第二話


午後一番、仁はすべての予定を誰かに代わってもらったり、キャンセルをして志村建設の三階にいた。

他の階と比べて静かな三階は社長室や、経営企画部、そして役員会議室がある。どの部屋も大抵の者はあまり喜んで足を踏み入れたい場所ではなかった。仁自身、職務上必要なことがない限りは来ない場所であった。しかし仁は朝から時間を与えられ呼び出されていた。彼自身理由はわかっていた。
エレベーターで三階に辿り着き時間通りにノックをしてはいるとそこには総務部や経営部などを代表とした重要役員たちが既に座っており、仁はいつも通りに背筋を伸ばして「お待たせしてしまい、申し訳ございません」と形式だけの言葉を告げた。全員彼が十五分前に来ることは理解しており、まだ少し席は空いていた。
次第に全員が揃いはじめるが、一番奥、仁の向かいとなる社長席は空いている。時間だというように挨拶をすると同時に経理部長が、重たそうに資料を見せつける様に取り出した。
社長はちょうどどうしても外せない用事があり、今回の件は副社長と経理部長の二名が代表として請け負うこととなったと説明をした上で、重たく低い声が広い部屋の中にはっきりと聞こえる。

「境井君、今回の件について、説明してくれるだろうか」

会議用の長いテーブルの一番下座に座る仁はまるで被告人のようだった。
罪人で今から裁かれる者というような仁は役員など今回の件について関わる人物をみた。全員が仁をよく知る人物で、彼も彼らをよく知っている、入社当初から志村の甥としてのまなざしも、優秀な新入社員であるということも、よく理解している面々で、特に役員メンバーは志村と馴染み深い面々で、彼らも正直なところ困惑していた。
今回の件、それは現在、仁が関わっていた大型案件のことであるのは理解している。西湾岸部の都市開発に関して商業施設からオフィスに駅までもを手掛けることとなっており、社内でも数年に一度の大きな案件であるが、手慣れている仁のいる都市開発部営業一課に託しているはずだった。
だが、そこで起きていたのは、水増し・架空請求・キックバックというもので、その中心人物が境井仁だということを会社は発見し、彼を呼び出した。噂はどこから漏れたのかは知らないが、社内はすっかりとその話でもちきりであり、正直なところ社内でこれであれば外に出るのも時間の問題だろうと役員たちは考えていた。

「はっきりお伝えできることは、本件につきまして不正は行っていないということです」
「だが書面には君の名前があるだろう」
「私は書いた覚えはありません、筆跡も私の者ではないのは明白です」
「筆跡なんてものはどうにでもできる。メールやハンコもすべて君じゃないか」
「否定いたしません、しかし私はしていません、送信時間に私は退社しています」
「じゃあ誰か別の誰かだといいたいのか」
「そうは言いませんが...」

仁が今回の件で犯人として扱われている理由は、重要な書類等が主任である仁の名前となっていたからだ。通常は部長クラスでなければ不可能な案件だったが部長は今回の件についてを仁に一任すると全員の前で明言した。そのため部長の判があるとしても隅の方となっており、あくまでも仁がメインで動く形に取られていた。

「下請け会社からも君の名前が出たことについては」
「...それは」

仁は少しだけ肩を揺らした。
そして何も言いきれずに会議は時間を進めるだけで進む気配はなく、結果として仁は本件から一度離れ、他の仕事についてもメインの内容はすべてほかの者に託すことに。しばらくは補助として働くように告げられるが、そこからは毎日といっていいほど頻繁な役員会議という名の法廷に出廷することになるのだった。

「境井主任...!」
「安達...」

仁は連日の会議の中でいつも通り自身のデスクに戻ると部下であり、一番彼を慕ってくれる人事部部長の息子であり、営業一課の安達繁成に駆け寄られたが、仁は平然とした態度だった。
噂は既に回り切っており周囲の目はあきらかに悪くなっているのは仁もわかっていた、普段は物静かで仁に何事も一任しがちでやる気のない課長は仁についてなにもいえず、反対に彼に任せていた仕事が自分に戻ってきたため連日忙しそうだった。
人気のある場所で騒いでも余計だと仁は繁成を連れて人気の少ない会議室に行くが、繁成は仁と二人になった途端に深く頭を下げた。

「すみません境井主任、自分がもっと」
「いいんだ、気にするな、今回の件について大したことはない」
「それは嘘ですよ、親父から聞いてます」
「本当だ...大したことじゃないんだ、それよりもお前は黙っててくれ」
「なんでですか!だってこれって境井主任のせいじゃなくて、完全にはめられ...」

頼む、と仁は静かに告げた。
彼が何を言いたいのかは理解しているつもりだ。それでも言わないでほしいという仁に繁成は顔を伏せた、仁がそうするのは理由があった。しかしそれを断片的に知るのは彼だけだった。今回の件に気付いたのも彼だったから。

今回の都市開発の下請けとして名前が出たのが鑓川技建だった。
鑓川技建は志村建設の実質的なライバル会社であり、今は亡き先代社長と志村は血で血を洗うのかというほどの関係であったが、社長が変わった後、経営危機に瀕していた際に仁が技術力の高い鑓川にどうして助けてほしいと頭を日夜下げ続けた結果、鑓川技建、現社長の氏政は仁自身を認め。それ以降、志村建設ともそれなりによい関係を築いた。
一時期は大きくなりすぎた鑓川技建も中小企業としてそれなりの業績を残しており、持ちつ持たれつの関係となり、あちらの社員も現場で共に汗を流す営業マンである仁を他とは違うと強く信頼してくれた。
仁自身も今回の大型案件を鑓川にするのを強く同意し、自ら頼みに行き、氏政に肩を叩かれて酒を飲み交わし。良い関係を築いたはずだった。

異変を最初に気付いたのは繁成だった。

「境井主任、この外注費、前回の見積もりと合いません」
「なに?みせてくて」

繁成は名大学出身で、数字に強く営業マンとしての腕もよく周りからの信頼も厚かった。もちろん仁も彼を信頼しており、そんな彼が何度も資料を見直しては聞いてきたことに、仁は一緒に確認すると、確かに辻褄が合わなかった。
どういうことなのかと鑓川に連絡をするも先方は知らないといった。その声からして嘘はないと思い、仁はすぐに営業部長に確認を取りにいったことが、今回の事件の始まりだった。
資料を手に仁が説明を求めるが、部長は「工程調整だ、現場を円滑に回すためのな」というため、こんなことは許されないと反論すると部長は、それなら仁が今回の件を引き受けるか?と聞くため、仁は素直に受けたのがよくなかった。
翌朝の朝礼で部長は全権を仁に渡すといった。しかし以前から部長が仁を好ましく思っていなかったことを知っていた周囲は、仁が嫌がらせを受けたのだと察したものの知らないふりをした。仁は査定などで給料や昇進を思うように受けられなくても困らないとするが、それは彼が社長の甥だからだと周囲は思っている面もあった。みんな家庭や自分を守りたい。特に争いには参加したくない。
係長も仁に知らないふりをするのはいつものことで、仁は構わないと思っていた。しかし、全員の前でいわれてしまったがゆえに仁が本件の全てを担う形であると認識された、だが仁は主任で、相手は部長、どれだけ口約束をしていても、地位はあちらが上であり、仁が知らない間に進められている件は多くあり。
その都度、自分に通してほしいというが相手は歯切れ悪そうに「部長の指示なので」といった。また仁を慕うメンバーは他の案件を無理やり回され、部長派の人間ばかりとなり、仁はますます自分の知らない間に進むことが増えた。

・仁名義の承認メール
・仁が主導した形の議事録
・仁が下請けに指示した、という体制の書類

全て彼の知らないうちに作られており、何も知らない別の部下がそれをみて仁に「主任が?」と聞くため、仁は違うと否定したものの、時すでに遅かった。
ある日――鑓川と仁は直接話をすることにした、現場がどうなっているのか、なぜそうなっているのか。また仁は自分は完全に蚊帳の外であることを相手に伝えた。仁義を重んじてくれる鑓川だからこそ、ここで自分が違うといわねば、彼らの信頼を落とすと思っていたのだ。
しかし、相手は仁が思ったことと違うことをいった。

「すまない境井...逆らえないんだ」

鑓川もまた現在経営困難に直面していた。今回の案件を棒に振ることになれば倒産する可能性が高いとされており、そこを狙われたのだと仁は気付いた。
もし今ここで部長を止めたとして、現場が止まってしまえば鑓川が潰れる。そして部下も、クライアントも全員が巻き込まれ、大勢の人が苦しむことになる。
あんなにも負けん気の強い鑓川氏政が気弱に呟いて酒を飲む姿に、仁は拳を握るしかできなかった。いつだって弱き者は淘汰される。昔の時代のような、戦からくるものではない、政治からくる民の苦しみだと仁は感じると憎しみさえ感じた。
それでも今は違うのだと自分に言い聞かせ、必ず自分がなんとかしてみせると寝る間も惜しんで考え、現場に出向き、会社で走り回った。
だがそうして仁が必死になれば、相手はどこ吹く風に仁を苦しめ、噂話を流し、そして仁は気付けばその中心人物になり、その話が上層部に届き、ついに精査され、今となっているのだ。

仁はわかっていたことだと言い聞かせる。
言い訳は不要だ、自分が間に合わなかっただけのこと。反対に自分がここで罪を被れば一度白紙からやり直せる可能性が高いと思い、そのためなら彼はよかった。

そうして日々が過ぎていく中、また彼は三階の別会議室にいた。
眩しい日差しの昼下がりを隠すように遮光カーテンが引かれ、部屋の明かりだけが、会議室を照らすが白い部屋の中は刑事ドラマの中などでみる事情聴取の部屋のように感じる。
そこまで広くも狭くもない普通の会議室の中、テーブルの向こうには役員が数名並んでいる。聴取する者や記録をする者など、それぞれが役割をもっており。仁は指示され、椅子に座っていた。
資料が机に置かれる音が、やけに大きく響く。
そんなにあったのかと思うほどの量に、相手も相当調べてきたこと、また仁が知らない以上のものがあったのだと感じると、境井君と名前を呼ばれる。
まるで裁判官のような声だと思う、静粛に、という言葉が似合いそうで、その手に握ったペンは裁判官のガベルにもみえそうだ。もっぱら日本では法廷でガベルを持つことはなく口頭でのみの案内や、持っていても書類やバインダーだろう。

「この外注水増しの件。君が主導したという理解でいいな?」

仁は目の前に並べられた資料を軽く見た。もう何度もみてきた資料だが、自分の名前が並ぶ書類、メールの写し、承認印。自分の筆圧ではないのは明白だが、どれも書類上は彼の責任として十分なものだった。

「事実ではありません」
「だが、すべて君名義だ、しかし資料があり、先日下請け会社に問い合わせたところ、君の指示だと証言も出ている」

きっと脅されているのだとわかる。
その時の鑓川の顔が浮かぶ、きっと苦しかっただろう、他からは気難しい社長だと思われがちだが、部下やその家族にはとても慕われる優しい人だと仁はよく知っている。初めこと志村の甥となり、なおのこと厳しかったが、心を開いてくれるとまるで家族や親戚のように良くしてくれた。この時代にもあんなに情にあふれた人がいるなどと仁は嬉しかった。

「裏金、キックバック、架空請求。私たちも君ほどの人間がやりそうにはないと思っている」
「だが、形跡が残っている、それにそれを否定する裏もないときた」

それの意味が分からないわけではないと仁も理解している。
彼らも裁きたいわけではないが、仁も大げさに否定せず向かっていた。その誠実さがなおのこと、彼らを困らせる。
仁はただ真っすぐと前を見る。

「私は下請けに不正を強いたことはありません」

そしてこの話がどこに落ち着けばいいのかも彼は理解している。
ざわめく役員たちに仁は、いつでもどこでも、犠牲はつきものだと思った。
一人が犠牲になり、数百人が救われるのなら、仁は喜んで、その一人になれる。数百年前、あの日の対馬でそうであったように、彼が武士でもなく、ただの冥人と呼ばれる存在になろうとも。それで救われる者がいるのなら、それでいい。

「私一人の責任です」

ただ一ついえることがあるとすれば、あの頃は一人ではなかった。
隣にただ一人、変わらずに妻である女がいた。
――恵。
唯一無二の陽だまりのような女(ひと)、どこまでも共にと誓ってくれた彼女がいたのは、仁のどんな苦しみの中でも大きなものだった。

騒がしい会議室で仁は変わらぬ声でいった。

「鑓川は関係ありません。彼らは指示に従っただけのこと、不正の意思はありません」

守るものはわかっている。

「解雇も、懲戒も、覚悟しております。しかし、下請けとなる鑓川技建を罪にするのでしたら、私は何も話しません」

会議室の空気が凍り付く、交渉でもない、それは確かな宣言だった。
仁は会議を終えて、一人、先に廊下に出ると、とても人がいるとは思えぬ静けさだったが、奥の社長室のドアが開き、志村が現れた。今回の件について志村は一度も会議に出席していない。仁はなにもいわずにいると、志村はただ通り過ぎた、彼も何も言わない。ただ、その背中には息子を思う気持ちと、社長としての思いが滲んでいるのは確かであった。