第三話


日曜日の朝、仁はいつも通りの起床時間に目覚めるなり珍しく朝からシャワーを浴びた。しっかりと一本も残らないように髭を剃っていたが、いまだに髭がないと幼い顔立ちの自分が嫌になる。

『仁様はかわいらしい顔をされておられますね』

かつて妻だった頃の恵に言われた言葉で、それ以降は髭を極力剃らないようにしたものだが、それはそれで気に入ったように触れてきた恵との甘い時間を思い出しては少しだけ夢遊しがちになるものの、今日はしっかりしなければとシャワーを上がるとまだ時間が随分と余っているため朝食を作る。
先日恵からもらった、彼女の母親が作ったというスモモのジャムをパンに塗った。対馬は温かいこともあり果物も新鮮で多く採れる。スモモは子供の頃によく食べていたと思い出しつつ、ジャムになった味を堪能する仁はニュースの天気予報をしっかりと眺める。今日は最高気温は三十六度、最高気温が三十八度を余裕で超える日々の中では涼しいくらいだと思いつつ、雨が降ることはないという話に安心して仁は新聞を読んで、朝食を食べ終えると、用意をしていく。

とはいえ仁は身だしなみに細かくはない。若者とは違い余計なアクセサリーなどは全く好まない上に、服や靴も機能性が重視である。隣に並んで恥ずかしいと思われたくない程度で、彼はクローゼットの中から白いシャツと暗めのパンツを手に取って着替える、可もなく不可もなくであり、洗面所に行って髪型を整える。おろすと少し長いがそれをいつも通り綺麗に後ろに流してワックスで固める。丁寧に櫛を使って整えては歯を丁寧に磨いて、カバンはどうするかと考えた。カジュアルな服装であるためあってもなくてもどちらでもいい。昔は男がカバンをと思うものだったが、近年はそれもおしゃれの一種であり、実際にカバンがある方が買い物の際は助かり、仁はクローゼットの中の黒いレザーにシンプルで少し小ぶりな有名メーカーのショルダーバッグを手に取り、財布や鍵にハンカチティッシュなどを詰め込む。天気は問題ないため、折りたたみ傘は不要で、他はと考えたとき、エコバッグが浮かぶ。ないだろうと思いたいが今どきはレジ袋も有料だと考えてコンパクトだが広げると大きな愛用しているエコバッグを入れる。
境井仁はいつも実用性を重視しているのだ。
そして彼は棚の上にあった、ボディミストをみつめた、決して普段はつけることはない。しかし連日の暑さからくる汗臭さを感じた末に、使うことなどここ数年なかったボディミストの蓋を開けて嗅ぐとやはり爽やかな男の香りがする。惚れた女に不快感は与えたくはない。それは大前提だと仁は考えて服の内側にワンプッシュして腕時計を最後につけると、そろそろ出る時間だと思い家を出た。

恵から提案されたデート先は市の美術館だった、仁も何度か仕事関係でいったことはあるが、休日に行くことはなく、最寄りとなる公園駅で降りて、公園の改札前で待っていた。待っている間に電車内などで暇になるだろうと思って持ってきていた文庫小説を読んでいると足音が自分に近づいているのに気付いて顔を上げると、恵がいた。
爽やかな大きな襟のシンプルなワンピースは膝ほどの長さで、その襟や裾などには青色のラインが一本入ってあり、襟首の黄色い眩しいビジューの小さなコサージュがより洗練されたデザインで、足元は涼やか透け感のあるシースルーの靴下で黄色の花の刺繍が特徴的で、ストラップ付の白いパンプスは高さ五センチほどで細いヒールだが、そのヒール部分はワンピースの青色と似た系統の色。カバンは茶色の革のショルダーバッグで、使い慣らされているのが丁寧に管理されているのがよくわかる。
髪はおろしており、普段と変わらないが、黄色が特徴的なカチューシャをしており、メイクも普段よりも華やかであった。
仁は思わずじっくりと静かに眺めてしまう。

「境井さん...?」

黙って見つめる彼に、久しぶりに本格的なデートだからと気合を入れたのが下手な方向にいっただろうかと彼女は不安に思うものの仁は重たい声で真剣に告げる。

「いや、あまりにも素晴らしいコーディネートだなと」
「そうですか?境井さんも素敵です」
「俺は普段と変わらないが、恵は普段から色遣いなどにセンスというのを感じていたが、本格的にすると、そうか...やはりな」

昔から彼女はそういうセンスも高かったからなと仁は一人で納得するが、彼女は褒められ続けることに恥ずかしさを感じて、もう行きましょうといった。互いに待ち合わせの十分前ということは頭から抜けて公園を歩き始める。
チケットは既に恵が持っており、社割が効く上に、始まったばかりだが、東京大阪名古屋と主要都市を回った後に急遽追加であったこともあり、そこまで人がいないと噂を聞いていたため、これはチャンスだと思ったらしい。
展示については有名な建設アーティストの構造と装飾、建築と彫刻などの作品展だった、図形なども飾られているため仁も建造物などであればそれなりに興味を持ってくれるかもしれないという気持ちと、恵自身の勉強のためのものだった。
駅から公園の大きな池に沿って徒歩十三分ほど、八月の日差しはやはり午前中でも厳しいか、と思う仁に、恵はすぐに日傘を差して中に入るように告げ、二人は小さな日傘の中に入った。

「やはり日影があるのとないのじゃ違うんだな」
「そうですね、最近は暑さが異常ですから、男性も日傘が多いでしょう」
「俺も検討したがいまだに悩んでる」
「内側が黒のタイプの方がいいらしいですよ。あと遮光率が高いもの、私が使ってるやつは晴雨兼用ですし、折りたたみタイプもありますし」
「恵と同じものにするかな、シンプルで使いやすそうだ」
「またあとでリンク送っておきます」

ヒールがあっても彼女の方が低いため、仁は日傘をもってやり歩幅を合わせる。懐かしいと思えた、二人で雨の中、何度も歩いた。濡れる彼女が風邪を引くのが心配で自分の羽織を笠代わりにしろといって渡すと照れくさそうに笑って感謝する。
そんな当たり前の愛情が幸せだったと思う頃、気付けば美術館に辿り着いていた、二階建ての低い建物だが、建物が多く広い。県内でも有名な美術館であり、アジアを中心にした所蔵作品が多く、メインの展示と別にこの美術館の所蔵作品も飾られており、その中にはダリやピカソにアンディー・ウォーホル、日本人では草間彌生などの作品が飾られている。
美術館の中はエアコンがすっかり効いて涼しく、息が吹き返すようで、二人は一階の受付を済ませて、二階の展示室に向かい、特別展示室となるメインの建築アート展に足を運ぶと、お盆の日曜日だというのに人は少なかった。

「音声ガイダンスはいいのか?」
「はい、説明とかそういうのよりも自分で見たものを感じたいので」
『下手な言葉や説明より、自分で見たものを詩や音にする方がずっと良いでしょう』

仁は恵の言葉に短い返事をしつつも、胸の内で昔の彼女を思い浮かべて静かに広い館内で足を進める。互いの視点は違う。恵はデザイナーとして、何故このようなデザインなのか、それに何の意味があるのかを考えるが、彼女が視線を向けた先の仁は複雑な顔をしている。
曲線だらけの模型、歪んだ柱、自然物を模した装飾。直線を嫌うかのような構造体が、空間を占領している。アーティステックという言葉だけでは収まらない、その姿に仁は腕を組んで悩まし気にしつつ、恵は静かにノートにペンを走らせながら二人は数時間かけて眺める。
難しいことは何も言わない、他の客も静かにそうしている。仁は恵の横顔を盗み見た。彼女は真剣に仕事の一環のようにみているが、そのまなざしは真剣であり、その情熱はずっと変わらない眼差しで仁が惚れたものである。展示物よりもずっと飽きずに眺められると思うのに、彼女は熱中して仁を視線には入れず、気付けば一人で進むのを彼は追いかけた。いつも熱中すると周りが見えなくなるのも変わらない、刺繍をしていた時もそうだったと思い出して口元が緩んで、何時間でもいいと思い付き合った。

「すみません」
「いや、満足したようでよかった」

恵は大変申し訳なさそうな顔をして謝った、結局展示物をすべて見終えて出てくるまでに三時間以上かかったのだ、好きにする恵に仁も気にせずに彼女を眺めていたわけだが、終わったころには昼を過ぎてお茶の時間だったことには驚いてしまい、二人は一階のミュージアムカフェに来ていた。
公園がよく見える美術館入り口のガラス張りのカフェからは、公園の池がよく見えて、暑いせいもあって人が少ない公園の綺麗な景色がよく見える。この美術館の一階のカフェと二階のレストランは有名なホテルが運営していることもあり、味も人気であった。二人は一番人気のホットドッグのセットを頼んだが、そのトレーの上にはお互いにあまり見ないデザインのものが見受けられた。

「あら、境井さんシュークリーム頼んだんですね」
「あぁ、ここの売りらしくてな、そっちは、なんだ」

仁のトレーにはホットドッグとドリンクとは別に公園コラボのメニューとして出している、抹茶のクリームがふんだんに使われたシュークリームがあった。甘いものはほどほどに好きだったが、恵の視線がそこにあるために注文したが、当の本人のトレーには同じホットドッグのセットとは別にカラフルで鋭利なチョコレートが乗ったソフトクリームがあった。

「あの彫刻をモチーフにした、ソフトクリームだそうです」

そういわれて公園に視線をやると、美術館の前に置かれている仁には理解できない彫刻が同じ色合いだと気付き納得するが、ソフトクリームはホットドッグを食べる前に食べないと溶けるのでは?と聞くと彼女はあっ、という顔をして慌てて食べ始め、仁はこうして抜けたところもあったと感じて思わず口元を緩めて二人は少し遅い昼食兼お茶をした。
先ほどの展示で難しい顔をしていた仁は、あんな建造物建てる側は困るだとか、予算はあれだと、という話をして、恵は現実的な仁の話が面白く芸術と現実は本当にあわないものなのだなと感じつつ、自分にはない観点が面白かった。それでも互いに合う意見もあれば合わない意見もあり、そうした意見交換は普段の仕事の話をしている時のようなのに悪い心地ではないのは、それほど互いに真剣に楽しんだからだろう。
シュークリームを分け合ってはクリームで口元を汚す仁に優しく指摘して自分で拭かせたり、反対に恵の一口は小さいといわれたりと、互いにゆっくりするとミュージアムショップに寄ろうと話をしてカフェを出て、広いミュージアムショップに行く。所蔵品をモチーフにしたオリジナルグッズやレプリカももちろん、展覧会の図録などもあり、恵は重たそうな図録を抱えており、レジに向かったのを仁は見届けていた頃、レジ袋の話をされ、彼女がエコバッグはあると断るものの会計を終えて戻ってくるなり、カバンを漁り顔色を変えて忘れたと告げる。

「買ってきます...」
「それなら俺のがあるから気にせず使ってくれ」
「でも境井さんが買い物するときに困りますよね」
「その時はその時でいい、わざわざあの列に並ぶのも面倒だろう?」

そういわれて恵がレジを見るとちょうどレジが混雑しており、先ほどと打って変わって並んでおり、たしかにと思い仁の申し出を素直に受けいれた。
昼頃に待ち合わせて気付けば夕方、少し日が暮れて涼しくなってきたおかげか公園は人が増えており、恵と仁も話しながら広い公園の池をせっかくだから見て回ろうといって散歩した。仁が待ち合わせの時に読んでいた小説の話から、恵も最近読んだ小説、お盆休みだが仕事がやはり忙しくなりそうな恵と、水曜日から金曜日で対馬に帰るという仁。お土産は何がいいかと聞くと恵は白嶽がいいという。

「あと、もしよかったら、百合さんのお漬物をまたいただいても?」

百合というのは、仁の親代わりに育てくれた乳母だった。
年は志村と変わらぬほどの老婆であり、仁のことを息子のように孫のようにかわいがっており、以前漬物を送ってくれたが、その際に百合が母親ではなく自分の親代わりの一人だと告げてから、恵は丁寧に“百合さん”と呼んでいた。
それだけでも仁には嬉しいことだが、彼女が百合の味を気に入ってくれていることはもっと嬉しいことで、仁はそれをいえば百合も必ずよろこんでくれるだろうと断言し、今回の帰省は大荷物になりそうだというと、金曜日に迎えにいきますと恵はいってくれたことに仁は嬉しそうにした。

すっかり日が暮れて夕飯はどうするかと思うが二人して行先は決まっている。
当然、二人に縁のある居酒屋“小茂田”である。
お盆二日目の日曜日、明日も祝日であるため店内は混雑しているが、二人を見るとすぐに確保していたカウンターの隅を開けてくれる。

「なんだい二人そろってめかしこんで、デート帰りかい」
「そんなところだ」

ゆなは冷やかすように言いつつもいつも通りの日本酒を二人の間に置くと、カウンター奥のたかがどこに行ったんですか、と聞くため、恵が美術館に行きましたといって話をする。
昔から恵とたかも相性はよかった。二人とも穏やかな性格で、ゆなとは女性同士で仲のいい部分はあるが、たかに対しては弟のようなかわいさがあるのか、昔から良く接しており。そんな二人の話を見ているとゆなも仁も胸が心地よくなる。
とはいえ、忙しさには勝てずにゆなも忙しなく店内を動き回り、時にキッチンに入り手伝って、表に出ては料理を出してという忙しさに、仁も恵もほどほどに楽しんだ後はすぐに店を後にした。気にしなくてもいいといわれるが売り上げを大切にしろと仁はいいつつ会計をすると、先に出た恵を確認してゆなは下品な笑みを浮かべた。

「この後は家かい?」
「帰るはずだ」
「明日休みだろ?お盆なんだろ?しけこまないのかい」

そういって握りこぶしで親指を人差し指と中指の間に入れてジェスチャーをする彼女に、本当に恵と同じ女なのかと仁は疑った。しかしゆなからすれば男女、特に想い合ったものが求めるのは普通で、仁にその欲がないわけではないことを知っていた。

「婚前交渉はしない」
「もう二十一世紀、それどころか令和だよ」

鼻で笑われたが仁は外に出ると夜風にあたる恵がいた。
心地よさそうに酒で頬を赤くさせている彼女に帰るかという、今日はいい日だった、ちゃんと家に帰らせて、また食事でも取りたければいつでもできるじゃないかと仁は言い聞かせるが、彼女は足を止めていた。妙に彼女のパンプスの先が目についた。

「今日境井さんのお宅に泊ってもいいですか?」
「え」
「明日お休みで予定ないんですよね」
「あぁそうだが、その」
「だめですか」

そんなわけないだろうと思いつつ、仁はコンビニにいた、恵が泊まりの下着やメイク落としを買うためだった、自宅は近いが一度仁の家を通り過ぎなければならない。そうするとそのまま帰ってしまうのが落ちになるため、彼女は仁の家の最寄り駅のコンビニで必要なものを買い物かごに入れる。
仁はその後ろに立っているが、生活用品の並ぶ場所にある、あからさまな恋人たちの製品に視線がいった。長方形にシンプルなデザインのそれはなにもわからなければ一見気付かないが、0.02mmと記載されたそれに言い訳は無用だった。恵は歯ブラシなどを探して、腰を下ろして棚を見ていたが、後ろの仁の足に気付いて振り向くと彼の視線をたどった。

「買います?」
「いい!!いらん!!」

必死の形相でそういった仁に恵は酒が入っていることもあり面白いと思いつつ、家でまだ少し飲もうと誘って、二人はアルコールコーナーを物色する。日本酒を飲んでいたがたまにはチューハイもいいなと二人とも同じものを手にして、かごの中に放り込む。つまみも軽くいれてレジにいく恵に仁が財布を開こうとするが、夕飯をごちそうになっているからと断られてしまうと強く出られず、外で待つことを告げて仁が待っていると数分後、レジ袋をいっぱいにさせた恵が戻ってくる。
今日はそれなりに酔っているのか、恵は仁に甘えるように腕に寄り添い、彼の腕に自分の腕を絡めて歩いた。過去の彼女と手をつなぐことはあったが、腕を組んで歩くのは今が初めてだった。そもそも今の彼女も酔っていなければ腕を絡めて歩くことはないだろう。
荷物を受け取り、仁は静かに自宅に帰るとすぐに風呂の用意をしてやりつつ、コンビニで買った酒などを冷蔵庫の中に直していくと、コンビニでみていた長方形の例のものがそこにいた。

――試されている。

これはそうだろ、と仁は必死に自分と戦い、残った下着やメイク落としの入ったレジ袋を何も知らないふりをして返すと、恵はソファでゆったりして素直に受け取った。
仁は来客布団を出すのも久しぶりで、しばらく干していなかったことを申し訳なく感じつつ、リビングに敷いてやると、ちょうど風呂ができた合図がして恵に先に入るように言った。

「一緒に入らないんですか?」
「狭いからな」
「私は気にしませんよ」
「...ゆっくり入ってほしいんだ」

頼むからやめてくれと仁は内心つぶやいて、恵を送り出して、いつでも寝られるように用意をしてやった。昔の彼女はあんなに大胆じゃなかった。嬉しい反面、彼女が違うのだと感じた。時代もあるだろうが、昔から求めてくれることはあった。それでも今ほどの大胆さではない、淑やかだった。
今どきは女性がそうすることもおかしなものではないが、昔はそれが穢れた思考だと女性の中でされていたのも事実、仁も女を知らないわけではない。今の恵と付き合う前の女性とそうしたこともあり、女性の身体は好きだ。特にそれが惚れた女ならなおのこと。
考えている間に髪を乾かして上がってきた恵が仁のスウェットを着ていた、仁も風呂に入るから好きにしていいと告げて、すぐに風呂に入り、いつもよりお湯の温度をあげて頭を洗った。今はだめだと言い聞かせて彼は普段よりも丁寧に体を洗ってすぐに風呂を出た。ほんの少し熱を持った素直な自分に呆れながら。

「「乾杯」」

珍しく少しだらしなくリビングのソファで晩酌をした。テーブルの上にはアルミ缶のチューハイと買っていた砂肝とチーズが少しだけ並んでいる。恵は髪を下ろした仁をみつめると、幼い印象を受けるというため、仁もそれをわかっているから普段はあげているんだという。

「私はどっちも好きですよ」

そういって仁の前髪に手をやった恵の熱は理解している。
だが酔っていることも仁は知っていた。
熱のある恵の瞳が次第に仁を求めて、彼の額から落ちていき、服の上から仁を撫でる、唇を重ねることは拒まないが仁は恵がシャツに手をいれようとするのを止めた。

「どうしてですか」
「酔った女を抱く気はない」
「酔わなきゃ私から誘えません、境井さんは私を抱かないでしょ?」
「結婚するまではな」
「そんな古い考えやめてください」

私は抱かれたいんです。
静かにそういった彼女に仁はどう答えればいいのかわからなかった。嬉しいと思うのに、過去の彼女と違うことに少しだけ困惑していた。仁の戸惑いを無視して彼女は妊娠が心配なら避妊具がある、自分は生理不順だしそんなにリスクも多分ない、と説明することに仁は自分に寄る彼女の肩を優しく押してテレビを消した。

「酔いすぎだ」
「境井さん」
「寝るんだ、俺は少し夜風に当たってくる」

少し考えさせてくれと仁は言い残して玄関に向かった。

「仁さん」

仁はその声を聞いても振り返らず外に出て考えた。
夜風は彼を冷ましてくれる。
部屋の中にいる恵は本当に彼女だ、仁もそれはわかっている、前世で自分の妻だった彼女。なのに自分を強く求める姿はほかの女と変わらない。時代なのか、今の彼女なのかわからない。嫌なわけじゃない、嬉しいと心から思っている。
自分が許すなら彼女を求めていたいと思っているのに、それは過去の思い出を汚すようで許せない。恵とは結婚をして、夫婦という関係になってからでないと無理だと思った。だからといってその欲望だけで彼は結婚を進める気もない。
理性と本能。それ以外のものが仁を縛り付ける。それは誰にも理解されないものだと理解している。

仁が部屋に戻るとテーブルは綺麗に片付けられて、ごみも仕分けがしっかりされていた。玄関の電気もついていたが恵がつけてくれていたのだろうとわかっていた。仁はリビングに広げた来客布団の上で眠っている恵に寄り添い、寝顔を見つめた、あの頃よりも肉付きがよくて、瘦せこけたりしていない。健康的でその顔を見るだけで安心してしまう。

「愛している、お前だけだ恵」

お前以外を愛することはない。
だからこそ大切にさせてくれ、という仁の声はどこにも届かない。
仁は隣の自室に戻ると自分のベッドの横のデスクに避妊具の箱が置かれていることに気付いた。それは恵を拒絶した証で、仁はゴミ箱に未開封のまま入れた。今の自分に不要だと言い聞かせて。