「スールイ!ルイファを起こして!ユンエもテレビ見てないでご飯にして、ハオランそろそろ登校時間でしょ!」
朝八時、中華人民共和国、上海にてジモは目の前の光景に苦笑いをしつつも出されたおかゆを食べながらその大きな背中を縮めた。
彼は今チャイの実家に来ていた、全員が忙しなく動き回り朝食やら朝の身支度を整える中でジモはお椀の中身が空になれば片しようとするものの隣から手を取られてまたおかわりを入れられる、これで三度目であり、もう結構だと断りたかったものの無言で見つめてきた少年は「朝食が一番大事だから」というのだからこれが最後の一杯だというように彼はもう一度満帆のお粥を口にした。
「ジモくん美味しい?」
「あぁすごく美味い」
「そう?よかった、ルイファおはよう早く顔洗ってご飯食べて」
家の中に響き渡る彼女の声を聞いてジモは騒がしいと言うのに嫌な気持ちにはならなかった、それがこの家庭の温もりだと痛感するからだ、隣に腰掛けてきた寝起きの少年はジモをみてはニヤニヤと笑った。
「おはようジモさん、姉ちゃんと昨日どこまで進んだ?…っっ」
「もう変なこと聞いてないでご飯食べなさいよ、遅刻するよ」
「ジモさんひとつ言っとく、姉ちゃんはすぐ手が出る女だから舐めない方がいい」
「ははっ知ってる」
少年たちのアドバイスに苦笑いをするジモは朝食を取りつつ、狭い台所を支配する女性を見つめる、彼女は今日も忙しそうにしていた、しかしながらその姿は自分の母にも似ているように感じた。
ジモは彼女の背中を見つめては家庭的なのだと思いつつお粥を胃の中に流し込むと昨日の胃もたれを癒すようであった。
◇◆◇
それは今から数日前、ジモは珍しく母国に帰国していた、当然春節でも冠婚葬祭でもない彼が来る理由は任務の関係からだった、本来通信兵のジモ向きの任務ではないものの上海付近の麻薬カルテルが絡んだ任務であり中国人であり、それなりの地理を理解している彼がいる方が遥かに任務はスムーズに進むとの判断からであり、実際任務はジモが思うよりもずっとスムーズにことが進んだ、彼の母国でもあるためか数日の休暇を得た彼は実家に戻るかどうするかと街中で考える頃、一台の原付が目の前で止まった。
「ジモくん?」
「チャイ?」
今年は随分とよく会うものだと年に二、三回程度しか会わない相手に驚きつつも彼女はヘルメットを被っており、普段とは違う無地のワンピースを身にまとっており、道端にバイクを置いてはジモに向かい合うように立っており見慣れない彼女の姿に思わず足先から見つめてしまうと照れくさそうに笑われた。
「まさかこんな所で出会うなんて思わなかった、任務終わり?」
「あぁチャイこそそんな姿でどうしたんだ」
「休み中で実家に帰ってたの、今は買い出しに向かう途中」
「そうか、それは邪魔したよな」
相手の休みを潰すのも悪いと挨拶を短く済ませジモは背中を見せようとしたがふと左手首が何かを掴み振り返れば彼女がジモの顔色を伺うようにみつめては彼の予定を聞いた。
特に予定もない彼は歩きなれない上海で適当に夕飯を取って明日にでも実家に顔を出そうかと検討していた旨を伝えれば彼女は左手の細いプライベート用の腕時計をみつめては物言いたげな顔をしたため、ジモは素直にどうしたのかと伺えば夕食の誘いを受けた。
「っていいながら付き合わせてごめんね」
「いやいいさ、にしても帰ってきても大急ぎなんだな」
「たまにしか帰って来れないし、食べ盛りが多いから」
そうして彼女に誘われるがまま買い出しを付き合ったジモは繁華街から離れた狭い住居区の中のひとつの家に招かれた。
狭い賃貸はそれぞれの生活を感じることとなり、ジモが住んでいる住居区とはまた違う雰囲気を持って、彼女が通る度に顔を合わせた住民たちは彼女ことを親しげにフーファイという名前で呼ぶことに、ここが彼女の本来の居場所なのだと感じられる。
狭い階段を登りたどり着いた家で夕飯の支度をする彼女を眺めていたものの手持ち無沙汰となったジモは餃子くらいであれば自分も得意だからと告げて手伝いをしてやった。
一階が駐車場となった四階建ての狭い賃貸は各階2DKの少し狭い家であり、その内の二階は壁を壊して全員で過ごすリビングやダイニングルームの一部屋となっていた。
ジモが手伝っても多いと感じる食料品を冷蔵庫に直しては夕飯に使う食材を取り出すは手馴れたようであり、そうした家庭的な姿にジモは自然と視線を奪われながらも手の中の包まれた餃子をトレーに並べていく。
「こうしてジモくんと出来るだなんて思わなかった」
「俺もまさかチャイの家に来るだなんてな」
「ジモくんやっぱり包むの上手だね、お家でもしてたの?」
「週末はよく母さんの手伝いをしてたから、入隊してからはめっきりだから不格好なのがあっても大目に見てくれよ」
誰かと食事を作ることなんて一体いつぶりだとジモは考えた、彼自身スペックグルーの兵舎を利用するものの休みがあれば自身の家に帰り出来うる限り健康を気にして自炊するようにしていた。
しかしながら帰るのは一ヶ月に一度程度でもある彼は対して冷蔵庫を満帆に使用することも出来ず、食事を摂る際も仲間や知人と基地での食事が多く、年に一・二回程実家に帰り食事を取れたらいい方だった。
そんなジモからしてみればまさか別PMCである彼女の実家で横並びに料理を作れるとは思わず皮を作り終えた彼女も包む作業に切り替えて、ジモの隣に立ち餃子を包む。
「結婚するなら餃子を包むのが上手い人がいいって亡くなったお母さんが言ってた」
「どうして?もしかして包容力があるからとか?」
「フフッそう、でもジモくんは当てはまってそうだね」
彼女は慣れた手つきで包んだ餃子をトレーに乗せるが店のものと変わらない綺麗なものが置かれて、ジモが一つ仕上げる前に彼女は三つ四つと素早く包んで並べる。
彼女の言葉に自分の母も似たようなことを言っていたと思い出す、料理の上手い女性と結婚したらいいと、食の趣味の合う相手といれば生活で苦になることは少ないからという自分の両親は料理の好みが似ていたと思い出し、ジモはじゃあ彼女は何が好きなのかと考えるが彼女はどんなものでも美味しく食べるタイプであり好き嫌いの話をしているのは聞いたこともなかった。
彼女のことを考えている間に残り少なくなってきた為、あとを任せると告げられたジモはいつまでもノロノロと作業してはならないと気を張って包み作業を続けていれば時刻は夕方を回り家のドアが開いては騒がしい少年たちの声が聞こえた。
チャイが帰ってきていることに大した驚きも感じない彼らはジモに挨拶をしてまるで普段と変わらない態度でチャイに話しかけた、料理中の彼女が彼らに今日は食事の用意はいいからと告げては彼らが離れていく姿を見て思わず微笑ましく見つめてしまう。
「そんなに笑ってみて、私変なこと言ってた?」
「違う、お母さんみたいだなって」
「まぁ母親代わりみたいにやってきてるから間違いじゃないかも」
「きっとチャイは本当のお母さんになるのも似合うと思う」
「それは⋯どうかなぁ?私なんて普通だよ」
世の中もっと素敵な女の人は多いし、自分なんてなんの特徴も得意なことも何も無い。と告げる彼女が気恥しそうにしつつも何処か寂しそうな反応をする為、ジモはそうした話はあまりしない方がよかったかと少しだけバツが悪そうにしてしまいながらも「俺はそう思ってる」と餃子を包み終えてトレーを片手に彼女の横に並べば彼女はジモを赤い顔で見つめた。
「そういうジモくんはいいお父さんになりそうだよね、真面目だし子供好きそうだし器用だし」
「そうか?子供は嫌いじゃないし確かに手先は器用な方だと思うけど、手洗っても?」
「狭くてごめんね、はいどうぞ」
そうして軽く話をしつつ野菜を洗っていた彼女に手洗いをさせてもらえば二人の肩が触れた、互いの熱を僅かに感じて料理の香りに交じって微かに異なるジモとチャイの香りがした、香水や頭髪剤などを使っていない為自然としたシャンプーの香りは嫌いじゃなかった。
隣合わせのその距離感は普段の緊迫感のある場所ではない故なのか下手に意識をしてしまう、ジモが足元の掛けられたタオルを取ろうとすれば視線が絡み合い二人は静かに見つめあった、まるで互いの息を飲み合うように感じジモは溜まった唾を飲み込んだ。
「チャイ「ただいま⋯ゆっくりどうぞ」
最悪だとジモが思う頃、彼女は帰ってきた弟に母親の如く声を荒らげるためその空気などすぐさま消え去った、もちろん彼はあれ以上彼女に何かをする訳では無いにしても少しばかり残念に感じた。
そうして全員が帰ってきた19時、大きな鉄板を二つ並べて十人でいるには狭いリビングにて餃子を焼きつつ適当につまめそうなメニューを置いていくチャイは帰ってきたら休む間もなく忙しなく働いており、休暇の為の帰省だというのに意味をなしてないと思いつつジモは出された白酒を飲みながら皿に乗せられる餃子を口にした。
数でいえば四百個ほど作ったはずが食べ盛りの十代中頃の少年が多いこの家では奪い合いに発展しそうなほど簡単にそれぞれの胃の中に通される、焼いたり皿によそったりする彼女にジモは少しは席について食事を取ればいいと思う頃、チャイの右隣に座っていた青年が彼女の皿に焼き上がった餃子を置いて白酒を手渡しては食べるように言い座らせてみせた。
気付けば時刻は22時を過ぎてそれぞれがシャワーを浴びる頃、ジモはこの家の長男でありチャイの弟であるセイファイという青年と皿洗いをしていた、すぐ後ろに机に突っ伏した彼女は起きる気配は無く、静かに皿を拭く彼に何かを話すべきかと悩んでいる頃、沈黙を破ったのは相手だった。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「こっちこそ大事な家族の時間に邪魔してすまない」
「そんなことないです、ジモさんに俺たちみんな感謝しているんですから、あなたの顔を見れてよかった」
「感謝?」
礼儀正しい彼はほかの兄弟よりも大人びており、現在は医学生として大学院に通っていることを聞いており、その話を彼女はいつも嬉しそうに自慢げに話をするのだから知ってしまうのは無理ないことだった。
ジモからしてチャイは立派だった、弟といえど彼女と一番上の弟は三つ四つしか変わらない年齢であり、ジモと姉の年の差と同じくらいであり、さらに言えば彼女はジモよりも年下であり、その彼女がこの大家族を養う為だけに一人で精一杯に世界各国を駆け回っていることは誇らしいことのはずだが彼女はそれが当たり前でしかないという。
「よく笑うしいつもあなたの話をしてくれるんです」
「それをいうなら俺も君たちの話ばっかり聞いてるけどな」
その言葉にセイファイは照れくさく笑いつつも食器を洗い終えたジモに濡れた皿を拭きながらも真剣な瞳で見つめた。
「姉さんが好きですか」
その問いに対してジモはYESとしかいえない、しかしながらそれを伝えられないのは彼女には彼女の生き方があり、そこに自分が割って入れないことを知っていた、彼女の全てを共に背負いたいと願ってもそれは彼女の問題であるため拒絶されてしまえばそこまで。
チャイは他人に迷惑をかけない様にと過ごしていることを知っている、だからジモは余計な詮索もせず、ただ偶然会えた時の喜びだけを感じていた。
「率直にいうと好きだ、隣にいたいって思う」
「じゃあ居てやってください、俺達は弟でしかない」
姉さんはずっと孤独だ。
そう呟いたセイファイはチャイが寝ていることを確認しては拭き終えた食器を片して冷蔵庫の中から二本のビール瓶を取っては話がしたいとベランダに招いた。
密集した建物ばかりであるからか生ぬるい風が二人を撫でる、食卓の香りや人の笑い声が聞こえることにジモは久方振りの平和を感じられた。
「姉さんは16で入軍したんです」
「18じゃないのか」
「18に売られるから、その前に入るしかなくて顧客に身分証を偽ってもらったんですよ」
「顧客って⋯」
その言葉に彼は眉を下げて笑ったことにそれが到底表立って言えるような普通の仕事ではないことを理解したジモは、チャイの従軍歴が自分と変わらないほどだということは理解していたが驚かずには居られなかった。
◇◆◇
薄く目を覚ましてはチャイはジモが弟と話をしている姿を見つめた、ジモへの気持ちは全員が知っている、隠す気などはない、それは彼が無理強いをしないからで、彼は誰よりも優しい人であり、だからこそ心から好きだと感じた。
チャイにとってジモはこの世界で家族と同じほどの相手であればいいと思えた、けれどそれは出来なかった、自分一人に縛られて人生を棒に振って欲しくなかったから。
もう一度チャイは目を閉じた、この家に彼が居てくれるのだとそれが現実であることの心地良さから目を背けるように。
◇◆◇
チャイの人生はいつだって他人から見てみれば苦労でしかない、八人いる弟たちの内の五人は血の繋がらない兄弟であったから。
初めは香港の普通の家庭だった、しかしながら三人目の弟を産むと同時に母は亡くなった、その後心に傷を負った父はシングルマザーだった女と付き合い、上海で暮らすようになり、さらに三人の子を授かったがある日を境に父は帰ってくることはなくなった。
しかしながらキャバレーの女であった義母である女ははいつもチャイに対して「綺麗な子」といって愛でていたのだ、その瞳は獣のようだった。
しかしながら彼女達はあっけなく捨てられた。
子供だけの生活が上手くいくわけがなかった、放置子であると理解していたチャイは親と呼べる二人が時折顔も見せずに置いていく金では足らぬことを理解してまだ幼い身でありながら仕事をした。
「いい仕事があるから紹介してやろうか」
人生の転落も好転もきっとそこからだった、齢十三のチャイは学校にも通えず読み書きができなかった、しかしながら彼女は生きる為の知識を必死に学び行政に可能な限りの福祉を受け、弟達だけは普通の子供のように振る舞わせた。
そして弟達が明るい陽の下にいる頃、チャイは自分に声をかけてきた"子供への福祉ボランティア事業サポート"をしていた男に誘われるがまま、暗い地下で男に愛でられることに決めたのだ、何度も嘔吐し涙を流して嘲笑われ彼女の全てが穢されたとしても、その誇りだけは失わずに生きられたのは彼女にとって"家族"が唯一の世界だったからだ。
「俺たちが生まれた時のこと、そりゃあもう嬉しそうに話すんです、そこいらの母親よりも嬉しそうに」
そう告げた彼は本当に嬉しそうであり、ジモは胸が締め付けられる、そんなことはよくある話だと、それこそ傭兵としての日々を過ごす中で幾度も目にしてきた環境を今目の前で話されれば彼は同情してしまう、彼女たちがそんな眼差しを望んでいなくとも、人は自分より劣り劣悪な環境だと思う生物に感じてしまうのは通常のことであるだろう、チャイもそれをきっと理解していた。
そして話を続けようとするセイファイだったが窓を軽く叩かれて二人が振り向くとそこには寝起きのチャイが立っていた、二人はベランダの窓を開けて挨拶をしたものの彼女はセイファイにもう遅いからシャワーを浴びて寝るようにと告げて入れ替わりで彼女もまたビールを手にベランダに出てきてはジモの隣に立ち、夜風を感じていた。
先程の会話を聞いていたのだろうかと考える合間に彼女が先に「私の話聞かされてた?」と呟く。
「あぁ香港生まれだったんだな」
「小さい頃ね、ここの方がずっと長いよ」
「そうか」
「ジモくんは家族が好き?」
私はね、大好きだよ。
そういった彼女はいつものような微笑みなどなかった、遠くを見据えており、何処かに消えてしまいそうな程だと感じる、それは戦場で遠目に見る時の彼女によく似ており、きっと本来の彼女の気質はこちらなのだと感じるジモは当たり前に家族が大切であることを伝えた。
「弟が産まれた時、私はなんだってしてみせるって決めたし、お母さんに誓った、だからどんな事も苦じゃなかった」
「自分の自由がなくてもか」
「自由だよ、私は自分で選択してこの道を進んでる」
人を殺すこと、生かすこと。
「それでも少しだけ辛くなる時はある」
泣きそうな声の彼女の声にジモが振り向こうとする前に彼女はジモの背中に顔を埋めた、腰に腕を回して彼の洗剤と汗の香りを深く吸い込んでは彼が今ここにいるのだと深く感じる。
細いその手をジモは見つめてそっと握り返した、銃を握ることになれた彼女の指が絡めば指タコが出来て指先は少しだけ皮が厚いと感じ、それが彼女の掴んできた道だと理解した。
「私ね、本当は誰かに嫁ぐ予定だった、だけど逃げ出した」
「好きな相手じゃなかったのか」
「うん、お義母さんのお客さんだった」
きっと同い年の少女達が同年代の少年に恋をして笑い合う中で自分はずっと異端であることを札束をベッドの上で握りながら理解していた。
何年も自分を失うような生活をしていた彼女にとって性別や相手個人などはなく'人間'という括りでしか他人を見られなかった、チャイのような少女たちを飼う相手は当然金を持っておりパトロンになることを誇りに持つほどだった。
まるで彼女達は人形のようであり、美しさと若さを金で買われて、下卑た目を向けられるのだ。
久方振りに戻ってきた父親は酷く泥酔をしており、チャイの仕事終わりをみては義母との間に子供なんて一人もいなかったと告げ、翌日彼は四階の建物から飛び降りた、金のひとつも残さずに。
義母は父親に恋をしたものの浮気性が酷く別の男との間に身篭った子供を父親の子だと嘘をついて押し付けていたのだという、女もまた五人目の子供を置いた後に帰ってくることはなく、チャイは自分が小さな命を育てる乳母のようにさえ感じられたが弟が増えることはなんの苦にもなりはしない、守るものが増えるだけ自分が今いる環境が少しだけマシに思えたからだ。
「でもみんなが悪い人じゃなかったの、優しい人もいた」
「子供を買う奴等が優しいわけないだろ」
「かもね、でもね、大佐は、ウォン大佐は違ったの」
「⋯軍関係者が?」
チャイからしてみれば相手の職業はどうでもよかったが政治家や企業の社長に軍関係者は確かに多かったと思い出し告げればジモは奥歯を噛み締めてしまう。
店に来る客達は招待制であった、当然未成年淫行売春など許されるわけがない、だからこそその店の少女たちは普通の人間よりもずっと稼げるのだ。
ある日現れた男はその場所に似つかない軍服をシワひとつつけること無く身にまとっていた、彼はベッドの上にいたチャイをみるなり離れたソファに腰掛けて自身で冷蔵庫の中の水を取り出した。
「大佐は私に触れなかった、その代わり来る度に読み書きを教えてくれたの」
「そいつに惚れてたのか」
「ないよ、お父さんみたいな感じ⋯そういえばジモくんもウォンさんだったね」
「名前を変えたくなる」
「軽蔑しないで、ウォン大佐は本当に優しい人だった、お父さんやお兄さんみたい」
不定期に現れたその男は、その都度幼い彼女に絵本を読み聞かせ学習書を渡してくれた、勉強というものが楽しかったチャイはその男の膝の上で過ごす度にまともだった頃の父を思い浮かべた。
しかしながらある日、自宅に帰ったチャイの前に派手なメイクと服を着た義母が現れた、彼女はいつの間にか成長した十六歳の彼女に商品を見るような眼差しでみつめては嬉しそうにして処女であるのかと問いかけた、弟たちの寝静まった深夜であった為彼女は違うと素直にいえば女は煙草に火を付けてはその赤い口紅を光らせて濃く太いアイライナーを引いた眼差しで告げた。
「日本人かベトナム人の金持ちがあんたを買いたがってる」
その言葉にジモはふと疑問を抱く
「そもそもどうしてそんなに金がいるんだ」
「帰ってくる度にあの人たちが借金をしてた、お父さんも死ぬ前にあの女に渡す金を」
「そんなの払う義務なんかないだろ」
「闇金にそんな話が通じると思う?」
日夜問わずにドアを叩かれ命の危険性を感じる状況であったのだ、彼女の冷静な言葉にジモが言葉を飲み込んだ、それは彼が何も背負うものがないからいえるだけであると自分でも理解していたからで、彼女は違う。
彼の背中から離れてビールを飲んだ彼女は外を見つめた、どちらとも結婚なんてしたくないと初めて思った、初めて世界に反抗したくなった、それは彼女が男に教えを受けたからであり。
「ウォン大佐の奥さんになりたい、愛人でもいい」
裸のままでそう彼女はある日ベッドで告げた、裸の陶器のような真珠のような美しい少女を抱かない男に告げたのだ、それは信頼であり彼は非道な男ではないと感じたからであり、身売りされる彼女に男は何も言えなかった。
人一人をこの店で買う程の勇気も度胸もない、仕方がない、彼は家庭を持った平凡な男であったから、彼女もそれを理解していた、実際大人になった現在彼女はあの男と本気で結婚したいと思わなかった、それは逃げたいという意味であり、彼はその言葉に初めての願いだからと応えてやろうとした。
「それで身分証を偽らせて入軍したのか」
バレてしまえば二人とも即軍法会議に掛けられ除隊させられるものだろう、そうした者がごく稀にいることを知っていたジモは彼女の入軍の理由を納得した。
ウォンに金を借りたチャイは母親にその金を渡し、従軍後普通の兵士としての日々を過ごし彼に報いるためにその生活に命を捧げんとばかりに打ち込み、特殊部隊の第一狙撃手としての地位を得た。
「でも人の噂って簡単に広がる」
「ウォンとの過去を露呈されたのか」
「初めは噂にしか過ぎなかった、けど私の写真がバラされた」
どこから入手されたか分からない少女の頃の裸体、男達に弄ばれた彼女の写真はすぐ様軍内に広がり問題視され、男ばかりの環境下で彼女は度々嫌がらせを受ける羽目となったが彼女は決して屈することはなかった、そしてもう二度と男を味わいたくないと抵抗をし続けていた。当然彼女の上官であるウォンは知っていても二人は他言無用でいるしかなかった、でなければ裁かれるのはウォンであるのだ。
そしてウォンは首を吊った。
それは丁度チャイが任務から帰ってきてすぐのことで、男ばかりの軍内で彼女は更に好奇の目に晒され続けた、ウォンの自殺は悲しまれたものの彼女との関わりは無いとされたため問題はなかったがチャイは自分のせいだと理解していた。
「写真は結局お義母さんが入手して売り飛ばしたんだって」
「嫌がらせか」
「だから殺した、殺す気なんて本当は無かったのに掴み合いになったの」
「⋯そうか」
彼女はベランダの縁にもたれかかってごく平然とした態度で告げた、それは一切の後悔もないような表情で。
その事件のすぐあと義母と顔を合わせた彼女は話をした、何故そうしたのか、お金を渡して全て万事解決で終わるはずじゃなかったのかと胸の内を吐き出した、下手なことをされてしまえば弟たちの受験や就職にさえ関わる、姉が軍人であり、それも勲章さえ得た経験のある愛国心のある兵士であれば、それだけでそれなりに優遇される場合もあり、周りの目が良くなるのに何故邪魔をするのかと告げれば女は彼女に告げた。
「あんたが母親似だから、あの人は私の事なんか愛してくれなかった」
憎らしくてたまらなかったのだろう、馬鹿で無垢なチャイが、女の言葉にチャイは気付けば女につかみかかっていた、女の死体は売春街に棄てられた、死体がひとつ現れても誰も気にはしない、どうせ馬鹿な女が逆らったから殺されたのだと、女の死など誰も気にせず日常のように扱って。
「コルタックへの紹介も死ぬ前にウォン大佐がしてくれてた、家族全員の安全と将来の保証を私が所属する限りはしてやるって」
「だからコルタックにいるのか」
チャイにとってコルタックの居心地は良かった、実力主義のあの会社はそれぞれが表舞台に立てないが故に逃げ込む輩も多かった、ジモのように真っ当な軍人のみを雇うスペックグルーは政府からの信頼はもちろん厚く重宝されるが、それだけで世界は綺麗に進むことは無いのだ。
「銃と戦場が私の人生なんだと思う」
「そんなことない、きっともっと別の道がある」
「どんな道?好きな人と結婚して子供を作って家を買って歳を重ねて静かに死ぬこと?」
それが出来るのは極わずかな人間だけだと告げる彼女にジモは違うと声を荒らげて否定したかった、けれど今彼は彼女を抱きしめて「俺が一緒に生きたい」ということは出来なかった。
それは彼女が持つ責任をジモが持つことが出来ないからだ、あまりにも大きく重たいそれを持とうとしても彼女が拒絶するからだ。
「いいんだよ、この人生で」
胸に飛び込んだ彼女をジモが静かに見下ろせばそっと唇が重なりすぐに離れた、もっと欲しいと思いながらも傷付けたくないと願うのはお互い様だった。
ジモはその背中に腕を回して包み込むように抱き締めれば彼女の腕が背中に回る、少し冷えた夜には丁度いい温もりだっただろう。
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