパーは超人墓場の深部にある謁見の間へと足を踏み入れる。しん…と静寂に包まれた謁見の間の中央には、長く伸びる階段があり、その更に上を見上げれば背もたれの後ろが向いた玉座が鎮座している。それ以外には何もないし、誰もいない様に見える空間だが、グリムリパーは分かっている。

「グリムリパー、ただいま戻りました」

階段の正面に敷かれたベルベットに膝を突き、恭しく首(こうべ)を垂れる。
すると、わずがに軋んだ音が頭上から聞こえる。

「うむ、ご苦労だった…顔を上げよ」

グリムリパーは促されるままに顔を上げて微笑んだ。彼が見上げた先にいるのは、どっかりと座椅子に腰掛けた超人閻魔もといいザ・マンである。
玉座の主人を視界に収め、グリムリパーはゆっくりと立ち上がり、長く続く階段の一段目を踏む。

「やれやれ地上は本当に退屈ですよ、何十年何百年と変わりがないのですから」

大袈裟に首を振り肩をすくめて見せた。
その言葉を拾って「そうか、変わりはないか」と言ったザ•マンの言葉にはあまり感慨はないようだ。続けて、グリムリパーが言う。

「えぇ、変わりなく…報告する事など何も無いくらいです」

外界に出かける名目がある以上、彼は報告をしないわけにはいかない。それを理解しているからこそ、ザ•マンは余計な問答はせずにグリムリパーを労った。

「お前には苦労をかける、グリムリパー」

「ニャガニャガ、全くその通りですよ」

その労いの言葉に、少しばかり気をよくしたグリムリパーは口元に指を当てて笑った。それから、ニヤリと口元を釣り上げて言うのだ。

「なんせ、この私に子供のお使いなどさせるのですから」と。

彼の外出の大名目は、地上の超人達の偵察である。無駄な動きや急激な進化の兆候が見られないかと、定期的に見て回っている。
だが、名目とは"口実"であった。
彼の主人であるザ•マンからの頼まれごとを定期的に受けているのだ。

「私だって、暇をしているわけではありません。貴方の口からの頼みとは言え、裏を返せばあのお人形ちゃんの頼みも同然なんですから」

「そう言ってやるな、私の楽しみでもあるのだ。お前の選ぶ菓子は外れがない…"アレ"もいつも喜んでいる」

「貴方に喜んでいただけるなら、光栄です」

丁度階段を登り終えたグリムリパーが恭しく胸に手を添えて頭を下げてみせる。そして顔を上げて姿勢をまた正すと、懐から取り出した美しい紙とリボンで放送された包みをザ•マンに手渡した。

「相も変わらず、あなた方はお茶会好きなことで…」

この嫌味のように聞こえる物言いも、ザ•マンは慣れているのだろう。特に怒るでも苛立つでもなく「すまんな」と言って包みを受け取った。
中身は先ほどから話題にもなっている大切な菓子であることには違いない。ザ•マンが太い指の腹で包装を撫でれば、特殊な素材なのか、施された模様は少しばかりざらついた感触だ。リボンで作られた花のような装飾も可憐に見える。
この包みを目にしたらさぞあの子は喜ぶだろうと、満悦げなザ•マンの様子をグリムリパーはじっと眺めていた。

「彼女も相変わらずお元気そうですね」

「あぁ、彼女は変わらず美しく可憐だ」

フッと目を細め、どこか陶酔した様子のザ•マンに、グリムリパーはやれやれと首を振った。
ザ•マンの言う"彼女"を知っていて、グリムリパー自身がその彼女とそれなりに長い付き合いをしているからだ。とは言え、最近は直接会うこともないが。
そうなってしまったのも、この目の前の男の意思によるものとも理解している。

「デレデレして全く…相変わらずのご寵愛ぶりですね、見てるこちらが胸焼けしそうです」

そんな皮肉めいた台詞にも、ザ•マンと言う男は愉快そうに笑うだけだ。
彼の寵愛は少しばかり、否かなり特殊な分類である。生物としての成熟を果たしていない、あの少女の姿を思い浮かべているその眼差しに込められた熱は、愛玩動物を愛でるよりも、じっとりと湿り気を帯びて妖艶なる熱に犯されている。

ー俗的に言えば、重度のロリコンさん

とはいえ、己の死たる男の色恋にとやかく物申すつもりはない。事実、悩み多き己の師はあの小さな存在に救われているのだから。

「理解できませんね、全く。大体、子供のままでは満足に抱くことも出来ないでしょうに」

その言葉を発した瞬間に、グリムリパーはザ•マンの纏う空気が不穏に強張ったことに気がついた。
まるで考えた事もなかったと、ザ•マンはグリムリパーをじっと見つめる。

「抱く?彼女をか?」

「おや、違いましたか」

白々しくもそう言葉を返せば、ザ•マンの眼は鋭く尖り、飄々とした様子で肩をすくめるグリムリパーを睨みつける。

「お前はあの完璧なまでに清廉な彼女を、この私の醜い欲望で穢せと」

己の性的な欲求を"醜い"と平然と言ってのける男に、今度はグリムリパーがその表情を強張らせる番である。
ザ•マンは構わずに続ける。

「あれはその小さな身体に宿る清廉さ潔白さがあってこそ完璧なのだ、完璧な清らさ、完璧な美しさ、そして完璧な正しさ…それをお前は穢せと言うのか、グリムリパーよ」

「…なるほど、そうなりますか」

「彼女の完璧さを枯れさせぬように不老を与え、外界に出せばあの柔肌はすぐに傷つき、その完璧さが穢されぬようにこの場所へ留めている」

ザ•マンは、あの少女を一目見た時から彼女が自身にとって特別な存在だと感じていた。
上等な絹のような細く艶やかな髪、澄んだ涙の膜に覆われた瞳に淀みはなく、張りのある乳白色の肌は未だ欲に穢されず傷ひとつなく美しく、薄い桃色の唇は吐かれる声は一切の濁りのない見事なソプラノだ。

この世の醜いモノに触れたこともない。

誰にも体を暴かれたこともない。

なんの欲にも穢されていない。

今まで見て来たどんな"モノ"よりも、その少女は清らかで麗しく、まさに天から使わされたような完璧な存在だった。こんな稀有な存在が己の目の前に現れたのは、まさに運命であろう。

「この世にはあのような形の完璧さもあると、私に思わせてくれた」

彼女の大きく澄んだ瞳に見つめられ、彼女の小さな温かい手が彼に触れた時、ザ•マンの抱く悲しみに癒しをもたらした。小さく慎ましい唇から溢れる高く美しい声は、純真な優しさを紡ぎ、ザ•マンにこの世の喜びを思い出させててくれた。
だからこそ、この堕ちた神は心の拠り所を清らかなる少女に求めたのだ。

だから、私ですら触れてはならない

だから、私ですら暴いてはならない

だから、私ですら犯してはならない

彼が彼女の存在を特別だと愛した瞬間、それは永遠のものになった。彼は何も知らない少女を城の最奥部に閉じ込め、彼女の生きる時を止めた。
彼女は成長など不要であり、ずっと愛した形のまま彼の腕の中で生き続ける。それが彼女の生まれた意味であり、生きる定めであり、与えられた使命なのであると。そうでなければならないのだと、ザ•マンは盲信している。

「彼女は私に与えられた光であり、希望であり、愛なのだ」

以前はグリムリパーも彼女に会うことが出来ていた、もっと昔は彼の弟子たちは彼女に会うことが出来ていた。最近では、少女に会うことすら出来なくなっていた。
それは、この男が彼女に抱く強い独占欲と執着を表しているに違いない。

「貴方はー…彼女が巷ではなんと呼ばれているのかご存知ですか?」

不意にグリムリパーが問う。
ザ•マンは少し想いに耽る様子を見せた後、ゆっくりと立ち上がり、グリムリパーのまっすぐに見つめた。

「知っているとも、この私の"聖なる至宝"だ」

確かに最初はそうだったのだ、彼女にはまだこの男以外に会うと言う選択肢があったのだから。
それがいつしか、否ーあの兄弟が下天した頃からー完璧な清廉さを備えたあの少女に会える者は、ザ•マンただ一人だけどなった。だから今では、彼女を知るわずかな者達は"秘宝"と呼ぶのだ。特別な秘めやかなるたった1人の男だけの至宝、それがあの少女なのである。
グリムリパーがそんな事を考えていると、ザ•マンはフンと鼻を鳴らした。

「彼女の完璧さが穢されることがあれば、私は今度こそ完全に狂ってしまうかもしれんな」

その言葉に、我に返ったグリムリパーは少しばかり嫌な顔をする。

「ちょっと、貴方が言うと洒落になりませんよ」

チクリと胸が僅かに痛んだからだ。
そんな彼の気を知る事などしないザ•マンと言う男は、どこか嘲笑げに笑って見せる。

「グロロロロ、お前もおかしなことを言うようになったな"十式"よ…この私が洒落など言うものか」

余計に悪いわ、とグリムリパー。この話をあまり広げるべきでは無いと思ったグリムリパーは、代わりに「あまり私の正体に触れないでください、誰が聞いているか分かりませんよ」と話題を反らせようとするのだが。
ザ•マンの言葉に今度はギョッとする羽目になるのだ。

「だが、そろそろ私も洒落というものも学んだ方が良いのかもしれんや」

「はぁ?貴方がですか?」

明日は槍でも降るのかもしれないと、グリムリパー。
だが、続けて聞いた言葉にいよいよ馬鹿らしくなるのである。

「そうすれば"彼女が"もっと笑顔が見れるかもしれん…そうだ、伍式に習うのはどうだろうな」

まるで名案だとでも言いたげだ。
恋をすると人はこうも盲目になるのかと、こめかみが少しばかり引き攣る気がした。きっと5番目の兄弟子も、今のグリムリパーと同じ様な反応を返すだろう。このままこの男を止めずに居てもいいが、厄介に絡まれる5番目の兄弟子が可哀想に思えてしまった。7番目の兄弟子ならば止めないかもしれないが。

「やめた方がいいですよ、それこそ洒落のつもりですか」

「む、そうか」

「はぁ、貴方の性格では無理ですよ」

ドッと疲れを感じたグリムリパーは、これ以上は付き合いきれないとこの場を辞そうと踵を返す。一歩踏み出す前に顔だけをザ•マンの方へと向ける。

「自然体でも、彼女は構わないと言うと思いますけどね」

そう告げれば、ザ•マンは一瞬目を見開いた。すぐに目元を僅かに緩ませて、優しく清らかな少女の姿を思い浮かべ「グロロロ、私も彼女ならばそう言うだろうと思う」と答えたのだ。
グリムリパーはその様子にやれやれと首を振って、今度こそこの城の主人の元を去るのである。

「永遠に変わらぬことを…」 

その呟きを拾ったものは誰も居ない。


ーーーーーーーーーー


グリムリパーが持って帰ってきた可愛らしい包みを持って、ザ•マンはベルベットが敷かれた廊下を歩いて行く。
彼や彼の周りを照らすのは、金で作られた鈍色の燭台で、彼の行く先をも淡いオレンジの光で照らしている。この廊下を歩く者は最早ザ•マンしか居ない、何故ならばこの道を彼以外が通ることを禁じたからだ。
この先にあるあるいはこの先にいるのは、彼だけの宝物である。

ザ•マンは足を止める。

目の前の重厚な木で造られら扉には、金箔に包まれた豪華な模様が彫り込まれている。取手は蝋の炎で淡く輝いて見える。ぶら下がっているのは、幾重にも巻かれた太く強靭な鎖と打っても壊れそうに無い頑丈な南京錠である。
徐に取り出した鍵を差し込み回せば、重々しい金属製の音があたりに響く。ガコン途上が外れ、ジャラリと鎖の擦れる音が続く。
ザ•マンは錠の外れた扉を撫でる。


ー種に交われば、種にあらずー

ふとザ•マンの脳裏にその言葉がよぎる。


あの少女の完璧性を汚すことなどあってはならない、たとえ己の弟子達であっても。だからこそ、この"箱"に閉じ込めることを彼は決めた。
扉の取手に手を掛けながらも、片方の手で軽く拳を作ると3回ノックした。中からたとえ返事があったとしても、その重厚な木の板を通り抜けては来ない。だから、彼はゆっくりと扉を開くのだ。

「すまない、待たせた」

そう言いながら部屋の中へと足を踏み入れる。
見慣れた景色だ。深紅の壁紙には金の額縁に飾られた絵が掛かり、部屋に一つだけある窓の向こうは暗く、豪華なカーテンがその暗闇を誤魔化すように掛けられていた。壁に寄せられた背の高いいくつかの本棚部屋と書き物机を照らしているのは、隅や低い棚の上に置かれた高低様々なオレンジ色の光を灯すランプである。
ザ•マンにとってこの部屋の景色は、彼の心をひどく温かで穏やかな気持ちにさせた。

「グリムリパー、拾式と少し話し込んでしまってな」

彼の視線の先には、深紅のベルベットの床には複雑な模様の絨毯が引かれ、その上に置かれたのはテーブルと二脚の椅子ある。片方の椅子には、小さな少女が座っていた。彼女はこれまた深紅の艶やかなドレスを着て、オフホワイトのヘッドドレスは可憐なレースであり、淡い部屋の明かりに照らされて光る革靴を浮かせて静かに座っている。
ザ•マンを見つめる少女は、ふんわりと柔らかな微笑みを向けた。

「気にしないでください、本を読んでたので」

そう言うとテーブルに置いていた本をパタンと閉じる。テーブルの上には、見慣れた茶器がすでに置かれており、ふわりと香った茶葉の匂いがザ•マンの鼻腔にも届く。
ザ•マンは少女を穏やかな眼差しで見つめて問いかける。

「本か…またその内に新しく増やそう」

「ふふ、楽しみにしてます」

そう答えながら、少女は読んでいた本をテーブルの端へと寄せる。
その一挙手すら愛おしく、ザ•マンはゆったりとした足取りで少女のいる場所へと歩み寄る。少女は勝手を得ているのか、小さな手を茶器に伸ばし2人分のティーカップを目の前に一つずつ運んだ。

「これを、拾式が」

席に着いたザ•マンが彼の弟子から受け取った包みを少女の目の前に置く。途端に包みを見た少女の可愛らしい顔(かんばせ)がパッとほころんだ。

「まぁ、なんてきれいなプレゼントでしょう」

包みに飾られている花を模したかのようなリボンに細い指を触れさせる。つるりとしたリボンの感触に少女はまた嬉しそうに微笑んだ。
そして、少しばかり笑みを小さくして言う。

「…たまには、お茶会におよびしては?」

リボンを指で撫でながら、そう言った少女の言葉はどこか遠慮がちである。
彼女の目に映るのは、遥か昔に見た賑やかに笑い合うザ•マンの弟子達の姿だった。いつからか、会うことはなくなったが彼らは変わらず元気だろうかと、ふとした時に考える。

「その必要はないだろう」

ザ•マンは答えた。
リボンを撫でていた少女の指がぴたりと固まる。きゅっと口を一つに結んでから、恐る恐る口をまた開いた。その声は少しばかり震えて掠れている。

「でも、少し、さみしく思います」

少女はか細い声でザ•マンに訴える。

「お前が寂しく思う必要はない、私がいるではないか」

「で、でも、」

弾かれたように顔を上げて、言い募ろうと口を開いた少女は後悔する。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。ザ•マンの鋭い眼差しが少女の背筋をゾクリと震わせる。嫌な汗が小さな手のひらに滲んだ。

「"種に交われば、種にあらず"、そう伝えたはずだ」

何度も少女はその男に問いかけて来たが、やはりずっと彼の答える言葉は変わらない。
ザ•マンは彼女に言うのだ、「お前は独りではない、私がいる」と言う慰めと今まさに言われた言葉を。
それが揺るがない価値観だと少女は理解させられている。少女は悲しげな顔を俯かせる他にできることはない。

「お前は本当に完璧だ、私が寵愛を向けるに相応しいと思うほどに」

ザ•マンは俯く少女の方へと手を伸ばす。彼の指先に少女の細く滑らかな髪が触れ、その髪をくぐるように柔かい頬へと手を滑らせる。少女を見つめる彼の眼は、オレンジの炎の中でも情愛の色を濃くしてゆらめいている。
熱く火傷しそうな手の肌の感触と、小さな身体に覆い被さるその威圧感に、少女はヒュッと短く息を飲み身を震わせた。

「絹のような髪も、宝石のような瞳も、人の言う天使のようなその声も…この小さく清らかな肉体も、優しく清廉なその精神も全て」

一言一言を少女に言い含ませるかのように、ザ•マンは言葉を紡ぐ。
その言葉に込められた茹る熱情に少女の意思はゆっくりと溶けてしまうのだ。歯向かうことなど誰ができるだろうか、恐ろしく強大で人智超えた存在の言葉に。

「この私が完璧と認めたのだから、お前は完璧で居続けなければならない」

それが神に認められし完璧性を宿した少女に与えられた宿命であり、運命であり、使命なのであると。
欲して手に出来るものではないと語るザ•マンは「残念なことに、我が弟子とは言え奴等もまだまだ完璧ではない」と肩を落とす。

「だからこそ、我が弟子のとてお前に会うことは許されない」

それを弟子達も理解してくれていると、ザ•マンは言うのだ。ふっと目元を和らげて、特別な少女に慈悲なる微笑みを向ける。

「問題ない…私以外の誰かを恋しいと思う必要もない、私がいる」

愛おしむように手つきで少女を撫で「そうだろう?」と問い掛ければ、少女は俯いたままに小さく頷いた。
その様子を満足そうに眺めながらも、ザ•マンはどこか優越にすら感じる高揚を感じた。その少女は何処にも行けない、己の手を振り解くことも、腕の中から抜け出すことも出来ないほどに、か弱く脆い存在だ。

「私ならば何もかも与えてやれる、温かい寝床も美味い食事も美しい衣服もお前に相応しい物を」

君は永遠に完璧であり続ける、ザ•マンと言う男のために。
ザ•マンはいつの間にか紅茶の注がれたティーカップを少女へを差し出す。

「さぁ、茶会を始めようではないか」

ぐらりと少女の世界は揺れる。

「君を真に愛してやれるのもまた、私だけなのだ」

神の寵愛。
その愛を人は宿命とも、天命とも、使命とも色々な呼び方で呼んでいたのを少女は知っている。少女は己に注がれる愛を何と呼べば良いのかも分からないままである。

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