第六話


恵が動いている間、社内が動いているのは重々承知していた。
しかし恵は未だに表に動けないと思っていた頃、役員会議に再度呼ばれた仁に進展が起きた。

恵は偶然十一階で休憩を取っていた人事部部長、安達晴信をみつけるなり血相を変えて近付いては声をかけた。以前より恵との直接的なやり取りは少ないものの彼女を知っていた安達は突然のことに驚くものの、その血相から重要な話だと理解して人に聞かれにくいようにと食堂ではなく、廊下の奥の自販機前の休憩所に行こうといった。

「それで境井主任が解雇だって本気ですか?」
「その話か...まぁ正式にはまだだ」
「どういうことですか、安達部長も今回の件をご存じでしょう」

二人が恋仲であることや、以前から息子の繁成より恵が動いているということは聞いていたため、こうなることは大方予想通りだった。安達も今回の会議という名の判決を言い渡すようなあの場に同席していた。
その中で決まったことは彼がしばらく出社禁止であること、そしてその間に判断を決めるというのだが、社長の承認待ちの末に解雇になるという話だった。解雇を取り消すことは現段階では出来ず、社長自身の最後の抵抗をしている状態だが、長くとも一週間が限界だろうと安達は言った。

「それで皆さんはよろしいんですか」

恵が動揺する理由はわかる。安達自身仁がこのような形で失われることなど望んでいない。それは安達だけでなく社長を筆頭に役員のほとんどもそうだ。だがしかし、会社には世間体がある。責任を取らせなければならない。そしてそれを受け入れるといった仁を拒絶できるわけがない。

「狭間さん、君の気持ちもわかるが、ここは会社だ」

その返事に彼女はなにも言い返せは出来ない。彼女も愚かではないため、その必要性は十分理解している。それなら恵は動くだけのことだと思い、安達におおよその期日を聞けば一週間だといわれ、彼女は十分だと思いその場を後にした、安達はその背中を見届けながら不甲斐なさを悔やんだ。自分や息子を𠮟りつけた妻、雅子を思い出す。女性はいつだって強いと思いながら顔を伏せた。

恵はその日、珍しくフリルのブラウスに短いタイトスカートと薄い黒いストッキングを履いていた。足を長く見せるためにハイヒールを履いて髪を軽く巻いた姿は普段とは違うがそれでよかった。クライアントの会議があり、相手が少し癖の強い相手だと適当な嘘をつけば全員がそういう相手もいると同情をしてくれた。
そのまま五階の営業部長のオフィスに足を運んで恵は控えめにノックした、相手は恵をみると意外そうにしつつも入室を許可するため、彼女はすぐに入ってタブレットを片手に近づくだけで相手の視線に気づく。シャツのボタンを軽く開けており、恵はなにも気にしたふりをせずにデスクに近づいて、少しだけ前かがみに資料を渡した。

「それで狭間くんが珍しいな、どうしたんだ?」
「新しい案件で悩みがありまして、営業部長の案件でしたので直接ご指導をいただきたくて」
「ん?あぁ...ええと、これか、うーんそうだな、よかったらしっかり打ち合わせをしたいから、どうだ?今晩食事でもしながら」

恵は予想通りだと思った。
噂通りの女好きのスケベ親父と内心悪態をつく。しかしこれが出来るのも仁がいない今だからだ。もし彼が出社しているのならこの手は絶対に使えないぞと恵は自分でもやり方が悪いのを理解しつつ、二つ返事をして部長のオフィスからでると、別の営業の女性が恵を見ていた。物言いたげであるが彼女は何を言われてもいいと思った。仮にこの後彼女が部長を誘惑した、そういう関係だったといわれても恐れることはない、仁がどこでも生きていけるように、恵もどこでも生きていけるのだ。

仕事を終えて十九時頃、恵は会社から徒歩十五分ほどの店の前でメールを確認した。店は相手が選んでくれたもので、個室居酒屋で価格帯はお世辞にも低いとはいえないもので、気さくに来るような店でもない。時間を見ても恵は仕方ないとあきらめをつけて仕方なく入店した。
相手の名前を告げると店内の一番奥の席に案内されるが、既に相手は座っており、恵は向かいに座ろうと思うものの、既に箸や皿のセットは相手の隣になっており。拒絶することはできないと内心考えて隣に座り、適当にビールを頼むとすぐに注文が通り、二人はグラスを重ねた。

「それにしても狭間さんから相談があるだなんて、とても光栄だよ、君の噂は部下からも聞いていたんだがね...」

よく回る舌だと思って付き合っていたものの料理も揃ってしまい、相手の手が恵の足を撫でた。まるで女を女としか見ないその顔に彼女は根っからのタイプだと感じつつも本題に切り替えた。

「私が本当に話したかったことは、境井主任についてです、今回の件、すべて部長がしたことですよね?」
「何の話だ?境井君のことは彼自身の責任だ、全く社長の甥で優秀だと思っていたのにとんでもないことをやらかされて私も困ってるんだよ」
「そういうのは結構ですよ、書類の原本から部下へのメール指示などこの通りございますので」

恵は相手の手を払いのけてカバンから資料をいくつか取り出す。役員会議などでも出されたものももちろんあるが、それが本来部長名義であったことなど、正直なところ叩けば出てくる量が多すぎて恵も困ったものだった。
黙り込む相手だったが、恵が望むことは一つだと思い伝えようとするが、相手は笑って、恵の足にもう一度手を置いてその身を寄せて下世話に笑う、スカートの中に手を入れようとするギリギリの手に恵は静かに抵抗をした。

「それらをいまさら提出してどうなる?もう役員会議で彼が懲戒解雇になるのは確定だ、まぁ私が口利きをすればそれも変わるだろうが恵さん次第なんじゃないか?」

恵はそう来ることも想定していた。この男がしていたことはいくつも証拠をもっており、恵は思わずさらに追加の証拠の一部として写真をテーブルに置くと相手の顔色がわずかに変わる。
そこには女性とホテルに入る部長の姿や、行為中の姿などを態々撮った写真であり、恵はそれを見た時には多少の吐き気がした。人の欲とはなんと気持ち悪いのかと。というよりも会社のパソコンで管理をしているこの男の管理体制も疑うが、写真は一枚ではなく数枚で、そのどれもが違う女性で、一部には会社の部下もいたが恵はそのうちの一枚を突き付ける様に彼に見せた。

「このお写真、今回のクライアントの役員の奥様ですよね?それも議員クラス...おまけにこの奥様の旦那様と今回の西湾岸都市開発の水増しのお金などを裏でやり取りされたりしていましたよね?」
「...ど、どこでこれを」
「あなたが部下を使って境井さんにしようとしたことをしたまでです、自分はされないとでも思いましたか?」

汚い人ですよね、と恵はいうが相手はすぐに写真を引き裂いて、こんなものは捏造で嘘であり、話した内容も裏付けるものなどなにもないと反論をするが、恵は事実ですべて証拠は揃ってあるとUSBをみせた。それはあの晩に部長のパソコンのコピーを取っただけではなく、営業部の安達繁成や一課のメンバーの一部に頼み手助けしてもらったもので、パソコンでスマホを充電する部長の情報も抜き取ったため、パソコン以外のデータもすべてあるのだと彼女は告げた。
こんなことは許されないぞと部長は苦し紛れにそういったが恵は無表情で相手を見た。

「あなたもじゃありませんか、これがすべて流れたら困るのは部長です、私はただ今回の件を認めて、境井主任ではなく部長がしたのだと認めてほしいだけなんです」

懲戒解雇で済むだけならまだいいでしょうと恵はいうが、結果的に部長は破滅の道しか残されていない。クライアントも関係しているとなれば相手に訴えられることはもちろん、相手の会社もさらに巻き込む羽目となる。関わりもなく何もしなかったはずの人間が何故ここまでするのだと部長は思ったが恵はただ返事を待つが、逆上した相手は恵を勢いよく押し倒すなり、その手のUSBを奪い遠くに投げつけたが恵は表情を変えない。

「コピーはまだ私の自宅PCにもあります、パスワードもありますし下手に手を入れたとしてもすぐにウィルスが入るように設置してますのでご安心ください」

態々本物を持ってきませんよとあきれたようにいう恵はいうが内心は怖かった。部長は恵よりも巨漢で彼女を押し倒している力も強かった。手首は痛く殴られたらどうしようかとも思った。それでも仁のことを思えば平気だと思った。彼は今きっと一人なのだから、その痛みに比べればずっとマシだと思うが、相手は恵の胸を乱暴につかんだ。

「志村社長の愛人の分際でなんだよ!社長に取り入るために甥にまで手を出したんだろ?そうじゃなきゃこんなことするはずがない、お前の噂も知ってるんだぞ、前の会社で上司と不倫してたんだろ??えぇ?大層なこといってもお前は自分の地位が欲しいから男に股を開く女なんだよ!」
「ッッ社長も仁さんもそんな人じゃない!!」
「あっちの会社の人間にいってたぞ?ベッドじゃマグロなんだって?」

ブラウスのボタンが千切れた音が聞こえた、恵は次第に声もできなかった、真実でもない噂に踊らされたこの男に自分を侮辱されることに今更傷つきたくもないのに胸が痛んだ。実際に傷心中の彼女に言い寄る会社の人間はいなくなかった。甘い言葉を吐いて無理やりに女に仕立てようとする存在。
だからこそ、正反対に自分を割れ物のように扱う仁に不安もありつつも安心感を抱いた。抱かない代わりに抱きしめてほしいと強請ったとき、彼は静かな夜の中で「それなら」といって抱きしめてくれた温もりが心地よかった。重なる心臓の音も、近い呼吸も、閉じた瞼も、すべて好きだと心から思ったのだ。

「言いすぎだ」

そういって引き離したのは丶蔵だった。
丶蔵はドアを開けるなり部屋に入ってきて恵を自分の後ろにかばってやり、その姿を見るなりすぐに自分の上着を渡した。仕事をしていたのか漁師の作業着のままで、ジャケットは潮の香りがしみ込んでいる。
狼狽える相手に恵は今日のことについてはボイスレコーダーもカメラもあるため、一部始終はすべて証拠になっていると告げた。そして丶蔵が来たことや先ほどの恐怖が次第に身に染みると彼女は思わず涙をぼろぼろとこぼして声を荒げる。

「仁さんが社長の甥だからってあなたになにをしたの!彼はあなたの罪だと知っても周りを考えて罪を受けようとした、そんな誠実な人に何故そんな真似ができるの!弱い人を守ろうとする人を苦しめるあなた方はずっと最低のクズ野郎よ!!」

涙が止まらないように恵の罵倒も止まらなかった、仁と志村、両方を侮辱された恨みも、かつての守れなかった自分のこと、すべてが重なって押し込んでいた感情が溢れた。狡く醜く最低な人間だという恵をみて丶蔵はもういいからと彼女の荷物をまとめてドアを開けて廊下に行き、唖然とする相手を見つめた。

「俺は何も知らないがな、もしあんたが恵を邪魔したり傷つけるってんなら俺は手段は選ばない」

海賊の血が入ってるんだ生憎と優しくもなけりゃ慈悲もない。
そういってドアを閉めた丶蔵は泣き続ける彼女を店前に止めた車に早く乗るようにいった。いくら何でも泣いた女を連れ歩くのは丶蔵も忍びない。
ぐずぐずと泣いている彼女に丶蔵は遅れて悪かったと謝罪をした、夕方の便で仁から頼まれて対馬まで船で送っていたんだというと彼女はいいんだと返事をして、助手席で膝を抱えて泣いており、丶蔵はティッシュ箱を差し出すと鼻をかむ音が響く。

「それで決めたのか」
「はい」

覚悟を決めた恵に本当に優しい女だと思った。
丶蔵が恵に連絡をもらったのは証拠を突き付ける前に部長に自白してもらうためだった。その方がずっと仁もすっきりとしてくれると思ったのがそれは意味を為さなかった。それならもう相手の人生も何もかも気にする必要はないと判断をした。それでも選択肢を与える彼女の優しさに呆れつつ丶蔵はシートベルトを締める様に告げると彼女は静かに閉めなおす。
たまには焼肉でもいこうと丶蔵がいうと恵は「奢りですか?」というため、丶蔵は店でただ飯食ってるやつが...と思いつつ、ちょうど給料日後でお小遣いを支給されていたため、呆れつつ安いが旨い店に向けて車を走らせた。