プロローグ
春が過ぎて夏が来る。
梅雨もまだとなる五月はほんの少し夜が冷える。
半袖を着るにはまだ早く、長袖でいると少し暑い日中、時刻は既に二十一時を回っており、夜道を歩く人は少ない。
電車で三駅、駅から徒歩五分、マンションの入口のポストを確認し、適当に捨てるものと置いておくものを精査しながらエレベーターを待っていれば、こんな夜更けに女性が一人、背後に立っていた。
まだ若い二十代の女性は長い黒髪に短いスカートから生脚を出していた。
エレベーターが到着するものの彼は直ぐに隣の階段を登った。仕事終わりだとしても階段を上がるのはきつくは無い。五階まで上がり、その内の一室に鍵を差し込んで入ると、部屋の中は真っ暗で、朝と同じ状況であった。
ネクタイを緩めてシャツのボタンを外しつつ、洗っておいた浴槽を軽く水で流して栓をして、風呂自動のボタンを押すと少しうるさい機械音が風呂自動をオンにしました、と告げてお湯を流し始める。
風呂場から出て洗面所で手を洗い、廊下を抜けてリビングに行き、朝開けておいたカーテンを閉めて、テレビをつけると深夜帯のバラエティ番組が流れていたが公共放送チャンネルに切り替えた。
炊飯器はしっかりと予約炊飯が出来ているのを確認し、冷蔵庫の中から付けておいた野菜の甘酢と買ってきたばかりの白身魚の天ぷらを盛り付けて、なんちゃって南蛮漬けをして、さらに昨日の残りの味噌汁を温めて、冷蔵庫の中に置いてある、切り干し大根や漬物を適当に皿に乗せて、テーブルの上に並べる。
丁度、味噌汁がグツグツと煮え立てば、米を茶碗によそって、味噌汁と共に置いて、最後に冷蔵庫のお茶を入れて席に着く。
「いただきます」
両手を合わせて、しっかりと告げて食事を摂る。
一人暮らしにしては丁寧だと言われることもあるが染み付いた習慣だった。
自分で出来ることは自分でする。
三度の食事は極力抜かない。
営業マンとして仕事をする彼にとっては大切なことでもあり、七割ほど食べ切るとお風呂がもうすぐ用意できるというアナウンスが聞こえた。
ニュース番組は今日一日のニュースを流しており、いいニュースも悪いニュースも流れるが、そのどれもがいつまで経っても新鮮に感じてしまう。ニュースだけではない、全てのことがいつだって新鮮で真新しく感じるのだ。
夕食を食べ終えて、一度水に浸けてから風呂に入る。どんなに疲れていてもこれだけは譲れない。時刻は二十二時を回っていたがじっくりと一時間風呂を堪能して、身体の疲れを取り終えると軽くお茶を飲んで、明日の分のお弁当を用意しつつ洗い物を片づける。
冷たい水の中で泡だらけになる己の手を見ながら、細く白い手を思い浮かべる。
冬場でも冷たい水で洗い物をしていたあの手は、相当堪えただろうと思いつつ、今の自分を考えると何もしていなかったようにも感じる。
一通りの用意を終えて、もう日付も変わる前になり、彼はベッドに入った。エレベーターで見かけた黒髪、あれはよく似ていたなと思いつつ彼は瞼を閉じる。いつだって同じ夢を見る為に……。
女はいつだって静かだった。
なにも言わずに、なにかを求められなければ答えない。
けれども、女は自分が思ったことを必ず貫き通す信念があった。
あの時代の女に特有の強さであり、心惹かれるものだった。
『おひとりにはさせません』
『逝くのでしたら、私も一緒に』
『夫婦ですから、地獄の果てまでご一緒致します』
白い着物はまるで死装束のようだった。
遠くで聞こえる騒がしい声や爆発音、手に残る血の跡。
トリカブトを手に持った彼女を連れて行ってはならぬと分かっていた。
それでも心の底からいて欲しいと願った。
自分が信じて求めた相手との相反する考え。自分がしなければ民も兵も、誰も守れない。獣や鬼や冥人と呼ばれても、それでも修羅の道からは逃げないと考えて戻れぬ道を行こうとする時、彼女は必ず隣にいる。
そして普段は静かに前を見るだけの彼女は、必ず自分を見て子を安心させる母のように微笑んで、優しく手を取る。
『お慕い申しております、仁様』
アラームが鳴った。
いつもの朝が来る、五月の朝は少し寒いのに日差しは暑い。
もう二度と会えないのだろうかと身支度を整えて外に出る。
三十一年目の人生にも、まだ彼女は現れないのだった。