第十話
気付けば七月の下旬に差し掛かっていた。
外は蝉が騒がしく鳴いており。営業として社外に出る仁も文字通り汗水を流す日々だった。恵と社内で顔を合わせることはあるが、特に仕事が被るわけでもないため接触する機会はない。そのため話すことはもちろんなかったし、例の噂とやらも数こそ少ないが聞く機会はあった。
その都度、仁は何も言えぬ気持ちになっていたが、みんな仁の前ではそうした噂話はあまりしない。仕事関係で有益な噂話は共有してもゴシップ系を好かないことはみんな知っていた。噂話程くだらなく、意味のないものはないと彼は思っているし、聞いていてもいい気分にはならないからだ。
もとより真面目が服を着ているといわれるようなタイプで、その噂話を仁にしたところで盛り上がるわけではない上に、下手なゴシップは彼の視線を鋭くさせるため、仁が目に入ればみんな一度噂話をやめるほどで、仁の精神的にも助かる部分だ。
首に浮かんだ汗をハンカチで軽く拭った仁は現代日本の暑さには適わないなと感じる、今世でも幼少期はもっと涼しかったはずだが、年々地球温暖化の関係か例年四十度を超える日は出てきたし、熱中症で毎日人が倒れる。足を使って営業をするタイプの会社ではあまりないが、それでも部下の健康については気にしている。
午前中に動いて、昼はあまり出ないようにするなり、極力暑さに体をやられないようにと言っている。つい数日前、別の課の人が熱中症で倒れたと聞いていた営業部は全体的に体調管理に気を付けるようにと社から言われていたと思い出し、仁はちょうど自販機が目について、スポーツドリンクを買おうと近づいた。
基本的に自炊をして、私生活は一般的な独身男性よりも丁寧な彼は水筒を持ち歩いているが、暑さのせいか既に空になっていた。二百五十ミリリットルのペットボトルが二百二十円の文字に固まる。倹約家というわけではない、別に貧乏性でもない、しかし日ごろからスーパーにいき、買い物をしている仁にとって、ペットボトルに入ったスポーツドリンク一本の値段について考える。
スーパーやドラッグストアだと二リットルの値段だ。
外の手軽に買える自販機ごときがこの値段、いや、手軽に買えるからこの値段なのだ。自販機の設置も、二十四時間の稼働している電気代、さらに現金だけではなく電子決済も可能であればその分の差し引かれる手数料。
境井仁は暇なわけではないが、そんなことを考える。会社の事務の人たちと話す内容の中には帰りまでの道のりのスーパーの話もよくある。ランチでお弁当を部下と食べていた時、一人分は正直割に合わないというのもよく理解できる。すべてがすべて自分で作るわけではないが、独身男性ゆえに物の値段はわかる。他人からお坊ちゃん扱いをされたとしても、仁はずっと現実を理解しているのである。
そうして少し悩んでいると赤い自販機はお金の挿入口のあたりに自社アプリのマークを表記しており、仁はこれだと感じた。以前部下に教えてもらって、社内でもこの自販機メーカーを取り扱うようになった要因。
スマホの歩数機能と連動しており、毎週目標の歩数をクリアするとスタンプが貯まり、三十個貯まるとドリンクチケットに変わるのだ。もちろんドリンクを買った際にもスタンプがつくのだが、部下にコーヒーを奢ってやる際などに教えられて使い始めており。アプリを開くと使っていなかったドリンクチケットが二枚、ちょうど期限が近付いているといわれ、仁は一枚を使用してスポーツ飲料のボタンを押した。ガコンと音がして、自販機の取り出し口から冷たいドリンクを取り出した。
「...何故だ」
何故か一本百六十円の水が出てきた。
仁は少し悩んだ、しかしドリンクチケットがもう一枚あるからいいかと思い、もう一度押してみると、今度は狙いのものがちゃんと出てきた。
キンキンに冷えたペットボトルを手にして、彼は蓋を開けると勢いよく飲む。いかんせんクライアント先に出向いたのだが、そこが駅から徒歩十分であり、タクシーに乗るのもと歩いていたが暑すぎた。
駅前に来ていた仁は周囲をみると、同じくスーツ姿のサラリーマンが暑そうにしているが日傘を差している。直射日光を受けない分、やはり些か涼しそうだ。昔ならそんな女のような真似といえるが、心頭滅却すれば火もまた涼しい、という格言も今では無意味で、仁は導入を検討するべきかな、と思い一息をついた頃、ポケットのスマホが震えた。着信だ。
着信相手は自分の課の部下の一人であり、何かあったのかとすぐに着信に出た。
「境井だ、どうした」
『お疲れ様です、突然申し訳ありませんが実は前の会議が長引いておりまして、次の会議に間に合わなくてですね』
「どういう案件だ?」
よくあることだと思いつつ詳細を聞くと、美容クリニックの内装案件であり、デザイナーを含めた話し合いだと言っており、そのデザイナーは恵だと言った。場所と名前を聞いていた仁はあそこか...と思う、ちょうど仁がいる場所からタクシーで五分の距離だった。デザイナーとは今回が初対面であり、営業が本来は紹介して今回は軽い話になるのだが、クライアントを考えると妙に嫌な予感がして、仁はタクシーに乗り込むと地図アプリの住所を告げて「急ぎで」と告げるとベテランの運転手はすぐに社内のナビに打ち込むと発車した。手の中の二本のペットボトルはまだ冷たい。
恵に連絡がきたのは、クライアントとの会議の三十分前だった。
『前の会議が押していまして行けそうにないです、代わりの人を頼みますんで先にお願いします』
よくある話だと恵は承知して、時間通り今回の依頼先となる美容クリニックに足を踏み入れた。白を基調としたシンプルなクリニックだが、ここ数年で何店舗も出しており、院長は若くハンサムだといわれていた。やり手だが恵は興味がなかった。
受付に社名と名前を出すとすぐに来客用の部屋に案内される、ところどころに院長の趣味のようなものがみえると思いつつ、恵は今回の話で最初に聞いていた話から考えていた仮のデザイン案をいくつか用意して待機すると、部屋に入ってきたのは先ほど案内をしてくれた人が冷たいお茶を出してくれた。
そしてそのあとすぐに院長である男が現れた、明るくて若々しく女性に慣れたような姿は営業から聞いていた噂通りだと思いつつ、立ち上がった恵はすぐに頭を下げた。
「初めまして、志村建設デザイナー担当の狭間と申します」
丁寧に腰を曲げて名刺を差し出すと男は足を止めて恵をじっくりと眺めて名刺を受け取り「狭間恵さん、ね」と含みがあるようにいった。
そして恵の正面に座った彼の前にすぐにお茶が出される、恵とは色が違いと思えばジャスミンティーが好きなんですと話をした。ハイカラだなと恵は思いつつ、さっそく仕事の話をと思ったところ、相手の声がかけられた。
「いやぁデザイナーさんっていうからどんな人かと思ってましたけど、綺麗な方ですね」
「はぁ...ありがとうございます」
「ウチは元々志村建設さんにしてもらっていたんですけど、最近店舗も増えましたし。その中で本部も一新したくてですね...」
恵は手を止めてしっかりと相手をみた、そうした世間話にも思われがちな話でも顧客の希望や思いはしっかりと詰まっている。そういう場所から少しずつ汲み取ってデザインしていくのが彼女たちの仕事だ。
院長は服装こそ白衣を着ているが、そのシャツや腕時計などからしても正直なところ品があるとは思えないハイブランドのものを身に着けている。言い方は悪いが成金のようにも思える。恵が想像するに無駄なスポーツカーに乗って女性に金でもてはやされているのだろうと感じるタイプだ。
相手の話としては、元からリニューアルも志村建設に託すが、ここ最近はデザイン関係も強くなっているため、せっかくならデザイン性のあるものにして集客をしたいといった。つまりは室内だけを予定していたが、ビルごと買い取ったため、外も中もまるごと任せたいのだという。その中にデザイナーで紹介をもらった恵の作品が目に留まったという。
「恵さんの作品は本当に素晴らしいです、スタイリッシュで無駄がない、だけど上品で清廉的で、もうこれしかいないと思いましたが、本人を見てもわかりますよ、こんなにも美しい人なんですから」
「...ありがとうございます」
営業ではないため、そういわれてもありきたりな返事しかできない。
会社として相手の顔を立てなければならないのも事実、次第に向かいに座っていた院長は前のめりになり、恵に距離を詰めて興奮気味に話をするが、仕事の話というよりも恵自身の話をしてくるばかり、どうしたものかと思った。
以前まではチームで仕事をしていたうえに、今の会社でも営業が同伴してくれたり、二人きりになることはなかった。男女関係なくそうした距離感の人間がいるのも事実。社内であれば人事などにハラスメントと相談できるが相手は他社の人間。いまここで恵が不快だと思って告げて、万が一相手に話をなくされると営業のいない今は自分の責任になる。それだけは困る。入社して数か月で志村の顔に泥を塗るような真似はしたくない。
「そういえば今日は営業の方は来られないんですか?」
「遅れると連絡がありましたので、のちほど来られます」
「僕もこだわりが強いほうなんですよ、せっかくデザイナーさんと直接話せるなら二人きりのほうが嬉しいです、そのほうが話しやすいでしょう恵さんも」
「いえ、私はそんなこと」
そういって院長は恵の手を突然つかんではみつめてくる。
そこには仕事などはない、あるのは恵を“女”としてみているだけ。あぁそういう感じだと理解してはうんざりした。悪いが営業を抜きに話などできない、予算の都合や施工の話など、細かい話は営業担当で、反対にデザイナーこそ現場に不要だ。
場所が会社からそれなりに近いこともあり、現地の視察も含めてきたつもりだったがミスだったかと思い、恵が声をかけようとする前にドアが開いた。
「失礼します、遅れて申し訳ございません、担当の営業が遅れていると伺い、本日同席します、営業主任の境井です」
低く通った声、仁の目にははっきりと恵が目の前のクライアントに手を握られているのがみえた。微かに視線が鋭くなったが二人は気付いてはいない。
クライアントの院長は簡単に手を離すとにこやかに微笑んだ。
仁は恵に横に寄るように頼んで院長の向かいになるように座った、それは牽制であり威嚇だ、あくまでメインで話すのは営業、デザイナーも重要だがメインの窓口は俺だというような姿である。
呆気を取られる二人を置いて、仁は恵の資料を手に取って仕事の話を進めようとするが、相手はそれを止めて仁に愛想笑いをする、まるで邪魔だと言わんばかりの愛想笑いはあからさまだ。
「営業さんと話すことはもちろん大事ですけど、デザインのことは彼女と二人で話したいんですが、そのほうがきっといい案が浮かびそうなんですよ」
そういった相手の視線は恵に向けられて「恵さんも、ねぇ」と含み気味にいうが、彼女が何も答えられないのは当たり前のことが、ここで否定して相手を害するのも恐ろしいのは下の立場だと思う彼女は当然である。だが仁は対等な立場だと理解している、反対にこうした相手もデザイナー関係なくあった。若い女性だと思い、立場が弱いからと詰めてくるのだ。
志村建設には女性が少ない。それに近年そうしたハラスメントには厳しく、白黒はっきりしないことが嫌いな社長の志村もあって、クライアントとの話の際には基本的に二人体制になることがある。もちろん女性だからというだけで...という声も上がるときはあるが、それは社長自ら社員を守るためだと説明し、男女関係ないと説明すれば納得してもらえる。そうした信頼があの会社にはあるのだ。
だから仁ははっきりと反論する。
「申し訳ありませんが、その必要はありません。狭間は専門職として“営業に”同伴してくれいるだけです。要望や懸念があれば、第三者がいるほうが正確に共有できてよいでしょう」
「いや、でもね」
「また弊社では個別対応や非公式な進行をお受けしていません。本件も正式な記録を残し、進めさせていただきます。万が一そういったことを希望されます場合、弊社ではない場所へご依頼をしていただくほうがよろしいかと思われますが」
それと彼女は狭間です、と仁が相手を説き伏せると、相手も何も言い返せずに二つ返事を返し、通常通りの会議が進み、主要な確認事項はすべて終わった。
短い時間だったが、恵のデザインを気に入っていたのは本当のようで、案外スムーズに進みそうだと仁が思い、ビルから出ると恵が足を止めた。
「境井主任、本日はありがとうございました」
「いえ、当然のことをしたまでです」
もとよりあのクライアントは以前の依頼の際にも女性営業マンを相手に手を出そうとして注意人物扱いをされていたことをタクシーの中で仁は思い出していた。しかし恵はあの時、心からの安心感を抱いた。
それは第三者だからではない、境井仁の顔を見たからだ。
もう少し何かを言いたいのに言葉が出ずにいると、仁はカバンの中をまさぐって、一本のペットボトルを取り出して恵に差し出した、それはぬるくなった水のペットボトルだった。
「自販機で間違えて出てきたんです、口はつけていません。狭間さん先ほども一滴も飲んでないしょう?熱中症になりますよ」
「ありがとうございます」
どうしてこんなに良くしてくれるのか恵は思ったが、仁は自分に明確な好意を向けていたことを思い出す。
――あぁそうだ、この人は私が好きなんだっけ。
他人事のように思いつつも悪い気持ちはやはりなかった、昼過ぎの会議はそれなりに時間を費やしたせいで、空はもう夕暮れとなっている。とにかく社に帰るが恵は?と問いかける仁に、恵は少し寄っていきたい場所があるのでといった。
じゃあここでわかれかと残念がる仁だったが、恵は「境井さん」と名前を呼んだ。
「今日仕事終わりに飲みに行きませんか?話したいことがあります...終わったら迎えに行きます」
それじゃあとまた先に行ってしまった恵の背中に仁は声が出ずに目を丸くしてみつめるだけだった。飲みいこうと誘われた、迎えに行くと、その言葉に仁はカレンダーをみると明日はちょうど海の日だった。時間を見ると定時まであと二時間弱、彼女のことだからそのあとかと思うと彼は思わずシャツの首元を嗅いだ。とりあえず近くの薬局で汗拭きシートを買おうと思い慌てて探しに入るのだった。