第三話


仕事を終えた十九時頃、残業に残っていた社員もまばらに帰っていくのを恵は見届けつつ、近頃の噂話についてが気掛かりだった。
どうやら噂が噂でないのは周りの口ぶりから本当のようであり、恵は仁の心配をするが彼に連絡を取ることは未だ出来ていない。一度居酒屋小茂田に行き、仁の話をしてみたが彼も恵と別れた後はしばらく来ておらず、以前街であった時にはしばらく忙しくなるといっていたといわれ、それが恵関係だと思っていたと言われ、ますます今回の件は大きな問題なのではないかと思っていた頃、一通のメールがある人物からやってきた。

三月の空は十七時過ぎには暗くなって、夜を長く深く感じさせると恵は会社から出ると同時にその空気の冷たさにはぁ...と息を吐いた。白い息が外の空気に溶け込んでいく。駅方面に歩いて、人混みの中を通り過ぎて北側の飲み屋街の方へ向かう。平日でも飲みに行く人はいる。会社員も学生も恋人も友人も関係ない。恵も仁もあまり大衆居酒屋や騒がしい店にはいかず、いつも決まった店しかいかなかったなと思いつつ、足を進め、そのまま飲み屋街の表通りから裏道に入っていくと静かな店ばかりになる。
そのうちの一軒、地下に続く階段を下りて店名の書かれたプレートをみると、長く経営されていそうな雰囲気のバーであり、重たいドアを開けると夜の七時であるためか店内は閑散としている。カウンターの奥に座るグレースーツの男が一人、白髪交じりの初老の男性は静かにウイスキーのロックを片手に思い悩んだようであり。
恵がドアを開けると重たいドアのベルが鳴り、カウンター内の同じく初老のマスターは彼女を見ては小さく会釈だけして何も言わない。店内には控えめにジャズが流れており、壁掛けのレコーダーが回っているのをみると、その下には数多のレコードが並んであり、マスターの趣味なのだと感じた。
恵は重たい仕事用のコートを脱いで片手に持ちながらカウンター席の男に近づく。

「お疲れ様です志村社長。お待たせしてしまい申し訳ございません」
「狭間くん...はやいな」
「社長こそ、待ち合わせは二十時でしょう?」
「思ったより早く来られてな」

恵を呼び出したのは彼女が務める志村建設の社長であり、境井仁の伯父である志村だった。
志村はどこか疲れたような顔をしていた。無理もないだろう、彼も今回の件に関して社長として知らないふりはできないはずだ。もとより噂話程度ならよかったが、数日前から役員会議にまで発展し、仁が関わっていた案件から彼は外されてしまい、別の営業担当者が大慌てで担当していた。恵は直接仁が関わる案件がなかったので困ることはないがほかのデザイン仲間は仁が担当していたこともあり、少しだけ困ったようである。仕方ないことだが仁は頼りがいがあり、デザイナーの面々も彼を好む人は多かった。
――というよりも、仁を嫌う人間の方が少ないだろう。仁を嫌う人間はその人間性や仕事ぶり、そしてなによりも社長の身内というのが気に入らないだけである。
恵も志村もそれを理解している。人間誰しも合うわけではないことも。

志村は恵に座るように伝え、注文は?と聞くと恵は同じものでといって、マスターは静かに氷を削りウイスキーを注いで恵の前のコースターの上に置いた。
二人は静かにグラスを掲げるだけで重ねることはない。
店内はひどく静かで二人きりだった。そもそもオープン時間前であるのだから当然だろう。恵はそれでも志村と行動をしていれば、なにかを言われるかもしれないとわかっていたのであえて早く来たが志村も同じだった。
一口グラスに口をつけた志村は本題にさっそく入るように重たい声で告げる。

「境井のことだ」

恵は昼間に偶然社内で志村と顔を合わせた際に、今日の夜に話があると言われ、その後にメールで場所と時間を指定された際に、おおよそ表立って話す内容ではなく。それが仁のことであることも察していた。
志村が何故、恵に仁のことを話すかといえば、当然彼は二人が恋人であることを知っていたからだった。正月に三人で過ごした際も志村は仁が恵に向けるまなざしを心底温かな気持ちで見ていた。だがしかし、二人が現在あまりいい関係になっていないことは、今回の件の恵の様子から微かに察していた。

「解雇を視野に入れて話が進んでいる」
「それは...というより、そもそも私は何も知りませんが、何故そんなことになったんですか」

その言葉に志村は二人の関係ももちろんだが、仁の性格も考えて敢えて恵に言わなかったこともあるだろうと思った。

「もう社内では聞いていない者もいないだろうがな、西湾岸の都市開発の案件を知ってるか?」
「はい、大型案件で、私は今回関わっていませんが大きいことは伺っています。それに営業一課が担当していることも」

意匠デザイナーの恵は今回の件については関わっていないがほかのメンバーから仕事上の相談を受けて乗ったこともあり、おおまかな話だけは聞いている。とはいえ、その内容についても表面上の場所や地区にどんなものにしたいか、というだけで誰がどのように関わっているかまでは知らない。
それを聞いた志村は今回の件についての詳細を話した。
今回社内で起きた問題は、外注費の水増し、架空請求、キックバックなど、それらすべてが仁の名前となっていること。書類やメール、承認印などもすべて彼のものであり、下請け会社の鑓川技建からも仁の名前が出てしまっており。反対に仁が無実であると証明するものは何もなかった。

「でも普通に考えて、彼は主任なだけですよ?正直なところ彼の上司である課長...いえ、部長案件ではないでしょうか?」
「営業部全体に聴取したところ、メインで取り仕切るのは部長指示で境井になっていたようでな、どんな話があったのかは知らんが、部長の承認はおまけのようなものだ」
「そんなの...」

どんな話があるのかはわからないが上司、特に部長クラスに言われて断れるわけがないだろうと恵は思い口を閉ざした。だが現場に任せている志村自身はそこを強くは言えなかった。
そして今回の件についてはどのような形であれど、責任は誰かが取らなければならない、仁が黒だと志村も思ってはいないが、白だという証拠はない。本件を担当する総務部などはあくまでも事実だけを求めるだけであり、仁の敵でも味方でもない。そして社長として志村は仁に手助けすることは決してできない。周りの人間も仁に手助けすることはできない。誰しもみな事情があるのを恵はなにもいえずにカウンターテーブルを見つめる。

「それに境井は自分が責任を負うと言った」
「それを飲むんですか」
「奴が白ではないという証拠もないからな」
「彼が会社にどれだけ貢献して、彼がどれだけあなたを尊敬してるか知っているじゃありませんか!」

恵は激しく動揺して思わず声を荒げた。
しかし志村は態度を崩さないことに、彼女は相手が社長であることを思い出して謝ろうとするが、先に音を立てたのはどちらかのウイスキーのグラスの溶けた氷だった。
志村はまた一口ウイスキーを飲むとグラスは空になってしまい、もう一杯と注文した。恵より先に来ていた彼は何杯目なのかと恵は思った。まるで酔いたいのに酔えなさそうな彼。普段は日本酒を好み、洋酒は悪酔いするといっていた彼が態々この店を指定したことについても、志村なりに考えあってのことだ。

「ワシは境井の伯父である以上に、あの会社の社長だ、社員一人を贔屓するつもりはない」

それが仁ならなおのこと...といった志村の背中は小さく感じた。
恵は彼がどれだけ仁を愛しているのかを知っている。志村は仁の母方の兄であり、幼少期に母を、少年期に父を亡くした仁の悲しみに寄り添い、父親として接するようになった。
だからこそ、この厳しい判断は志村にとってどれほど苦しいことかもわかっている。それでも犯人がそれ以上いないのならば仁でいくというのは、会社にとって生贄のようで、かつて恋人や会社に裏切られた自分が重なった。

「奴がそれでいいと飲んだ以上、ワシからは何もできん、役員たちは味方をしないだろう」

まさに孤軍奮闘だと思う恵は、仁の仕事をする姿を思い浮かべた。彼がどれだけ部下や周りの人たちに信頼されているのか、どれだけクライアントや下請け会社から頼られているか。誠実で真っすぐしていて。悩む恵にもわからないなりに寄り添ってくれた。

『休みの日くらい休んだらどうだ?』

デートでも建造物をみては、インスパイアされる恵に優しく笑っていった仁に恵は職業病もあるが趣味の一環だからと照れくさくなりながらノートを取る手を止めると、仁は手を止めなくていいといった。昔はデート相手に同じことをして嫌がられたものだったが仁はそれもすべて恵の良さだといってくれる。

『真剣な表情だから、俺もずっとみていたくなる』

そういった彼にそんなに真っすぐみて言われてしまうと恥ずかしいのに嬉しいと思った。同じように彼の仕事をする表情が好きだった。真剣でどんな相手にも全力で答える彼が素敵だと思わないわけがない。
仕事をする男は素敵だというが、仁はまさにそういったタイプで、毎日皺ひとつのないスーツを着こなして、綺麗に髪を後ろに撫でつけて、けれど決して嫌味な見た目をしない。夏になればシャツの色を変えるほど汗をかいて、冬になれば指先が真っ赤になるほど寒さを味わって。誰よりも現場に立って、誰よりも相手に寄り添う。
感受性が豊かで、深夜のドキュメンタリー番組で引退馬の回をみていたとき、彼は瞳を潤ませていた。泣いているのかと思いつつティッシュを差し出すと彼は鼻声でありがとう、といったのが好きだと思った。
真面目だが頑固過ぎない、反対にその性格の割には柔軟で、いつだって人を思いやってくれる。恵についても仁は静かに怒りを抱いてくれた。自分がいれば違ったと思ってくれたのだろう。口にしない優しさが素敵な人だった。

「関係のない話だ、答えなくてもいい。仁と別れたのか」
「...はっきりとは口にしてませんが、おそらくそうですね」
「そうか、ワシは続くと思っていたんだが、恋愛とはままならんな」

恋愛なのか、男女なのか、仁と恵なのか、それはわからないが志村は初めて二人が過ごしているのをみたとき、素直にいい関係になると思えた。志村が恵を迎えに行った頃、彼女はかつての面影もないほどに暗く辛そうであったが仁と出会ってからは元の彼女に変わった。仁もまるで運命の相手をみつけたように心底恵を愛おしくみつめていた。ともに食事をした日の姿はまるで仲睦まじい夫婦のようにもみえるほどに二人の関係性はよくできていた。

「仁は昔から変わっていてな、中学高校でも浮いた話をしないものだから、恋人の一人でも作らないのかといったんだ」

余計な世話だとわかっているがいかんせん昔の考えをもつ年寄りはそんなことを平然と聞いてしまう。普通なら照れたり反抗的な声をだしたりするはずだ、または学生時代から生徒会長を務めたり文武両道にやってきた真面目な彼だから、学生の身分で...というかと思った。

「だが仁のやつは“運命の相手を待っているのです”といったんだ。幼い頃から達観した子供だと思ってた奴が、なんともおかしなことをいうと、ワシは驚いた」

懐かしむようにそういった志村の言葉を恵は静かに聞いた。本当に彼がかわいくてたまらないという気持ちが志村から感じられる。表立ってそうすることはないが、志村が仁をかわいがる理由はよくわかる。仁が志村を心から尊敬し、敬愛しているからこその返し方なのだ、仁の愛情はいつも真っすぐで、それを受ける相手はそれを返したくなってしまうのだ。もちろん、恵も。

「だが恵、お前と仁が並んで分かった。仁はお前をずっと探していたんだとな」
「そんなこと」

そういわれても素直に喜べない。きっとそうなのだとしても彼の瞳の奥をみてしまい、あの時の答えを得られなかった恵は自分に重ねた誰かを思っているのだと感じているから。だから苦しい、仁を想う分、鏡をみているように自分じゃない誰かを見ている彼の目があまりにも美しくて。
心から愛されているのに、その視線は自分ではない気がしたから、恵は怖かった。

「同じ男だからわかる、あれはあなた以外を愛せないだろう、どんなことがあったとしても、別れたとして、仁は死ぬまであなたを考えるだろう、いや...あれだと死んだ後もだろうな」

はっきりとそういった志村に恵もわかっていると思った。
だから恵は仁のために何かをしたいと思い、志村に今回の件についての資料を個人的にくださいと頼んだ。恋人ではなく会社の仲間として彼に救われたこともあったから、返せる恩を返したいというのが恵の“言い訳”でもある。
ちょうど店に客が入ってくる、志村のような老齢の客人はマスターに挨拶をして、店内は少しずつ騒がしくなり、志村はこうなる気がしていたと思い用意していた紙資料を恵に差し出すと、彼女は軽く見た後、すぐにカバンに仕舞うと残ったドリンクを飲み干して、立ち上がりコートとカバンを手に持つ。

「境井さんは志村建設に欠かせない方です。だから何を言われても私は動きます、止めないでください」
「...止める理由があるような言い方だな、ワシは今回の件を他に任せてある、判断はあくまでも彼らだ」
「そうですか、ではご馳走様でした志村さん」

そういって出ていこうとする彼女に志村は思わず「恵」と仁の恋人として呼ぶように声をかけると彼女は振り返った。
彼女は覚悟を決めたように微笑んでいた、それはまるで戦国時代や古来の武士の妻のような強さのある表情だ。夫のためならば共に戦地に赴き、共に死ぬことができるというようなその勇ましさ。
何も言わずにそのまま店を出ていくのを見て志村は小さく口元を緩めてマスターにもう一杯と頼むと、明日も仕事でしょうといって断られる。志村は誰も酔わせてくれないかと苦笑いするも心地よい気持ちだった。仁が選んだ女に間違いはないから。


外にでるとすっかりと暗くなり、夜の街の顔をしている中で、恵は息を吐くと白い息が空に消えていく。カバンの中の資料は少しだけ重たかったが彼女は気にせずにカバンを持ち直して足を進める。
頭の中では仁の顔が浮かんだ、知っているはずなのに知らない仁が浮かんだ、何百年も前のような光景で、彼は武士のようなのにどこかおどろおどろしい黒い服を着て、顔を隠すように面をつけていた。

『これでいい』

まるですべての罪を受け入れて背を向けて歩いていこうとした彼を絶対に一人にはしないと恵は感じた。
そんなわけがないのに、時々それが浮かんで消える。恵はまるで今の仁のようだと感じてはそんなことはさせない、一人で罪を被り苦しむことの痛みを彼女は知っているから。恋人としてなんて簡単な言葉では言い表せない感情を抱きながら彼女は足早に歩いた、きっと今も仁は一人でその罪を背負っているから。