第十一話
仁が会社に戻ってきたのは五時過ぎで直帰してもよかったが恵との約束があったため、自身のデスクでできる仕事をしていた。正直なところ仁は落ち着いていられなかった。明確に自分をフッたはずの恵から話したいことがあると言われたが、まったく見当がつかないからだ。あの日の小茂田のあとに二人に特別なことは今日以外なにもなかった。仁から無理に何かをすることも恵から何かをしてくることもなく、不快感などもなかったはずだったが、今更ながらあの日のことについて怖かった。もう二度と現れないでください。と言われた日にはどうすればいいと真剣に悩んだ。恵と結婚ができなくてもこの際構わない。しかし関係を断絶されることだけは耐えきれない。
『境井主任がいる以上、ここでは働けません。やめようと思います』
など正面から言われたら切腹する以外ない、そうだ、その時用の刃物を持っていくか?いや、襲われると思われたら困るから店で借りよう。
「境井主任!境井主任!!火傷しますよ!!」
部下の言葉に仁は手元をみた、コーヒーメーカーの手動ボタンを押しっぱなしにして、片手は紙コップでずっと持っていたため、手にはコーヒーがかかっており、慌てて冷やしに走った。仁がこうなるのはやはり後にも先にも恵だけだと思いつつ彼は余計な心配をかけさせたくないため、手の赤みが引いてくれるのを待った。
とんちんかんなことをやらかしたお陰か、部下たちは仁に今日は残業をするなと口うるさくいったものの、どうしても今日中に仕上げたいことがあると言って仁は一人残った。恵は約束を必ず人間であるため、このフロアに必ず来るはずだとわかっていた。PCはとっくに消して仁は自分以外の最後の一人が帰ったのを見届けながら外を見た。夏の空は夜が遅く十八時半でもまだ少し明るさを残している。
この会社に勤め始めてもう十年かとも感じる、そして自分は三十二歳、恵に出会えると思っていたが、こんな形で再会できるとは思わなかった。
あの頃と変わらぬ儚さと美しさを持つ彼女、あの頃仁は彼女と幸せな夫婦として過ごした時間は短かった、ものにして三年だろうか、自分が冥人と呼ばれ、伯父とも縁を切ったとき、彼女は決して手を離さなかった。伯父の志村も恵だけはまだ戻ってきても受け入れるだろうとわかってもいた。牢に入れられ死を互いに待つときも彼女は怯えていなかった。最後の時間だからと二人で牢に入れられている時も彼女はずっと変わらないようで、仁に告げた。
『そんな顔をなさらないでください、私はあなた様と夫婦になれたことが心より嬉しいのです』
『しかし、お前まで...』
『良いのです、恵は仁様と最後を共にしたいのです。最後までどこに流れようと、どこに行きつこうと、あなた様といたいのです』
『恵...』
『もしも許されるのでしたら、来世も、その来世も、そのまた来世も、あなた様とご一緒していたい、私はもうあなた以外愛せないのですから』
どんな終わり方でも仁がいればいい、とはっきり告げた恵に仁は泣いてしまいそうだった。こんなにも良い女を妻に迎えたのだと思った。ゆなに救われて、上県に二人が走りだした時も、愛馬を失い二人で埋めた時も、あの島から二人追い出されてしまったあとも、二人で、二人で、ずうっと夫婦として過ごしたのだ。
「恵」
「境井主任?」
思わずその声に振り向くと恵が立っていた。
仁は驚くが恵は気にした素振りはなく、お疲れ様です、といったため彼も返事をして、予定に問題がなければといわれ、二人は会社を後にした。
店も場所もすべて彼女に任せることにしたが、恵は申し訳ないが少し遠い場所になるといって、タクシーに乗り込んで場所を告げた。それは海際の通りで、車で三十分ほどの場所だった。
たどり着いたのは海の前の飲食店で、一階建ての広い海鮮鉄板料理の店のようで、店の名前は“海の家・壱岐”だった。壱岐といえばは対馬のそばの島で、ちょうど本土と対馬の間の島だった。この海沿いのさらに奥には船もあり、そこから対馬にも時間はかかるが行けるため、縁のある店なのかもしれないと思いつつ、タクシー代を割り勘で払って、恵が先に店のドアを開けて入店した。
海沿いといえど、海を挟んだ大きな道路の奥は住宅街で学校や家など立ち並ぶ場所で、会社からはそれなりの距離だがファミリー層に人気の場所であると仁は認識していた。店内は明日が祝日であるためか繁盛しており、広々とした店内から、奥には海がよく見えるテラス席もあった。
「いらっしゃいませ、って仁⁉」
「丶蔵⁉お前っ‼」
団体客のおかげで忙しそうな店内で、やってきた頭にタオルを巻いた店主らしき男は恵よりも先に仁を見て驚いた。恵は「お知り合いですか?」といった。仁もこの店の店主丶蔵も今日が初対面だ。だが二人は知っていた。何故なら数百年前、前世でこの男と仁は壱岐で手を取り蒙古を打ち倒したからだ。
丶蔵は仁の父の仇でもあった。だが仁はすべてを受け入れ彼と共に手を取ることを決めて過ごしたのだ、あの時は恵も共にいたのだが、恵は今の彼しか知らないようだった。仁は「まぁ昔に会ったきりだ」と短く返事をして、丶蔵も同じように返した。
恵は先に電話をしていたため、団体客で騒がしい室内ではなく、閉鎖しているテラス席に案内してもらい、海のみえる風の気持ちいい席に案内してもらい、せっかくだからとビールを注文した。仁も毎度日本酒しか飲まないわけではない、その時の料理や店に合うものを飲むのが一番だと思っている。比較的日本酒が好きなことはもちろん否定はしない。
「境井さん食べたいものとかありますか?」
「いや、今日は狭間さんに任せる」
「わかりました」
ビールが届くとその間に考えていた注文を恵が女性の店員に告げる、女性店員はオーダーを受けた後、恵と仁をみては含み笑いをして恵に「言ってた人?」というため、彼女は頷くと相手はすぐに去っていくと恵は丶蔵の奥さんだといった。
丶蔵とは母を経由して知り合い、彼は元々壱岐の漁師であったが、子供を持った後、ここで店を持たないかと海の家をしていたオーナーに言われて以後、ここで店をしているのだという。普段は漁師をしつつ、夜だけは飲食店をしているという忙しい状況だが丶蔵は働き者で、妻と子供のためならというのが口癖で、相当な愛妻家だという。それが仁には羨ましいと思った。ちょうど最初のゲソとホタテのバター焼きが到着すると、丶蔵が温めていた鉄板に料理を置く。
「久しぶりだな仁」
「丶蔵こそ、結婚してるとはな」
「当たり前だろ、高校時代に出会ってからあいつ一筋だ」
その言い方に仁はすぐに丶蔵は彼の妻が前世からの相手だと理解した、人の縁とは不思議だ、部長の安達もそうだった。なのになぜ自分は今、彼女と夫婦ではないのだろうか。あの頃のこの年には夫婦となっていたはずなのにと考えると気持ちが少しだけ沈む。
料理が次々と並べられ、まずは腹ごなしにと箸をつけ始める、恵から話があるといったため、仁は静かに彼女の言葉を待つ。何を言われても受け入れる覚悟があった。けれど何を言われるのかわからず怯えている面もある。
今日は恵の酒を飲むペースが速く、仁が二杯目を注文する頃、彼女は三杯目を注文していた、セルフの鉄板焼きは客たちが楽しそうに海鮮を焼いて笑って会話を弾ませるもので、鉄板で海鮮が焼かれる音と、波の音がするだけの静かな二人しかいない広いテラス席とは正反対に店内は大学生らしき人たちが団体で騒がしくしている。
「あの日、勝手に帰ってすみません」
恵が口つけていたビールをテーブルに置くと同時にそういった。
あの日...とは、二人で小茂田に飲みに行った日だ、あのあと仁は家に帰らずに小茂田に戻り、一人で強く後悔して自棄酒をした。さらにそのあとも小茂田に行くたびに恵のことで泣きそうになってはゆなとたかに慰められた。
とはいえ、初めて二人で食事をして、結婚前提の話を向けられればフラれるのも当然だと仁も理解はしている。それでもやはり恵が好きで止まなかった。好きなんて言葉じゃ足りない、この世のどんな言葉を使っても無理だ。魂が彼女を求めているのだから。
「いや、俺こそあんなことを言って悪かった、突然あんなことを言われて戸惑わない方がおかしい、すまなかった」
黙り込む恵になにをいわれるのか。そればかり考えて鉄板の上で焼かれるホタテを眺めていると、彼女がトングでつかんで仁の皿に置く。彼女は食事に行くと自然にそうしてくれると思った。身に沁みついているのだろうか、誰に、なぜ、どこで。
そう思っているうちに、恵はまたビールを一口飲んで、ついに空になり、仁はもう一杯頼むか?と聞くと、泡盛を飲みたいといった。酒がいけるクチだと思いつつ注文してはすぐに冷えたグラスとともに冷たい泡盛がやってくる。飲み方は互いにストレートでいいとして、念のため水だけはもらってテーブルの上に置いておいた。
互いのグラスに小さな泡盛のボトルを交互に注いで、何も言わずに飲み干す、冷たい泡盛が喉を通って心地よい、泡盛は沖縄の酒であるためアルコールが強いが、冷やすことによりアルコールの刺激が和らぎ、さらりと飲みやすくなる。
酒を飲んでいるせいか、恵がより一層妖艶で色っぽく見えると、彼女の薄い唇が開く。
「あの時の言葉、本当は悪い気はしませんでした」
「...そうか」
「実際この数か月、境井さんとご一緒して、あなたが誠実で、冗談であんなことをいったわけではないこともわかっています」
仁にとっては喜ばしい言葉だ、それでも恵が答えられないというのはその表情でわかる。その理由について彼は泡盛を一口飲んでは例の噂のせいですか?と問いかけた。
恵は当然知っているかと苦笑いをして、その通りですと返事をする。どんな広まり方をしたかはわからないというが、仁は以前志村に聞いていた話をくだいて告げた。恋人に浮気をされた上に、その相手にデザイン盗用をされて会社では恵が責任を取ることになったということ。そしてそれに対してはっきりと「狭間さんは何も悪くないんでしょう?」と問いかけるように告げる。
その言葉に恵は彼はそれなりに深く知っているのだと思い、だからこそしっかりと真実を話そうと心に決めた。だからこの店を選んだ。会社からも離れているし、志村建設に来てから丶蔵とは連絡を取り、彼にたびたび相談していたのだ。丶蔵は実家にいた際にも漁師として対馬に来ていたため顔を合わせることが多く、船も出してくれた。仁の名前を伏せて、とても誠実で優しい人がいるのに自分なんてと言っては、彼は優しい兄のように慰めてくれ、そう思う相手なら店に連れて来いといってくれたのだ。だから今日、仁を店に連れてきて、面と向かって酒を飲んでいるのである。
「以前の職場でのトラブルは、私が未熟だったことも原因でした、実際デザイン盗用については自分がリスク管理をしていなかった。学生感覚が抜けていなかったのが原因だと自分でも思っています」
恵ははっきりとそういったが仁は何も言わなかった。
畑が違う、デザイナーという職業について彼は深い理解はできていないため、そこを掘り下げて、彼女の味方をしても慰めではないと思っていた。そしてそう理解してくれている仁を感じて彼女はひどく安心した。やはりこの人は間違いないのだと感じた。
浮気の噂も流れているが、恵は自分は決してそれをしていなかった、彼が浮気をしていたがそれについても起こる気もなかった。男女の恋愛での不貞も仕方ないと割り切れた。しかしデザイン盗用から数か月、連日役員会議の席に呼ばれどうするか意味のない会議をされ続け、そのうえで恋人だった男と会社から裏切られたと白状した。
「決してあの会社を非難したいわけではありません、彼のことも、それにそれが会社ってものじゃありませんか」
価値のあるものを選択する。
たまたまその天秤で軽いほうが恵だった。これでもっと明確で確証となる証拠を彼女が持っていればよかったが、そうではなかった。デザイナーの恋人同士の遊びの延長と思ってしていたことが裏目に出て。恋人だからと自宅に招いた結果がこれだ。すべて自分が悪いだろうと言われればそこまでのこと。
デザイナーとしての腕があっても、それを発揮できていなかった恵は会社の地位が低かったし、その反対の彼は重要視される。
「それに彼が本当に私のデザインでいけていたとして、それを出し切った後、どうなるんだって思いました、結局自分の力で戦えないんだから、意味なんてないと」
「強いんだな」
「強がりです、負け犬の遠吠え」
恵の言葉に仁は素直にその通りだと感じたし、その通りに言葉を伝えたが恵は苦笑いをした。仁は彼女のグラスに泡盛を注ぐと、小さなボトルはすぐに空になってしまったものの次の注文は止めた。
「会議という名の尋問のようなことに疲れました」
――君がしたんだろ?
――真実は話してくれ。
――彼女のせいです。
全員真相を理解しているかどうかはわからないが、一部は理解していたはずだ。それにも関わらず恵は責められた。周りはお前が認めれば終わるんだからというような空気と表情をしていた。自分の味方だと思っている相手も多勢に無勢で顔を背け、会議が終わると匿名で社内メールが来ており、何かと思えば恵が自分をスカウトしてくれた元上司であり、異動してしまった上司と不倫しているというデマの文言と妙な切り抜きをされた写真が添付され、会社では孤立した。
「人ってどこまで卑怯なんだと思いました、そしたらもう疲れ切っちゃって」
そこまで頑張ることもないと思ってあきらめて自分一人で済むならそれでいいと思ってやめたんです。と告げた恵は海を見つめた。その瞳は今にも泣きだしそうで、仁は今すぐに抱きしめたかった。
「噂がついて回るような女です、今の会社でもいろいろ言われていることはわかっています。社長も気にするなといってくださっています...だけど、社長との仲まで勝手に言われるのは悔しい」
志村社長は本当に恩人なんです、という恵の小さな怒りの意味を知る仁は申し訳ないが、より一層好きだと思った。自分のために怒っているわけではない。彼女はもう自分に対しては疲れ切っているのだ。それでも恩義のある相手へは違うという、その姿勢があまりにも美しく、彼女は一筋、耐えきれずに涙をこぼしてしまう。
「すみません、少しお酒が入りすぎました。お手洗いにいってきます」
恵は立ち上がり、店内に出ていくとちょうど入れ違いに料理を持ってきた丶蔵が現れて、鉄板の上に塩焼きそばを置いた。今じゃないだろうと言いたかったが、全然食べていないことを文句言われてしまい、仁は思わず慌てて食べ始める。
話したいこともあるからか、その場で調理を始める丶蔵のエプロンがよく似合っていると思いみつめていると、彼は全部恵がしてくれたのだといった。
「古い店舗で再建するときに、恵がまだ前の会社にいたときに個人で受けてくれたんだ。内装もエプロンや看板のデザインも、デザイナーたって、専門外のものもしてくれて、その上デザイン費はいらないなんて抜かすせいで、あいつは一生無償で食わせることに決まってるんだよ」
とはいえあまり店に来ないし、あまり食べないから何も響かなくて困ったやつだという丶蔵に記憶がはっきりあるのかと告げると、結婚後に海に出たときに命を落としかけて思い出したといった。
恵とは前世では強い関わりがなかったが、それでもどんな人物かよく理解していた、いい女だったと丶蔵はいう。夫の因縁も苦しみもあの島で彼女は理解して支え続けていたのだ。
「例の件は聞いてる、疲れ切って店に現れてな。お前のことも相談されたよ」
「なんと?」
「“私にはもったいない人なんです”ってさ」
恵が仁のことを言うたびに泣きそうな顔をしていた、本当は彼の言葉が本当に嬉しいのに、新しい恋が怖い。当たり前だ、あんな裏切られ方をされて平気な顔などできるものかと仁は箸を持つ手に力を込めた。
「俺も人を見る目はある、一目見てクズなら殴ってやると思った」
こんな短期間で告白してくるやつは相当おかしな奴か、下心しかない人間だと丶蔵はいう。恵をみていれば下心のある人間が近付くのも理解できる。だが仁をみて、すぐに丶蔵は仁なら大丈夫だと過去を知っているがゆえに信じた。今の彼がどうであれ、恵を見るまなざしが変わっていないからだ。
「今も恵を想うなら、ちゃんと掴んでやれ」
海鮮焼きそばが完成すると同時にテラス席のドアが開き、恵が戻ってきて丶蔵は焼きそばを食えと二人に言い残していってしまう。
二人はテーブルの上の料理がまだそれなりに残っていることに、話過ぎるのもよくないと気付いて食べ始める。こういうところはよく似ていた。
食事を終えて、店を出ると恵はタクシーを呼ぶかと思うが、仁が海風に当たりたいといって、店のそばの海に寄って、砂浜を静かに歩いた。夏の爽やかな夜風が二人を撫でて、恵の髪が揺れる。遠くで花火をしてるのがみえて、二人の静けさとは対照的だった。仁は隣の恵をみつめた。
「あんな話を聞いたうえでやっぱり俺はあなたが好きだ」
余計な言葉はいらなかった。好きだと思う気持ちを止めることはできないし、仁が変わることもない。恵はそう思いつつもどう答えればいいのかわからないでいるが、目は口ほどに物をいう。恵はすでにその目に言葉を宿している。
「恐れる気持ちもわかる、だが俺はあなたに降りかかる火の粉を払いたい」
「私は何もしてませんよ」
「おかしいと思われるだろうが、一目見た時から好きなんだ」
現実主義者の仁らしくないと思われようが、前世で夫婦になっていたからという理由だけではない。言葉にできない、何か確証めいたものがあるのだ、その人がその人であるというだけの理由。
それを抑えることもできずに、仁はただひたすらに恵が好きだった。
「不思議ですね、境井さんにそういわれると、私どうしようもなく嬉しいんです」
恋なんてもう嫌だと、人なんて信じたくないと思うのに、仁のまっすぐな目をみてしまうと、この人だけは違うと思ってしまうのだと恵は感じると同時に、仁は鞄を地面に置いて、恵を強く抱きしめた。
ずっとそうしたかった。
細い華奢な身体はあの頃と変わらない。
彼女のシャンプーの香りが潮風と共に混じる、何度も抱きしめた、あの時を思い出して。恵の腕が仁の背中に回される。
好きも愛しているもないが、それ以上の言葉もいらない。
ただそこで互いの心音を重ねるだけで二人は理解しており、仁は静かに恵をみつめて唇を寄せると彼女は目を閉じた。接吻だと心の中でつぶやいた。瞼を閉じた彼女の表情も何も変わらず、彼は親指で優しく濡れた彼女の目元を拭った。
今世こそ、幸せにすると誓って。