第一話


夢かと思ったがそうではなかった。
仁は翌日、普段よりも二時間早く起きてしまったが生憎と祝日で休みのため、特段することもなく、通いなれた弓道をしている石川道場に朝から行き、朝食を一緒にさせてもらい、門下生の隣で趣味として弓を引いていたが普段よりもさらに調子がよく、周りに言われたがなにも返せなかった。信号はすべて青色で足は止まらず、本屋に寄ると欲しかった小説が最後の一冊となっていたが買うことができ、帰りのスーパーで特売の卵をゲットして、会計の際に福引の券をもらい、ついでにと福引所で引いてみると特賞の米二十キロをもらう羽目になり、大荷物で帰っていると偶然たかと顔を合わせたため、夕飯は小茂田でもらうことを約束して、荷物を置いて夕方店が開く前に居酒屋小茂田に行き、ゆなに調子がよさそうだと言われたため「恵と付き合うことになった」と平然とした態度でいったところ、ゆなが隣に腰かけて、そんな大事な話を簡単にいうなと怒られた。
気付けば夜の九時を回っており、さすがに明日が仕事のため帰ることを告げると、家のドアには置き配で頼んでいた実家の百合からの荷物が届いており、中には大好物の百合が漬けた漬物が多く入っていた。米はいいが、大根の甘酢漬けやその他いくつかの漬物は一人で処理しきれないと思い悩んだ。

「私も好きです」

そういったのは偶然昼が遅れてしまった仁の前で社内ラウンジの一卓で座っていた恵だった。仁は悩んだ末に漬物をもらいうけてもらえないかという提案に彼女は嬉しそうに言った。
他人の手料理を食べられないという人は一定数いるが、彼女は気にしないどころか漬物という選択を喜んでくれた。仁は社内で恵と過ごすことはあまりないが、仕事の兼ね合いで営業一課では彼女担当なこともあり、共に過ごしてもさほど気にされるような関係でもない。そもそも彼女は人が多い場所があまり好きではないため時間をずらしていることが多かったが今回はそれが功を生んだと思う仁だったが、恵はその程度なら連絡をくれてもいいのに、といったあと、互いに恋人という関係になったが連絡先を交換していなかったと思い出す。

「そこの右上のアイコンをクリックして、友達検索のところで...」
「すまん、個人の連絡先はあまり交換することがなくて」
「構いませんよ、境井さんって機械不慣れですか?」
「デジタル関係はあまり」

現代社会では切っても切り離せないものだが、それでも彼はあまり得意な部類ではなかった。恵に操作を教えてもらいつつ、誰もがよく使っている無料通話とチャットが売りのアプリを操作して、QRコードを表記すると、恵は手慣れたように操作して読み込むと、仁のアカウントらしきものが表記される。見覚えのある日本酒のボトル白嶽のアイコンと境井仁というアカウント名をみて恵はくすくすと笑って、なぜこんなアイコンをと聞かれてしまい、彼はわからずにゆなに任せた際にこれにされたのだという。
そして仁のチャットの一覧に突然通知が来たかと思えば、見覚えのないアイコンに狭間恵という仁同様にシンプルでわかりやすいアカウントからで、チャットを開くと猫にスタンプが“よろしくお願いします”と挨拶しているものが届いた。

「アイコンはツシマヤマネコか?」
「はい、かわいいですよね、実家が対馬なんですけど、壱岐の方の子は人慣れしているのか、触らせてくれたりするんですよ」

特に母はツシマヤマネコの保護活動に熱心で、実家にもいつの間にか居ついた子がいて、と話をする恵に仁はツシマヤマネコは対馬にのみ生息しているが、今では絶滅危惧種とされており、夜などにみることはあるが日中にアイコンのような距離感で撮影できるほどにはなかなかできないことを知っているため驚いてしまう。昔であれば普通の猫のようにいくつもいたが時代が進化したもので、そういえば志村もそうした保護活動への取り組みに協力していたことを思い出す。
自分たちを繋ぐもの、一つ一つがありがたく、嬉しいと素直に感じて、そういえば漬物はいつ渡すかと問いかけると、帰りでよければ時間を合わせるので取りに行くと言われ仁は心臓が少しだけ止まった。それじゃあまた帰りにとお弁当を食べきった彼女が先にいってしまったのを見届けて、仁は今日か...と考えた。

「にん...主任...境井主任!!火傷しますって!!」
「あっ」

また考えすぎてコーヒーを手にかけていたと仁は給湯室で水で手を冷ました。自分でもわかるが年甲斐もなく浮かれている。周りにはあまりバレていないだろうし、聞かれれば答えるががそれでも社会人としてあからさまな態度は良くないなと思っていたころスマホが震えた。

『十八時半頃、駅でいいでしょうか』

仁は慌てて返事をした。しっかりと誤字はないか確認して「構わない」と素っ気ないと思われそうな返事をするが、彼女はまた猫のスタンプ、今度は親指を立ててグーサインをしているものだった。
愛い...と仁は自分の中でつぶやいては、仕事に戻らねばと頭を切り替えて、午後の仕事へと戻った。

まだ明るい十八時半の駅は会社員も学生も関係なく混雑していた。
仁の自宅は恵の自宅の前の駅であるためちょうどいい距離感だった、歩くと二十分から三十分の距離だろうか、駅だと二駅ほどの距離。
二人は満員電車に乗り込んだ、二人で電車に乗るのはこれが初めてで、どこか新鮮にも思えた。人ごみのため仕方なく二人の距離は近く、パソコンなどもありリュックで通勤している恵は前で鞄を抱くが、それでも二人の距離は近く、仁は平然とした恵の見下ろしながら自分だけがこんなにも意識しているのだろうかと思うが、電車が駅で停車し、人混みが大きく動き、自然と守るように抱き寄せると静かに安心したような顔をする彼女を見れば、そんなものは杞憂だとわかる。
手をつなぐことはなく、仁の自宅まで向かい、マンションの一室に辿り着くと仁はすぐに取りに行くと告げて、部屋に入る、朝と変わらない、一切の乱れのない部屋だと自分でも感じる。炊飯器はすでに米が炊き上がっているが、朝の分も合わせて二合炊き上がっている、冷蔵庫の中には百合から送られてきたおかずと、仁が朝仕込んでいた鶏肉の香味がある。ちょうど二枚。
冷蔵庫を閉じて、タッパーに取り分けた漬物などを袋に入れると、外に待たせていた恵のもとに戻り、仁はすぐに袋を手渡した。

「こっちは漬物で、こっちはおかず類だ」
「たくさんありますね、自炊が多いので助かります」
「...それと、その、よかったら夕飯を食っていかないか?ちょうど米もあるし、夕飯用に仕込んでいたチキンも二枚あるんだ」
「明日のお弁当などでは?」
「そのつもりだったが、百合からもらったものを処理しなきゃならんのを忘れていて」

言い訳がましいが手伝ってくれると嬉しいというと、恵は少し考えた後、食べたら帰りますといって仁の家の中に素直に招かれてくれた。
昔は恵の手料理ばかりで、自分はもっぱら魚を焼く程度のことしかしていなかったと思いつつ、客人として招かれているが落ち着かない様子で椅子に座っている恵をちらりとみた。デザイナーとしてなのか、仁のセンスをみるのか、部屋の中を見渡しており、好きにみてもいいと言っているが、立ち上がり部屋の中を動き回るでもなく、彼女は座ってあたりを見渡すだけだった。質素ほどではないが、シンプルな部屋だと彼も自分でわかっている。いいようにいうと、丁寧な暮らしだろうか。
実際、家具や家電はそれなりにいいものを置いているし、もらった観葉植物も大切に育てている。1LDKのため、隣には私室があるが、そちらも大した部屋ではなく、ベッドや仕事用のデスクに本棚にクローゼットなどといったものだけで、覗かれても困るものは何もない。
そう思いつつ、味噌汁の味をみて問題ないと感じる仁は皿にそれぞれ盛っていき、ダイニングテーブルに並べると、恵は客人だが二人のほうが早いからと言って箸やコップなどを並べるのを手伝った。
そうしているとまるで夫婦のようだと感じる仁の幸せ感情は溢れていたかもしれない。
メインの皿を盛り付けて、小皿関係もいれていく仁にご飯をよそうといって、窯の中をかき混ぜて、少し蒸らして茶碗にいれる恵はまさに妻であった彼女と同じで、仁は抱きしめたいという欲望を自分の中に押さえ込んで、共にテーブルの上に並べ終えると向かい合って座る。

「お弁当をみていてもおもいましたけど、境井さんって料理上手ですよね」
「一人暮らしで趣味もそこまでで、一度凝り始めると思ったより楽しくなってしまって」
「素敵ですね、今どきの男性らしくて」

素敵ですね...素敵...仁は胸の内でその言葉を繰り返した、恵に褒められた、好感を持たれたのだろうと感じると喜びを感じずいられない。いつか若い女性社員に「男性なのに作るんですね」だとか、別の男性社員に「だから独身なのでは?」といわれたときは少しだけむかついた。料理くらい自分でしろといいたかった。今どきの若者は実家暮らしはいいとして、その生活の面で助けてもらってる輩が多すぎると内心憤怒していたが、恵は一人暮らしで自炊の大変さはわかるが、自分も好きが高じて...という気持ちが一時期あったのでと照れくさそうにするため、普段はどんなものを作っているのか気になって問いかけると、彼女は少し恥ずかしそうにしつつ、一言断りをいれてスマホを取り出すと、料理の写真を見せた。

「店のものか?」
「褒め上手ですね、動画とかをみて自分で作っただけですよ」

和食が好きですが、社会人で自立してからはイタリアンや中華にフランス料理などにもはまっていた時期があってと話す彼女がみせてくれた料理は、テレビや雑誌と変わらない見栄えで、写真映りからしても、今どき流行りのSNSにあげるとバズりそうだと仁は素直にいうが、彼女はその手のものは仕事外ではいないようにしているという。

「何故だ、恵ならフォロワーとかいうのもすごくつきそうだ」

正直なところ仁はSNSとやらが全く分からない、仕事上それなりの仕様は理解しているが彼には不要の産物で、ほかの業種の営業だとそれを重視する場合もあり、会社としてもSNSの運用をしたり、クライアント情報のために確認したりとするが、そこは仁ではない別の部下たちがいつもみてくれるものとなっている。その代わり仁は彼らが苦手な現場にでるようにしてやり、お互い助け合える部分は助け合っているというわけだ。
しかし恵の場合はデザイナーとしてSNSは切っても切り離せないもので、実際そこから仕事が飛び込む場合もある、もっぱら恵は自ら発信するのは苦手なので、自分が関わりクレジットに記載された仕事を引用して参加していました。というのが多く、写真がメインのSNSについても自分の仕事内容を記載しているだけで、ほかのデザイナーなどからいわれて仕方なく、風景写真や日常写真を載せることもあるが、それの頻度は極端に低い。それでも才能とやらは不思議なもので、人を引き寄せるらしく、前会社の噂の件もあり、目立ったことは嫌だと思う恵は億劫になるのだった。
だが、仁に褒められることは素直に嬉しいと感じる彼女はスマホを閉じて、箸を進める。

「境井さんが褒めてくれるなら、それでいいです。食べてほしい人にそういってもらえる方がずっと嬉しいですから」
「そうか、俺も確かに同じだ」
「そういえば家からジャムが届いてたんです、今度お持ちしてもいいですか?」
「あぁ朝食はパンが多いから助かる」

お互いに一人で暮らすと実家の荷物に困るなと笑いあって、食事を進めて、気付けば恵が食後の洗い物まで引き受けてくれた。本来は泊っていくかと聞きたいが明日も仕事であり、シャワーも湯冷めさせるのが悪いからと仁は誘えなかった。
結局二十一時前には恵はゆっくりしすぎたといって、帰ることとなった、マンションの一階まで送るという申し出も断った彼女に帰らないでほしいと仁は感じたが引き留めることはできない、玄関でパンプスを履く彼女を見た仁は黒に裏側がターコイズブルーになっているのに気づき、いい色だと口にすると恵は仁をみて、何かを言い悩んでいた。

「何か変なことをいってしまったか?」
「いえ...なんていうか、境井さんって本当に私のことよく見ているなと思って」

昼もピアスが違うことをいわれたし、という彼女に確かに昼食を共にしたときに彼女が髪を耳にかけたとき見えたピアスが似合っているが見慣れないものだと思って口にしたが、そう考えると自分が彼女を無意識によく褒めていたことを思い出し、交際前からだといわれてしまうと、ハラスメントだと自分の中で冷や汗が流れる者の、恵は少しだけ頬を赤くさせて髪に耳をかける。照れた時や困った時にする仕草だったが、今も変わらないのだなと仁は思う頃、彼女が仁をみる。

「そんなに私のこと好きですか」
「当たり前だろう」
「そっ、そうですか」

かぶせる様に言われると恵はますます困ったような顔をしてしまうが、仁はなにをいまさらと言いたげにしつつ、玄関で困ったような彼女に一つだけ提案をしてしまう。

「帰る前にその...キス、とかは、ダメか?」

キスという単語は不慣れだ。その上、がっつくようで悪い気もした。
だが、しっかりと意思確認をして、年甲斐もなく照れたようにいう仁に恵は愛らしい人だと思いつつ、構いませんというと、二人は本当に触れるだけのキスをした。
恵はあまりに短いキスに驚くも真っ赤になった仁は「気をつけて帰るんだぞ」というだけのため、恵はそのままドアを開けて挨拶をしていってしまう。
ドアが閉まったあと、仁は壁に頭を押し付けて悩んだ。

「俺は...俺はなんてこと...クソ...」

もっと抱きしめて長く唇を重ねたかったと思う自分の破廉恥な思考に酷く後悔をしたが、その頃、外の恵は顔を手で覆い隠して、その場に蹲ってしまいそうになっていた。

「か...かわいい人...」

あんなに真面目でしっかりしているのに、本当に女の人ははじめてなのだろうかと、あまりにも不器用な姿に胸をときめかせたのは、恵にとって初めての出来事であり、境井仁という男の恐ろしさを感じるのだった。