弟達の記憶になくともチャイはずっと自分の母親の記憶を覚えていた、明るくて笑顔のかわいい女性で幼いながら肝っ玉の強い人でいつも昼寝をして起きると夕飯の支度をしている音に起こされるのだ。
目を覚ましたチャイは聞こえてきた音に視線を狭いキッチンに向ければそこにはその身体には少し狭そうな状態で食事を作っていたジモがいた、彼は手馴れたように鍋の中で何かを煮立てており柔らかな香りからして中華粥をしているのだと察しつつ味見をしては満足そうな顔をする彼が冷蔵庫やキッチンを見ては慌しくしている姿を見て微笑ましく感じつつ起き上がり素足で彼に近付きその広い背中に顔を埋めた。
「おはよう」
「おはようって夕方だ、粥くらいなら食えるか?」
「うん、お腹ぺこぺこ」
「ならよかった」
中華出汁に生姜の香りがほんのりと香る粥を目を閉じて堪能していればジモは振り返っては慌てて彼女をベッドに戻して服を押し付けた、室内とはいえ風邪をひくことやキッチンは危ないからと騒ぎ立てる彼の過保護な姿は面白おかしく、仕方なく服を着てキッチンを覗けば終えたらしい彼が鍋を手に持ったもののふとチャイの部屋を見てはそこにはテーブルも椅子もないことにその笑みをやめた。
「····悪い」
「いいよ、私こそお客さんに作らせて立ち食いさせてごめんね」
「今度リビングテーブルと椅子を見に行くのはどうだ、二人用とかならこの部屋でも置けるだろ」
テレビや別でデスクとあと食器類も必要だと話すジモにチャイはそれまでこの部屋に対してなんの執着も思い入れもなかったが小さく見えた背後の彼からプレゼントとして貰った棚をみては、この部屋に彩りがあるのはいいと思え、それならばあの棚を中心にしたデザインの部屋にした方がいいと思えばその途端に部屋の中が生きているように感じた。
「じゃあ今度、一緒に見に行ってくれる?」
狭いキッチンのコンロの前で二人は立ちながら中華粥を食べながらそういった、チャイは自分でいった言葉であるが改めると気恥しさを感じて慌てて取り消そうとするも彼は嬉しそうに目尻を下げて微笑んでは二つ返事の了承をした、喉に通した中華粥はとても優しいあっさりとした味をしており、チャイの胃には丁度いいもので次から次へと胃の中に注ぎ込んでは二人分の鍋の中はあっという間に空となった。
チャイは洗い物をしながら落ちてくる自分の髪が邪魔だと感じた、病院内にいた際には全てが億劫で院内の美容室にいくなど考えにはなく誰も来ない日はいつも病室に引き篭っていたことを思い出しつつも左手で自分の頬を撫でては以前とは違うカサついた感触がした。
痛みこそないものの顔も含む左半身に残った爆発による火傷の痕は痛々しく美しいものでも無く、チャイはそれを理解しているからこそジモにはあまり見せたいとも思えなかったが彼はそれさえ愛おしむように触れられてしまえば存外悪くもないと思えてしまう自分の単純な思考に呆れさえする。
「髪の毛伸びたな」
彼女から洗い物を受け取って拭きあげていたジモは彼女の髪を耳にかけてはその整った横顔を眺めた、小さな顔に笑顔の似合う口角の柔らかな口元と大きな瞳に小さくて先の丸い鼻先、そして髪をかけたことによって覗く火傷の痕を彼は指の背で撫でつつ以前迄は耳の裏程度の長さだった彼女の髪が肩につきそうなほどまで伸びたことにまた違う魅力を感じていた。
「長い方が好き?」
「新鮮だとは思うけど好みは特にないな、でも短い方が見慣れてるかも」
「じゃあ切ろうかな」
「せっかく伸びたのに」
乙女心は複雑で相手が少しでも好意的に思ってくれる方を取りたいのだという想いに彼はあまり気付いていないようであったがチャイが洗い物を終える頃、外はもう赤く染まっていた、一日を終えるように知らせる朱色の空であると思う彼女はジモの手を引いてバスルームに向かった。
狭く小さな家であるものよバスタブのついた広いバスルームであることだけは誇らしいものであり衣類を脱いだ彼女はバスタブの縁に腰掛けては楽しそうな表情をしていた。
「はいどうぞ」
小さな背中は今にも踊り出しそうだといわんばかりであるが肝心のその背中を見る男、ジモはその身体がまるでメデューサにでも見られたかのように硬直させていた、それもそのはずで彼は今片手にハサミを持たされ彼女に髪を切るように頼まれたのである。
もちろん何も言われずにバスルームに招かれた彼にとってこの事態は想定出来ておらず出来ないと断ったものの彼女は態とらしく目を潤ませては「お願い」といわれてしまえば、ジモも単純な男でハサミを手に取る他はなかった。
しかしながら彼女の髪は染められたことの無い髪で、特段いいヘアオイルやシャンプーを利用している訳では無いとはいうもののジモの硬い髪とは正反対に柔らかく指から落ちるような絹のような髪であり、彼は尚のことハサミを入れることに躊躇いを感じていたが、5分10分と時が過ぎでいけば彼女も流石に呆れを感じざるを得なかった。
「そろそろ寒いから早く切って欲しいんだけど」
「やっぱり美容師にちゃんと切ってもらった方がいいと思う」
「大丈夫だって、そんな赤ちゃんの初めての断髪式や力士の断髪式じゃないんだから深く考えないで」
どうせ伸びたら切るだけのもので普段も自分で適当に切ってるから慣れている彼女にとってジモの反応は少し堅いため、もう少し彼は物事を柔軟に受け取ればいいと思いつつなおも動こうとしない彼の手の中のハサミをとっては彼女は自分の髪に躊躇なくハサミを入れてみせた。
「あッッ!!」
バスルームに響いたジモの声に彼女は床に髪を落として次の束を乱雑に掴んではハサミを入れようとするのをまるで拷問でも見ているかのように耐えきれず彼女の手首を掴む彼の顔は相当苦痛に満ちていたものだろう。
「おっ、俺が切るから」
「そう?じゃあお願いします」
チャイは初めて美容室に来た子供のような浮き足立った気持ちで目を閉じて嬉しそうに待っていた、正反対にジモは人生でも一番と言えるほど緊張した、彼の人生において張り詰めた時は多くあったが他人の髪を、特に好意を持つ相手の髪を切ることよりも張り詰めた時はないだろう。
指から抜ける細く美しい髪に本当にしていいのかとゴクリと唾を飲んでは彼は勇気をだしてハサミを入れた、まるでそれは新たな二人の門出のようである音であった。
◇◆◇
「短いほうがやっぱり好きでしょ?」
外はすっかりと暗くなる頃、彼女は窓を開けてその縁にビールを片手に腰かけて告げればジモは否定はできずに曖昧な返事をした。
髪が短いと明るい彼女の表情が良く見えた、にこやかな柔らかなその表情にいつも視線を奪われていたジモは見慣れた横顔を眺めつつベッドサイドに腰かけて照れくさそうにビールを飲んで彼女を見つめた。
女の髪も顔も服装も体型もどうだってよかった。
多少の好みはあれど結局惚れてしまえば、好みは所詮理想でしかなく現実は正反対であったりもするがジモにとって好みというものはあまりなかった、けれど出会った頃から短い髪に眩い笑顔の彼女をみていればそれが定着してしまい、好みかと聞かれてしまうと比較的そちらを選ぶだろう。
「今日はありがとう」
「いや、俺こそ」
慰めることなど出来なかったとジモはただ自分の感情を彼女に押し付けただけの日であったことを理解していたが彼女はそれを受け入れ、そして出来るうる限り以前のように笑ってくれるようになっただけでジモにとって嬉しいことこの上ないだろう。
寒い外の空気が互いのアルコールの熱を程よく冷ますものの退院したばかりの彼女にはそろそろ体に障ると立ち上がり窓を閉めようと彼女に声をかけて縁から下ろしてやり、少し立て付けの悪い窓に手こずりつつも窓を締め終えたジモが振り返ろうとすれば頬を包まれて彼女の顔が近付いた。
数時間前に味わった柔らかな唇の感触に目を閉じて受け入れればただ静かに彼女は唇を重ねるだけでジモはその手をどうしていいのか分からずにいれば彼女の手が招き、顔の火傷の痕に案内されれば彼はその頬を優しく撫でて薄く目を開いた。
「好きだよウォン・ズーチャン」
真っ直ぐとした瞳は外の灯りを反射させてキラキラと輝いていた、何も無いただ自然に取り囲まれた戦地で空を見る度に世界が輝いていると感じるほど美しい夜空だった、まるで彼女の瞳はそれと同じであり、彼女には他人には渡せぬほどの重みがあり暗闇が存在する、けれどその中には彼女の信念となる光が存在しているのだと瞳が物語ると感じては今度はジモが彼女に唇を重ねた。
互いのアルコールとシャンプーの香りが香った、人の香りというものは不思議で同じ洗剤やシャンプーを使っていてもどこが異なる香りを醸し出し、その香りが心地よく包み込まれたいと願ってしまうほどで彼女の背中に左腕を回して強く抱き締める。
「俺も好きだ、フォン・フーファイ」
いい慣れない呼び方だと感じるほど二人は傭兵としてのコードネームがその身に染み付いていた、だからこそ今更自分の本名を呼ぶ相手というのは家族程度でありこそばゆく愛おしいと思えた。
狭いベッドの中に二人で横になってはただ顔を眺めて触れて何かを話すこともせずに過ごしていた、彼女の手がジモの唇を撫で、ジモの手が彼女の頬を撫で、時折引っ張ってつついては子供のようなじゃあいがこそばゆくなる。
「火傷のことなんて、本当はどうでもよかった」
中絶だって何も気にしていなかったと彼女はふと呟いたためジモは手を止めて彼女をみつめて話に耳を傾れば、小さな手が彼の手を取り指を絡めた。
チャイにとって家族がいなければ生きる意味など分からなかった、血は水よりも濃く家族は何者にも切り離せない縁であると理解していた彼女にとって半分しか血が流れていなかろうが弟達は全て守るべき存在であり、彼らがいなければ死んでいてよかったのだ。
だからこそどこまでどん底だと嘲笑われようが気にならず、反対に誇らしささえ感じていた、自分の全てであるのだから当然だ。
「けどあの日、私は家族よりもジモくんのことが頭に浮かんだの」
もっと話したかった触れたかった思い出を作りたかった。
好きだといえばよかった。
その後悔を感じた時、自分の薄情さに反吐がでたとチャイは語る。
それはまるで走馬灯のようで、彼の姿を思い浮かべしまった時、家族への裏切りを感じた、自分の気持ちは全て偽りなのかと思えてはこの世全てに絶望と罪悪感を感じた。
家族よりも男を取る醜い姉だと思えば生きていることの意味さえ分からなくなり、彼を拒絶すればましになれると思えた、ジモからの愛情を向けられる度に彼の人生さえ踏み躙った気分となり、尚のこと足掻くように彼に当たり散ら遠いに追いやりたいと願っていた。
「私は家族さえ大切に出来ないダメな人間なんだと思った」
彼らには自分しかいないのだから、その想いは裏切りだという彼女にジモはその気持ちも理解できたが人はそれほど単純ではないことを知っていた。
人は強欲で手に届くのならば全てを手にしたいと願う生き物で、それはジモも同様だ。
「これは慰めじゃないし幻滅されて構わないけど、俺も同じ状況の時はきっとチャイを想う」
死を目前にして家族を思い浮かべるがそれ以上に想うのは彼女だとジモは確信していた。
「それが愛ってものなんだ、家族と同じくらい大切でそれ以上に守りたいと思う」
それは他人であったとしてもそれが繋がり合えば家族になるのだから、彼女の思いは健全なものであるとジモは告げるとチャイは黙り込んだ。
恋とは不思議なもので会えていない時ほど相手を求めるように考えてしまい全てが疎かになる、ふとした時に思い浮かべそして熱に浮かされたり、時に怒り憎しみさえ抱くほどで、家族には無い感情だろう。
「でもそうした時に想う気持ちこそ、本物だと思うんだ」
愛している。というような彼の言葉と繋がれた指がさらに強く絡められ触れ合った手から熱が全身に広がるように感じられ、彼の言葉にチャイは鼻の奥がツンとすれば彼の腕が伸びて胸に優しく包み込むように手繰り寄せた。
戦場に立ち引き金に手を掛ける度、命の価値とは何か分からなくなってしまう、苦しまないようにと出来るだけ楽に殺した相手も家族がいただろうに何も思わないがそうした命のやり取りのない場所に一度戻るだけでその価値の意味を知ってしまうのは人の心があるからなのだろう。
ジモもチャイも互いの痛みと苦しみを理解しては互いの背中に腕を回して確かめあった、胸の内に温もりを感じてはそれが愛なのかとチャイは思うとそれが痛くも心地よく静かな部屋で呟いた言葉に返事はなく、ただ想いを胸の内でもう一度呟いた。
愛していると。
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