第六話


――三週間後、仁が恵に呼ばれたのは昨日の連絡からだった。

『話したいことがあります』

恵からそういわれたのは、二人が結ばれた日のときぶりだと思った。何か嫌な予感がしていたが深く考えたくはなかった。バレンタインデーにチョコレートをもらった後、土曜日が二回来た。
二月が終わる頃、近頃会社でも一切恵を見ないと思ったが、新年から恵が忙しいことを知っていたし、デザイナーはリモートワークなども可能だった。データに関しては紙などであれば当然手渡しだが、今どきはどこもデータでやり取りもするため、完全リモートをするタイプもいる。
営業部はそれができないため、フレックスかつリモートのデザインチームが羨ましいとは度々声が上がったが専門職の特権だと仁も笑って帰すことがあった。それでも恵は比較的出社をしている方だったので、全く会わないのもどこか不思議に思えた。連絡は返ってくるが忙しいという言葉だけが返事されて、連絡アプリのチャット欄には彼女らしく申し訳ないという言葉とスタンプもついている。
彼女に今依頼をかけている営業担当に聞いても、会議などは普通に出てくれているという話で、本当に仁だけが彼女に会っていないような感覚に陥る。
心配だと思った。自分だけが偶然かもしれないが会えていない。もちろん居酒屋小茂田にも一度バレンタインチョコを渡しに来たっきりだといっていたが、ゆなが仁を心配そうにみつめて聞いた。

「仁、あんたなんかしたんじゃないの?あの子、なんか悩んでたよ」
「いや、来たのは十五日なら俺は前日にチョコレートをもらっただけだ」
「そんとき変なこといったんじゃないの」
「そんなことはないはずだ」

きっと...そうだ...。
それでも人の心はわからない、本当は何かをきっかけに彼女を傷つけていたかもしれないが仁には覚えはなかった。チョコレートをもらった時、恵は小さくはにかんだように見えた。あの時にくれたチョコレートがとても嬉しかった。
夫婦だった頃、彼女とよく果実を食べた。あの時の味によく似ているものだった。それにあまり口にしていなかったが、果物が好きだと覚えてくれているのも嬉しかった。仁の自宅で彼女は慣れた様子でリンゴを剥いてくれる姿はまるであの頃を彷彿とさせるようで好きだと思い出すが、恵は果物が好きと思ってくれて、そのうえであれを選んでくれたのだと思うと愛おしいと思えた。
なにがだめなのか、仁にはわからない。
ゆなに言われた言葉をちゃんと覚えているし、気を付けているつもりだったが、やはり恵は恵だ、過去も今もずっと彼女なのだと仁は自分にいうが、もし天秤があるとしたら。彼は過去に傾いているのも事実だったかもしれない。

そうして会えない三週間を過ごした後、日曜日に彼女が指定した場所は普通の喫茶店だった。そこは恵と仁がたまにモーニングに食べに行く喫茶店で、今どきの流行りのおしゃれな雰囲気はない。
ここ最近法令の兼ね合いで分煙となってしまい、奥の喫煙席は良く混雑しているが、手前の禁煙の席はよく空いている。待ち合わせの三十分前に仁は来て、窓際の席に座っていた。昔の建物はいつだって華やかで、今とは違う美しさがある。
喫茶店はもう創業五十年らしく、年老いたマスターとアルバイトの若い学生がおり。仁は連れが来るのでといって注文を待っていた。時刻は昼過ぎの十四時、ちょうどお茶の時間で、客が程よく入ってくる時間だ。

仁が座った席は窓がステンドグラスになっており、恵はそれをいつも好いていた。だからステンドグラスがよくみえる上座を開けておいた。ステンドグラスの反射しした光を受ける彼女をみていると、まるで絵画のように美しいと仁は思っていた。
話はなんだろうか。とまた考える。早く来すぎたのは良くなかったかもしれないと思いつつ十五分前になると入り口のドアの鈴が鳴り、客が入ってくる、アルバイトの学生らしい女性店員が話をするのが聞こえて、すぐに足音が近づく。
――恵だ。

「すみません、お待たせしましたよね」

そういった彼女は白いマフラーをしていた。
クリスマスに渡してから一度もつけていなかったため、気に入らなかったのかと思ったが、コーデを見るとそうではなさそうだった。
白いニットにブルーのジーンズにライトブラウンのチェスターコート、小さめのブラウンのショルダーバッグは昔博物館にも持ってきていたものだ。足元はホワイトの足首までのショートブーツ。髪はおろしており、特に装飾品はなく、シンプルな服装だが、喫茶店に来るにはよく似合うが、少し仕事の打ち合わせにも似たカジュアルなコーデだ。

「いや、俺もさっき来たところだ、注文は」
「カフェオレのホットで、境井さんはコーヒー?」
「あぁそれで」

お互いに慣れたものだと思う。
昔はお茶か水か酒程度だったが、飲み物は種類が増えて、恵はコーヒーよりカフェオレ派だった。恵の分のお冷とおしぼりをもってきたアルバイトの店員に恵注文をすると、何も互いに言葉を発せなかった。
五分もしないうちに、ドリンクが届いて、二人して何言わずにカップに口をつける。恵のカフェオレの入った白いカップには薄いリップの色が付着している。
店内は少し騒がしく、奥の方では喫煙席から流れる煙が見える。
仁は何かを話すべきだろうと思い、仕事の話か、チョコレートが考えること、先に恵が問いかける。

「私たち出会ってもう時期、一年ですね」
「四月入社だからそうだな、早かった」

一年の間で恋をして共に過ごした。短くも長い人生の中で仁は恵といたことを幸せだと心から思っているし、今も彼女と向かい合っているのが嬉しい。テーブルは狭くていつもその下で足が当たるのだが、今日は足が当たらない。恵が足を当たらないように縮めてくれているからだ。
大きな案件で二か月一緒に切り詰めて頑張って、そして互いを知ってちゃんと結ばれた。結婚前提で真剣な交際だと仁は志村に告げてあり、志村からも承諾されている。口にせずとも最初に告げていたため、恵も仁がその気だとわかってくれているだろうが、互いに急かすことはない。三十二歳と三十歳、結婚するにはいい時期だが、恵の時期もあると仁もしっかり考えていた。一般的には三年とされているが恵次第で考えているので遅くても早くても何でもいい。一緒にいられる時間の方がずっと大切だから。

「境井さんは私が好きですか」
「当然だ、心から愛しているといえる」

恵の問いに仁はすぐに答える。恥じらいはないのだから当然だ。男だからとくすぶって言葉にしないのは、相手を苦しめるのはわかっている。生きているからこそ伝えられる言葉はあるし、きっとどれだけ伝えても伝えたりないのがこの感情だ。
恵はカフェオレをまた飲んで、そうですよねと散々言われてきた言葉を思い出して小さく笑う。今更何か不安なのだろうかと仁は思ったが、恵のカップの中身は既に三分の一になっていた。まるで何か急いでいるような。

「じゃあ聞きたいんですが、誰を見ていますか」

仁は止まった。恵だと当たり前にいえるはずだ、先ほどのように瞬時にこたえられるはずだ。だけど言葉が出てこない。まるで喉をつかまれたように、声が出ない。
恵の目は真っすぐ仁をみている、そこはは二人の彼女がいる、自分を信じて突き進もうとしてくれた妻の恵と、自分に不安を抱く今の恵。
仁は恵をみている。だけどどちらかはわからない。過去があるから彼女が好きで、そうじゃなきゃ彼女を追いかけることなんてない。答えはどれくらい経ったのだろうか。

ちょうどその時、十四時ちょうどを知らせる仕掛け時計のハトが鳴いた。
恵が来て、十五分が経っていたらしいが、仁にはもう一時間ほどじゃないのかと思った。仁は少しだけ視線をそらした。恵の透き通る瞳を見ていられなかった。彼女が悪いのではなく自分だと認識している。
過去の彼女が好きだ、そして過去があるから今の恵が好きだ。
それは過去の彼女以上に好きなのかといわれるとわからない。最後の記憶は寒い北の大地の中で感じたかの大地に似た場所。美しいツツジが生えていた。寒い冬の日を過ごして子供と妻と友人と住んでいた。もう二度とあの頃の幸せが持てなくても、このつつましい幸せだけで十分だと思った。
けれど、彼女は冷たい雪の上で死んでいた。
自分が守れなかったのだ。追いかけてくるものはずっと追いかけてくる。あれだけ苦しんだ彼女の最後が一人孤独に雪の中でというのを悔やんだ。どうしていつも自分は大切な人を守れないのだろうかと思っていた。誰かを恨みたくても因果応報という言葉が浮かんで消えた。自分と出会わなければよかったと思うのに、彼女は共にいれたことを心から喜んでくれた。

『仁様』
「仁さん」

声が重なった。
あの頃と同じ声で優しいものだった。地獄の底でもどこでもついていくといって、どんな場所へも来た彼女だ。しかし目の前の女は違う、そして彼も今は違う。
ただの平凡な男と女で、戦の一つもその身には味わっていない。
仕掛け時計が鳴りやむ頃、恵は最後の一口を飲み干した。

「愛していました」

例えあなたが私を見ていなくても。
そういってカフェオレ代金をお釣りのでないようにちょうど置いていった、恵の表情はどんな風だった。泣いていた?怒っていた?笑っていた?それとも無表情だっただろうか。
仁は置き去りにされたまま、目の前をみつめた、椅子の上には白いマフラーが綺麗に畳まれて置き去りにされている。忘れたのではないというように。
追いかけるというのは仁にはできなかった、体が動かないのは、あの日、恵の最後を見た時と同じで、仁は目の前を見た。彼女のいた席は、ステンドグラスの光が反射して、色とりどりに輝いているのが、今はとても悲しく感じた。

外は雪が降っていた。暖冬だという割に、寒い日はとことん寒くて、今日がその日だったようで、恵は首元が寒いと思いながらコートに顔をうずめる様に歩いていた。ただひたすらに電車も乗らずに歩いていると、雪はどんどん激しくなって、天気も悪く前が見えにくいと思ったが泣いていた。雪の中で見る景色はどこか懐かしくて寂しかった。雪だというのになぜか真っ白なススキが揺れているようにみえた。
その先に誰かがいるような気がするが、きっと気のせいだと思い、彼女は一人寒い雪道を歩いた。雪がそのうち、この悲しみを埋めてくれる気がしたから。