第一話


恵は仕事に明け暮れた。仁と会うリスクはあるとしても、一人でいると悪い気持ちになるからだ。
かつて病院でもらった眠剤を久しぶりに飲むようになり、今までは夜遅くまで自宅でも仕事をしていたが、決まった時間に無理やり眠るようになった。食事はあまり喉を通らなかった。それでも会社にいけば人がいる。なんとなく軽い会話もして、周りに少しだけ心配されるが、ありきたりなクライアントの愚痴をいうとみんな同意してくれる。これでいいのだと恵は言い聞かせていた。
仕事は早めに帰るようにした。仁は残業をしても早上がりはしない人だとわかっていたから。九階から階段で降りて、駅まで向かうと恵を呼ばれて振り返った、そこにはゆながいた。買い物をしていたらしく手にはエコバッグがあり。久しぶりと声を出す前に「なにがあったの」といわれ、恵は自分が泣いてしまいそうになっているのに気付いた。

開店前の仕込み中の居酒屋小茂田に連れてこられた恵はここに来るかどうかも悩んだ。あれから一週間しかまだ経過していないが恵は心身共によくない状況で、店に入るなりたかが仕込みをしていたが、恵になにか食わせてやってくれとゆなに言われて、たかはランチで残ってたもので悪いといいつつも、到底残り物とは思えない刺身の定食が出された。酒がいるならといわれたが恵は断った。酒は溺れるかもしれないから怖くて手を出せない。自分が精神的に不安定になることは以前の会社の件で理解していた。

「それで、どうしたのさ」

仁のことだろ?と見透かしていわれると恵は答えられなかった。 見透かされた訳じゃない、ゆなは恵が悩む原因が仁しかないことを知っている。この一年、二人は揃ってここに来ていたのをゆなは心から嬉しいと思った。かつて二人とゆなは過ごした。仁がどうして彼女をそこまで深く想うのかも理解している。愛する人を目の前で失ったのだから今世で求めるのは自然だった。

「まぁいっか…食べなよ」

炊きたての白米が冷める方が嫌だとゆなは思い、恵に食事するように言うと、恵はゆっくりと箸をつける。味はあまりしない。美味しいはずなのに分からないとここ最近の食事で感じていた。
それは心が疲れ切っているからで、恵は本当にあの時、仁を切り捨ててよかったのだろうかと悩んでいた。実際切り捨てたという言い方は違う。別れたのかどうなのかといえば答えられない。別れたい訳じゃなかったのに勢いに任せて「愛してました」と過去形にしてしまったのが悔やまれる。
恵はお茶碗を片手に食事をしながらゆっくりと消え入りそうな声で「境井さんとね」と子供のような声を出した。

ずっと不安があった。
一目惚れや初恋という言葉を信じていない訳でもないし、運命という言葉はロマンチックだと思う。実際に人によってはそういう縁もあるのは否定しきれないし、恵自身は現実的で、そういう事が自分の中で遠いものだと分かっていても、仁の恵に向けたあの感情はそういう物に近い気がした。

「境井さんが不誠実な人じゃないことは分かってる。絶対に不貞を働く人じゃないことだって。だけど…何かわからない不安があった」

恋人でなくても、人の付き合いというのはどこまで相手を許しあえるか、というところはある。恵自身以前の恋人が浮気をしたことについてショックはあったが、それはそれだとも自分に言い聞かせていた点もあった。それ以上の裏切りがあったから彼と別れただけのこと。
仁はその手のタイプじゃない、きっと恋愛をしていて不安になる要素はなにもないのに、なにかが恵に引っかかり続けた。自分と誰かを比べるのではない"重ねている"ことだけがわかった。その人は誰なのかと聞いても彼は答えられない。

「あの人に好きな人がいるなら、絶対私とこんな関係になるわけがないの、だけど一緒になった。なのに分からない。あの人のことが何も分からなくて、誰を重ねてるのかなって聞いても答えなかった」

あの時の回答はなんでもよかった。
初恋の人だ、昔の恋人だ、誰でもない。
嘘でも、真実でも、どうでもよかった。ただ一言、仁の口から言葉を聞きたかっただけなのに、彼は沈黙してしまった。沈黙とは一番残酷な答えだった。
恵は義務のように食事を食べながら独り言のようにつぶやく。嘘がつけないというのは正直とてもつらい。誠実であるから、嘘をつかないから信じられるのに。反対に信じたくないことや、考えたくないこともすべて受け止められてしまう。
優しい嘘をつけるのならいいのに、仁はそれさえできない人だった。喜んでいいのか悲しんでいいのかもわからず、仁を理解できるとは思わないが、せめて少しでもと願うのは傲慢なのだろうか。

「仁はあんたが好きなのは本当だよ、あんた以外なんて目にもくれない」

別にほかの女に興味がないわけではないだろうが、恵という存在はきっとあの男の人生で唯一の光であるのだ。ゆなは知っている。あの日、恵の骸を抱いて家に帰ってきた仁を。かの地を追い出され、二度と会えぬ伯父を思って、後ろ髪はずっと引かれていても彼はもう戻れない道に進み続けた。そしてその隣には恵がいた。

「じゃあ、誰をみてるんだろ」

恵だよ、とゆなは思いながら言わなかった。
それをいうのは彼女ではないからだ。ゆなは酒を飲みながら彼女の背中をさすった。泣いてしまうのは彼女の強さだと思う。仁の馬鹿野郎とゆなは内心つぶやいた。昔のあんたは彼女のことは泣かせなかったよ、と小言を零すが、二人の悩みはゆなには痛いほど理解できるため、誤魔化すように見つめると時計は店のオープン時間を過ぎていて、たかが静かに暖簾を出した。時間はいつも残酷だ。

「それでもあいつはあんたを愛してるよ」

そういったゆなに恵は悲しそうにはにかんだ、彼女の言葉が嘘では無いことくらいはわかっている。だからこそ、辛かった。

それから数日後、恵は会社で妙な噂を耳にした。
それは境井仁が今度の大規模な都市開発案件で水増しの架空請求をしているという内容で、恵は彼と距離を空けていたが、それでも嫌な気持ちになった。
人は噂が好きである。境井仁という人物が会社でどんな人間であるのかというのは恵もよく理解しており、周りも評価をしているが、一定数仁のような人間を毛嫌う存在がいるのも知っている。正直なところ無理もないとも思う。彼は優等生タイプで、厳しすぎるわけではないが、それでも不正や曲がったことは自社でも他社でも関係ないのだ。
恵も一度クライアントから直接「境井さんって正直苦手なんですよね」という話で同意を求められたが残念ながら、恵はその手の人間の方がずっといいと思うので「はぁ」とだけ返事をしたものだった。

「聞きました?境井さんの話」
「あんなに大きい声で話されてましたら」
「結構本当っぽいですよ」
「...そうですか」

同じデザイナーの人の話にどうせ勘違いだろうと、恵は思っていた。噂というものがどういうものか知っているからだ。それは下手な話が尾びれをつけて発信されるもの。
仁のような男ならきっと問題はないと思うのに、妙な不安を感じた。
スマホを開いて消していない仁の連絡先を開いてみるが、文字は一言も打てず、電話をすることはできない。二人の個人チャット画面にはあの日話があると言った恵に対して、わかったという仁の返信だけで、それ以降は何もない。
仁のことについて所詮噂だと恵は言い聞かせたのに。
数日後、彼女が耳にしたことは、仁が解雇されるかもしれないということであり。恵は頭が真っ白になった、その手にしていた資料が床に落ちると、紙が床に広がった。まるで散った花のように。