第四話
性急だったかもしれないと恵自身思わなくはなかった。
それでもいつか来ることなら、早く互いを確認してもいいだろうと思った。
境井仁という男に抱かれることは決していやではなかったし、彼の反応を見てもそういうことが嫌というわけではないのだと思った。
それでも彼に拒絶されたのは事実で、理由を告げられたとしても納得できなかった。二十一世紀の社会で“婚前交渉”という言葉を聞くなど思わなかったし、それが真面目に言われるとも思わなかった。過去の恋愛経験や一般的な男性をみていても、そうした欲があり、女を求めることはどんな形であれ自然だと思う。
自分から誘ったのは彼に告げた通り。
そうしなければ手を出しそうになかったからだ。
恋人となった男女がデート終わり、相手の家に泊まりたいと思うのは当然であり。お膳立てをしてみたが無になった。どうしてそうしたのかといわれれば、恵はずっと小さな違和感を持っていたから。出会った頃から自分に良くしてくれる彼に仕事として、異性として、と思っていたのに次第に恋心を抱いて浮かれた後、初めてのデートをしたときに、その違和感を大きく感じた。まるで自分の奥に誰かをみているような眼差し。
ちゃんと自分を大切にしてくれているとわかるのに、その違和感を知りたくなり、抱かれれば少しはわかる気がしたのに、彼は拒絶された。拒絶が悲しいわけではない。その拒絶の先に何かを隠したのがみえた気がした。
翌朝、仁と恵は普段通りに過ごし、近所を散歩して近くのパン屋でパンを買って公園で食べて、昼過ぎに本屋などに寄って、互いのおすすめを話した。帰りも仁のいきつけのスーパーにいって互いに必要なものを買ったりと過ごした。
ありきたりで普通の恋人同士の普通の時間だった。
仁が対馬の実家に帰り。恵が頼んだように日本酒や百合が漬けてくれた漬物などを持って帰ってくれれば、恵はそれを取りに行き、金曜日の夜に仁の家で夕飯をごちそうになった。朝を過ごすのはやめていた。あの日の朝にみた未開封のまま捨てられた避妊具を思い出してしまうから。
「悩みがあるのか」
「いえ、仕事のことだけですよ」
「俺で力になれるなら、気軽に言ってくれ」
そういって向かいでコーヒーを飲む仁は安心感のある人物だ。
仕事でも部下や上司、会社全体で信頼されている人物で、一緒に仕事をしている恵にとって心強い公私共のパートナー。反対に何故、彼のような人がずっと独身、独り身なのかと気になり、彼に紹介された人物などに伺いを立てるが、全員口をそろえて『理想を求める相手だ』といった。理想が高いだけなら、何故自分なのかと思った。理想が高いから相手も大切にしたいという気持ちが古びた考えになるのかとも思った。
それで納得したいと思うのに、あの真っすぐとした瞳の奥の正体を考えてしまう。
どうしてそんなに気になるのかはわかっている、別の人をみているからだ。
以前の恋人の浮気に気付いたのも、そういう違和感からだった。自分といるのに上の空で何かを隠すようになる。仁の場合は隠すようなことはない、スマホにはロックもないし会社では常に彼の周りに人がいる。近年ハラスメントに厳しく講習も受けているからか、女性には人一倍気を使っているだろうことは以前別の営業担当から聞いていた。
『境井主任、以前勘違いした新卒の女の子に迫られて断った時に変なことでっちあげられて人事部に訴えられたんですよ』
苦笑いをしていったのは、確か人事部の安達部長の息子で、彼も仁と仲がいい相手で薄々関係を理解されたのだと理解していたが、大人であるため踏み込んでこなかった。
どんな理由が出てきても納得ができないと恵は自宅でパソコンのモニターをみつめながらため息をこぼす、自分に魅力がないという話ではないことは分かっている。仁は心から自分を想ってくれている。だから理由のわからぬそれが怖かった。
「それなら別れたらいい」
そういって弓を引いた友人、巴はこの世で一番弓を綺麗に引く人だと恵は思っていた。休みの日にときおり弓道に通うようになったのも仁と話をしていたからだった。彼も休みの日に弓道や剣道などをして汗を流すのだという。今どきの社会人なのに珍しいと思いつつ、彼が中学生時代は弓道で様々な賞をもらい、高校生の頃には剣道をと知ると納得した。文武両道で優等生なタイプなのだろうと巴にいうと嫌な顔をされた。
巴は対馬の上県出身で、両親を失い一人で生きていたが弓道の師である石川に目にかけてもらい、今ではアーチェリーの選手として名を轟かせている。それを師の石川はあまりよく思わず、二人は少しだけ険悪な雰囲気を持っている。巴は金さえもらえればいいとしているが、弓道は精神鍛錬を求める武士のようなものだ。巴は恵まれた人をあまり好かない。自分だけを信じ達観している。決めた人しか信じない。それは恵によく似た性質だった。
「そんなに簡単なことじゃないの」
「そう?信じられないのに信じるほうがしんどいじゃない」
「それはそうだけど、まだ知り合って間もないし」
「時間じゃない、気持ちよ」
別に仁と別れたいわけじゃないと恵は思いつつ巴の隣で弓を引いた。アーチェリーと弓道は道具も何もかもが違うのに巴は変わらずにいつも真っすぐと弓を引く。その顔立ちなども含めて日本を背負う弓道家になれるのにと恵も思ったことはあるが、それで食べていけないのは事実。学生時代にアーチェリーに転向すればスポンサーとして、就職の道も作るといわれた巴は手軽に稼げるならと気軽に転向したのだ。
そんな潔さがかっこいいと思いつつ自分にはできない、いつだって我慢をして爆発して、つぶれてしまうと巴の的とは違い、バラバラに矢の刺さった的をみて思う。仁も巴も、みんなどうしてそんなに真っすぐ生きていけるのだろうと表面だけをみて評価する恵は弓を下ろした。近頃は運動をしていないから、すぐに疲れてしまう。
「抱かない時点でそいつはあんたが好きじゃない」
「そうじゃない人もいるでしょ」
「そういうなら話さないで」
女特有のアドバイスをしても、でもでもだって、のようなものは話の意味がないという巴の合理性は理解できる。巴も以前、恋人に裏切られた。それも弓でだった。師範の石川は少し癖があり、認めた相手しか弟子にしない偏屈親父だった。だから巴は惚れた男に自分の技を授けたのに、彼は彼女を裏切りほかの女に行った。巴はまだ若く本気の恋だと思ったがゆえに許せずに男にトラウマを植え付ける様にこっぴどくやり返した。正反対の性格かもしれないが恵と巴はそれなりに馬が合ったしこうして話をする。
少し休憩と弓を置いてお茶を飲む恵を無視して巴は弓を引いた。
「そろそろ先生に謝ったら?」
「誰が...」
人に別れろというくせに、巴だって結構面倒な女だと恵は思いつつ苦笑いをした。人の心とはいつだって複雑だと思って。
気付けば夏が終わり。秋が来た。
九月、十月と過ぎても暑さはあまり変わらずに恵は車の中にいた。隣には仁がいる。仕事の関係でクライアントへの挨拶と現地の視察。よくあることで、恵が仁の運転する車に乗るようになったのも慣れたものだった。仕事場で予定をちゃんと決めて、今回の企画についてちゃんと考える。会社から二時間半の距離だったが仁は気にせず運転するといってくれて午前中に出て、十三時に会議をして十四時過ぎに終わると、軽く十六時前に出発して、帰りの車の中だった。
仁は余計なことを話さない。ほかのカップルが楽しそうに会話する中でも恵も仁も静かで、それが心地よかった。以前の恋人は聞いていないことをべらべら話していたし、今思うとマウントまがいの言葉も多かったと思う。仁はそういうことはない、謙遜もしないが自慢もしない。まさに日本人で、恵も似たような性質だった。
それでも少しネガティブな思考を持つ恵と、ポジティブな思考をもつ仁は違うし、それが営業などにいる人間なのかと思った。この日のクライアントとの話し合いの際も恵の提案に苦い顔をして苦言を呈す相手に彼は、自分なりにこうするといい、あぁするといい。と全力でアピールをしてくれる。
「暑いか?」
「いえ、ちょうどいいくらいです」
「疲れてるな、何か考え事か」
「境井さんはすごいなって」
「どこがだ」
「口がうまいっていうのか、今日も私はクライアントの言葉に返せないことが多かったので」
返せないというよりも、返しても聞いてもらえない、なんてことはよくある。所詮デザイナーは細かいお金のことまでは調整が難しい。それをするならこのデザインじゃなくなるというだけだが、仁はそうならないようにと色々と声を出してくれ、恵は心強い人だと感じた。
「伊達に十年も営業をしてない。それにデザイナーの意思を守りたいのは当たり前のことだ」
そういってさりげなくハンドルを持っていた左手を放して、優しく右手を握られる。社内では恋人だと公言していない。隠す気もないが公にいうつもりがないだけのこと。距離感を間違えなければ誰も何も言わないのはありがたい。
きっと仁と過ごしていれば間違いは起きないと思った。
ちょうど高速を乗っていると、派手な城がみえた、大きな看板には休憩二時間と書かれている。自分たちには一切関係ないものだと思いつつも、思わずみつめたのを仁はなにと思うのだろうかと恵は思った。
「あぁいうホテルっていったことありますか?」
「あぁ」
仁は誤魔化すこともなく平然といった。こういう話をすると男は大抵誤魔化したり、少ないけどといってみたりするが、そんなこともせずに仁は、YESとNOしか返事しない。ずるいけど賢い、恵もそうすると思った。
話す内容はなくて、車内のラジオは交通情報も終わって、無難な音楽を流している。聞いたこともない最近流行りの曲はどれも音が多くてポップで慣れない。
話すことがない恵は何となくしてしまった話を広げてしまう。
「どういう部屋なんですかね、テーマとかありますけど、さっきのところはお城だったから、中身もそういう感じでしょうか」
城といっても洋風なだけで、どんな時代で何をモチーフにしているのか、あの手のホテルのデザインをしたことはないがどんな感じなのだろうかと恵は次第に仕事としての好奇心の話を一人でしてしまう。どうしてか仁とこういう空気になると無駄に話してしまうのだ。ひどく自分が惨めな気がして、何も言わない仁に申し訳なさを感じて横目に見る。
「いつか見に行こう」
そのいつかっていつですか。
恵は何も言えない。ただ車は高速道路から海を見せる。
外は夕暮れで、窓を少し開けてみると空気が心地いい、どうして同じ車に乗って、同じ向きをみて、進んでいるのに、こんなにも心が遠いのかわからない。
仁はいい人だと思う、いい人だからなに?と巴が言った気がした。思わず握られた手に力がこもると仁が、明日は居酒屋小茂田にいって飯を食おうといった。その言葉にあぁ金曜日で、それが自分たちのルーティンだと思い、短く返事をした。
きっとまたカウンターで横並びで、仁の目はみないだろうと思った、それでも彼の目が好きだと思うのは、きっと魂がこの人を好きだからだ感じて、少し疲れて目を閉じた。優しいまなざしでみているのがわかる。きっとこの人はずっとこういう人だ。なにもいわず胸の内に秘めるタイプ。自分と同じ人。