第九話
決して少ない恋をしていたわけでもないし、世間知らずというほどでもない。
それでも恋とは人をおかしくさせてしまうのか、それとも恵自身がそういう性質だったからなのか、あの事件は起きた。過去のことだとわかっていても、どこかで次の恋をするのが怖い。真っすぐ自分をみてくれた仁は誰が見ても誠実そうな人で、恵自身彼をそう思う。真剣な告白についても悪いわけではなかったが受け入れられるほどでもない。
彼はあの噂さえ知らないかもしれないからなおのこと。
九階デザイン戦略本部の意匠デザイナーの個人オフィスの一室、そこが恵の仕事場であり、いつも十時頃に出勤する。九時でもいいが電車やビルの入り口が混み合うため、フレックスの彼女は少しだけ時間をずらして出勤と退勤をする。
ありがたいことに志村建設に来てから、程よく仕事を振り分けてもらっており、暇はあまりない。久しぶりにしっかりと働いていると思う反面、本当にこれでいいのかと、時々手が止まってしまう。
社長の志村がよくしてくれているのも理解しており、感謝してもしきれないが、自分がここまでされるほどの人間かと問われるとそう思えない。学生時代から自分を評価してくれる人は少なくはないし、その人たちは本当にありがたい人たちだ。それなのに受け取れないのは自分の性格のせいだろう。
恵はため息をついて、画面から目を離す。一日何時間もパソコンを睨みつけるとさすがに目が疲れてしまう。ブルーライトカットの眼鏡だが近年ブルーライトカットは意味がない、という話を聞いた時にはどうすればいいのかと思った。画面の色をナイトモードにするのは却下だ。正しい色を使わねばならない以上ホワイトライトがきついモニターと睨みあうのも仕事の一環だ。
時計を見ると昼をとっくに過ぎて二時を回っていた、この時間なら十一階も人が少ないだろうと思い、こっそりと持ってきているお弁当を片手に階段で二階上に上がる。座り仕事になるため少しでも動いていたいのも本音だが、エレベーターで人に揉まれるのも嫌だった。
エレベーターのドアが開くと静かな社内ラウンジが広がっていた、十二時から二時までが食堂の開いている時間であり、それ以降は片付けられており、三時までは一応残り物があり、恵は味噌汁などを少し拝借しつつ、お弁当を備え付けの電子レンジで温めて、隅のほうの仕切りのある窓際の四人席のソファに座る。見晴らしもよくて静かで悪くないと思いつつ、昨晩の残り物のつくねの口の中にいれる。一晩経って味がよくしみ込んでいる。甘辛い味付けだが、中に入れた生姜がほどよく、細切れにした長いもがシャキシャキしている、と恵は自分の料理に満足している頃、人の声が聞こえた。仕事の話をしているのか、聞こえてきたのは意匠デザイナー室以外のデザイナーと営業部らしい人たちだった。
「オフィスのやつ狭間さんだっけ」
「あの人納期も早いうえにリテイク少ないし一番合うからな」
オフィスといわれて恵は珍しく頼まれたオフィスデザインの依頼を思い出した。確かにあのテーマ内容は自分が得意とするものだったと考えていたが、彼らはラウンジに彼女がいるのを知らないように話をした。
「でも入社三か月で大型案件から小型案件までってねぇ、志村社長直々に連れてこられたんだろ?」
「だけど腕は実際いいんだよな、無駄はないし、ウチの主任も結構気に入ってる」
「あの人なぁ、気に入ってるってどういう意味だよ」
同じフロアの他のデザイン部署を思い出した、主任は二人しかいないが一人はデザインを気に入ってくれて、よく話してくれるのを思い出す。しかし営業の意味深そうな言葉に、デザイナーは変な意味はないとちゃんと正してくれるが、営業側はどうやら恵についていろいろ気になることが多いのか、話をやめなかった。
「まぁ狭間さんって綺麗だよな、なんか高嶺の花系っていうか、影ある美人っていうのか?」
恵はその言葉に思わず顔を俯かせる。容姿を褒められて悪いと思いたくはないのに嬉しいとも自然に思えない。複雑な気分だと思いつつ彼女が顔を伏せつつお弁当を食べていると、案の定、行く先は例の話だ。
「だからあの人不倫したのかな」
「なんだよそれ」
「知らねぇの?あの人、前の会社で彼氏にフラれた腹いせに上司と不倫してた上に、彼氏のデザイン盗作してたって」
「噂だろ、本当お前らそういうの好きだよなぁ」
くだらないとデザイナーの男性が一蹴してくれたことにひどく感謝したと同時に噂とは本当に尾びれがついてしまうのだと感じた。まさか東京での話がここまで来るとは思わなかったとも思えてうんざりして、心がどんよりと落ち込んでしまう。
デザイナーの人たちはこの噂話をあまり真に受けない事実は、恵の仕事ぶりを知っているからだ。実力だけというのだろうか。もちろん噂を真に受ける人もいないわけではないが、恵と関わることはないし、恵はデザイン盗作の件については同じデザイナーとして当然恐れられることを理解しているから自分のオフィスから出ないようにしていたし、それを考慮して志村が意匠デザイナーに個室を与えてくれたのである。
そこまでせずとも、と思いつつも自分だけの空間で仕事をするのは心地よいため、今では素直に感謝している。
いつの間にか話をしていた二人もどこかへ行き、食べ終えた恵は水筒の中の熱いほうじ茶を飲みながら過去を考えた。
あの時、本気の恋だった。
本当に相手を愛していたし、相手もそうだと思った。
恋人に出会ったのは、入社してすぐだった。
その頃はまだ会社の顔デザイナーではなかったが頭角を現していた、三つ、四つ年上の先輩デザイナーで、恵は紹介されて相手の指導の下、仕事をするようになった。大学を卒業したばかりで社会人経験も、実際のデザイナーとしての腕が未熟な恵は真剣に学び、彼をいい人だと思った。それからチームでも仕事をしていたが、彼が会社の代表デザイナーの一人となった。
もとより彼のデザインセンスを恵も好いていたし、大手会社の顔デザイナーだなんて当然素晴らしいことだし、周りもみんないつ独立するだろうかと不安交じりの冗談を言っていた。
若いうえに、その時のデザイナー部の部長に直接スカウトされていた恵はその頃もまた別の嫌な噂が小さく回っていたこともわかっていた。知らないふりを続けていたかったが、評価を受け、褒められるたびに、その視線や声を余計に気にしてストレスを抱えるようになった。
『狭間さんの才能に嫉妬してるだけだよ』
そういって優しく慰めてくれる先輩に恵は惹かれてしまった。
いつだってそばにいて、優しくしてくれる彼を心から愛し、恋人としても尽くした。デザインを考えていればアドバイスをくれたり、反対にアドバイスを聞いてくれる時もあった。恋人としてもうまくやっていたと恵は思っていた。
残業だった、クライアントと飲み会だった、といって夜中にやってくる彼の介抱をしてやり、翌朝もしっかりと面倒をみてやることも嫌だと思わなかった。自分のような末端デザイナーよりも忙しいのは仕方ないと思っていた。
『俺が独立したら結婚しよう』
確かに彼はそう言った。
しかし彼はそんな気はきっとハナからなかったんだと恵は今なら理解できた。
初めに知ったのは、彼の浮気だった。それも社内の別の女性、それが重役の娘との浮気。真相はなぞだったが、恵はその時はっきりと相手に、恵が遊び相手だと言い切られた。相手の重役の娘は二十三歳で、同じデザイナー部の別の課で、正直なところ、才能はないのに評価されており、周りも所詮は上の人間の娘だもんな、とあきれていた。
浮気はまだよかった、それで縁が切れる関係で終わる上に、恵が自分が相手を見る目がなかっただけだといえた。正確に言えば、言い聞かせるようにできたのだ、どれだけ尽くしても、どれだけ頑張っても思うように応えてくれなかったのは、そういう意味かと納得できたのだ。
だがすぐにもう一件の大きな事件が起きた。
彼が自分のデザインを持ち出した、それも原本ごとだった。
恵が彼の仕事の詳細を知ることはもちろんなかったからこそ、知らなかったが以前から恵のデザインを静かに盗用し、ついには原本ごと奪い去った。それは彼と遊び感覚で作ったつもりのものだったし、数にすると少なくはなかった。数十はあったが公式的なものではないため、証明できなかったが、彼が会社に公式的に彼名義で出したデータのコピーが恵の手元にはあった。
これはどういうことなのかと上層部から強く責められた、彼は何も言わず、反対にはっきりと告げた。
『以前から狭間さんにアドバイスを求められており、私は先輩心から答えていました。それがこんな形になるとは本当に悲しいです』
恵はそれを直接聞いた時、どんな気持ちでいたらいいのかわからなかった。愛しているといってベッドをともにした男からの裏切りほど悲しいことはない。ある夜、彼は自宅にきた。何をしにきたのかと疲れ切った恵は思いつつも、荷物を取りに来たといわれると断り切れずに家に上げてしまった。
実際、家に上がった彼はまた恵に最低なことを告げた。
『上から言われたんだけどさ、報酬は払うから、恵がデザインして俺名義で出さないか』
当然だ、真相が明らかになれば彼は速攻解雇、それができないのは彼が重役の娘と正式に婚約したからだ。馬鹿なあの若いお嬢さんは婚約を言いふらして、社内で知らない者はいない。おかげで恵は浮気相手で、さらにデザインを奪った最低の存在。彼も婚約者もそんな彼女を許した寛大な人間。と表向きはされている。
そして表向きは会社の顔であるデザイナーの彼がデザインを盗用しているとなれば、彼を求めて依頼しに来たクライアントの信頼を失い、たちまち噂が流れて会社全体の信用問題へと変わる。
それなら末端の恵を捨てるのが一番である。デザイナー部の部長や上の人間は一部恵を強く評価してくれており、彼女がそんなことをするはずがないといった上に、これまでの仕事内容を提示して、盗用されたのは恵自身だと証明したが、上層部はそれで簡単に首を振らない。その代わりにゴーストライターはどうかと提案したのだろう。
人とはなんと醜く汚い存在なのだろうかと恵は思い、彼の頬を打った、そうするともともとその気のあった男は恵を打った。そして乱暴を働いた。
翌朝、恵は目覚めたとき、喉が枯れて酷い顔をしていると感じた。それでも仕事にいかなきゃならない、仕事をしなきゃだめだ、なんのために?
そしてカレンダーには、今回の件の会議があったのを思い出し、恵は黒いスーツを着て、メイクもせず酷い顔のまま、会議の場に出て、自分が盗用しました、と認めた。好きにしたらいいと思ったのだ。
デザイナーの仲間も恵を嫌う連中はいた。その人たちが流した内容は部長との不倫であり、その噂を聞きつけてやってきた部長の奥さんに頬を打たれた。人生で顔を打たれることがあることも驚きだが、それが昨日今日と連続かと思うと恵は笑った。
そして様々な目と噂を受けたまま荷物をまとめて退職届を提出して、綺麗にやめた。
実家に戻り、しばらく対馬で海と山に心を癒されながら、ここにこんなものを建てたい、ここで静かに生きたいと思った。しかし志村がやってきて、デザイナーをしてほしいと頭を下げられた。
志村は建築会社の社長であるが、本来はもうやめてもいい年齢でもある。その上、彼は対馬の大地主でもあった。生活には困らないはずだが、それでも続けるのは仕事がいきがいであるからで、彼ははっきりと恵にいった。
『ワシの会社の顔になってみんか?』
未来を作りたいといった彼のその頼みに恵はあまりにも真っすぐしているため、断り切れなかった。
わかったと二つ返事をすることには、季節はもうずいぶんと過ぎて、あれから一年が経っており、休むには十分だったと思ったのだ。
だから今この会社にいる。
仕事は本当に充実している。ありがたいほどに。人もいいし、働きやすい。
そう思うたびに境井仁の顔を思い浮かべてしまう、あの人とは違う真面目が顔に出ている人だった。真剣にいつでも話を聞いて、デザインのことなどわからないが、いいと思えばいいというし、自分なりにあまりと思えばその点を正確に伝えてくれる、はっきりした男で、人事部の安達からも仁は珍しい男だといわれたし、周りの評価もそうだった。人情に厚く、信頼のおける相手。
そんな相手だからこんな噂話の付いた女はよくないと思う頃には、時間はとっくに四時近くになっていた。今日も一人で遅くまで残業しよう、と恵は思いつつ立ち上がると食堂の清掃をしていた人たちも完全にいなくなり、恵は一人だった。それでいいのだ、一人のほうがずっと楽だから。