第八話


三月終わり頃の朝は薄暗く空気も冷たいが恵は嫌いではなかった。卒業式は過ぎて新年度に向けて用意をする時期で、誰しもみなどこか期待と不安に満ちるような時期で、恵はその中で不安だけがあった。
朝早くに起床した彼女は昨日も結局遅くなってしまったと思いつつも今日ばかりはぐだぐだしていられないと寝ぼけ眼で目を覚ますためにシャワーを浴びた。四十二度に設定したお湯は熱いが目覚ましにはちょうどよい心地よさで顔からシャワーのお湯を浴びると生き返る。昨日触れられた手首や胸の感触は今も残っており恵は少しだけ自分の身体を抱きしめた。
――怖かった。
女性であるからと自分の特権のようなものを利用したものの、それでも触れられることに恐怖しないわけでもなかった、ギラギラとした相手の目も、自分を非難した時の声も、すべてを流せるほど強くもない。目的がなければきっと動けもしなかったと恵は思いつつ鏡で自分の顔を見た。

「メイクでどうにかなるのかな」

瞼の腫れがまだ少し残っている。昨日すぐに冷ませばよかったと思いつつも結局丶蔵に連れられた個人経営の焼き肉屋でしこたま飲んで泣いたことを思い出して、漁師をしている丶蔵は朝というよりも深夜帯に仕事をすることもしっており、多大な迷惑をかけたかもしれないと謝罪の連絡でもしようと思ったが、シャワーを終えてリビングに置いていたスマホをみると既に朝の四時ごろには丶蔵から気にしないようにと連絡を受けており苦笑いした。

洗濯物を回そうかと思ったが一番上に置いてあったボタンの外れたブラウスに恵は表情を曇らせる。そして手に取るとちょうどごみの日であることを思い出して、地域指定のごみ袋の中に他のごみと一緒にいれるとくくってしまう。
スーツを着て髪の毛をしっかりとまとめてメイクを薄く施すと少しは顔色もマシに見える。自身の個人用のパソコンを開いて中身を確認して、紙にコピーした書類とUSBなどをすべて一つのファイルケースにまとめていれる。万が一水濡れがあってもケースであれば問題ないという念のためのものだ。時刻は八時頃、恵は出社時間だと思い、ごみ袋を手にして家を出た。

その日はどこか清々しいほど心地よい春の日だった。
ほんの少しの肌寒さはありつつも、身を竦ませるほどではない。今年は桜の開花時期が入学シーズンに合わせられそうなのか、駅までの道で見かける桜は少しずつ花開こうとしており。恵は綺麗だと思いつつ花見をしたいと思った。できれば仁と。
そうして考えて電車に乗って五駅、三十分ほどで志村建設ビルに到着した恵は九時前で人はまばらであるが、エレベーターに乗り込むと九階ではなく三階を押した。
エレベーター内には恵だけで、カバンを握る手に力がこもる。本当にこれでどうにかなるのだろうか、どうにかするためにここまでしているんだという自問自答。
頭の中で考える間にエレベーターはものの一分ほどで到着してしまい、恵はフロアの最深部にある社長室のドアの前に立っていた。
彼女は結局ここに行きつくのだと自分でも感じていた。どれだけ権力がといっても敵わないものもあるのだ。しかしその反面必要な人間を使うことは正しいことでもあると正当性を理解してドアをノックした。小さな声と共にドアを開けると志村はすでに出社しており、部屋の中の盆栽の手入れをしていた。

「朝早く申し訳ございません志村社長、狭間です」
「狭間くんか、どうした」
「境井さんの件で話をしにまいりました」
「あの件にワシは関与しておらん」
「ですが最終判断は社長ですよね」

懲戒解雇の判を押すのも。と恵がいうと志村は深い息を吐いて恵を向いて「そうだな」と返事をして話し合おうといってソファに案内した。室内はどこにでもある社長室だが、飾られた前任の社長や、志村の趣味が微かに混ざっているが、その中に幼い少年と若い志村の写真があった。身なりや顔立ちからして幼い仁のように見えたが恵は見ぬふりをしてコーヒーについて声をかけられるが断った。
今回の件について志村から話を聞いた後、いろいろと自分なりに調べた上に様々な証言や証拠を得てきたと告げて、カバンの中からファイルケースとパソコンを取り出し志村に見せる。

「...つまり営業部長の仕業だと裏付けるものを用意したのか」
「皆さんお分かりだったかと思われます。しかし境井さんが本件の責任を負うといった以上、それを受け入れるというのが上層部の回答だったかと思われます」
「そうだな、その方向で進んでいる」
「拝見頂いているように営業部長に関しましては本件以外の水増しやキックバックに着服をしています、それを裏付ける音声やメールデータもすべてあります」

志村は黙り込んでしまう。ハナから営業部長だということはわかっているがそれでも仁が責任を負うといった以上それを受け入れる気で、彼も言い訳も反論も何もしていなかったのを役員会議の際に別室で毎度みていた志村も知っていた。
それでも言葉を閉ざす志村に恵は写真データを出した。

「こちらは部下の女性へのセクハラのメールや証拠写真、こちらはクライアントの奥様とホテルに入られている写真...営業部長は既婚者でしたよね?それに私も昨日このような事態になりました」

それは恵が昨日居酒屋で営業部長に襲われたときの動画だった。音声は消しているが明らかに恵は抵抗しており、営業部長は彼女を押し倒して胸を掴んでいた。みせることにいい気はしないが写真をみせたとしても“抵抗しているようにみえない”と言いがかりめいたものを言われてしまえば溜まったものではないため恵は恥も何もかもを捨てた。そもそも彼女には恥じらいはない。ここで引くほうがずっと情けないと自分に思った。

「本件を黙るようでしたら私個人として民事訴訟を考えています、その際には会社の名前も出しますし、ここの写真にいる女性たちの名前も写真も提出いたします」
「恵、それはさすがに...」
「志村社長、私は引きません、負ける気もないです。皆さんが境井さんを解雇なさるというのなら、私はもっと色々なものを持ち寄ります、生憎部長はこれだけに済まないことをしてらっしゃいます」

こんなものは一部で会社が訴えられて倒産する恐れもあるような相手との取引もしているのだと恵ははっきりと告げた。志村とて不正を黙りたいわけではない。だが仁の思いも、社長としての考えも、会社としてのやり方もある。しかし恵にはそんなことは関係ない。

「本当に守らねばならぬものを違えないでください」

お願いしますと静かにいう恵のしていることは決して褒められたものではないと志村もわかっているが頭を深々と下げる恵をみて責められるわけもない。自分が本当に守らねばならぬものはわかっている。証拠がないからと動かなかったがここまで揃っていれば動けないわけもないと志村もはっきり理解していた。

「頭を上げなさい狭間くん」
「お言葉を聞くまでは」

困ったと志村は苦笑いした、本当に仁と恵は似ている、頑固者で真っすぐしていて、一度守ると決めたらそのためならどんなことでもして見せる。こんな若者をこの時代にみられると思う反面、志村はどこか懐かしいものを見ている気がした。
妹の夫――境井正とも長い付き合いのある男であった。
志村同様に昔ながらの考えをもつ固い男で、志村の妹と夫婦となったが、その関係によく似ていた、二人とも支え合い強く生きていた。志村は独身であったが、もし理想の夫婦というのならばあの二人だと思った。そしてその二人のような仁と恵を良い関係だと感じた。

「頭を上げてくれ、でなければ言えんだろう」

顔を伏せた相手に言えるような人間でもないのだと志村がいうと、恵の顔が上がる不安と迷いを抱いたその瞳に志村は完敗だといった。どんなことをして彼女がその情報を手にしたかなどはこの際気にはしない、人は誰しもみな真っすぐには生きられない。どの形であれその心に誉を抱くのならばそれでいいと彼は受け入れた。

「これだけの証拠があれば十分、仁の疑いは晴らせられるだろう」
「じゃあ、境井さんは懲戒解雇じゃなくなりますか?」
「そうだ、それで一つ頼みがある」

なんだってしますと声を上げた恵は会社のビルを飛び出した。
仁は今対馬で休んでいるから直接伝えに行ってほしいと頼まれたのだ。
恵はすぐに行こうと思いつつ、あまり持ち歩くのもよくないものばかりがカバンにあるため、一度家に置きに行こうと思いつつ向かうとゆなと顔を合わせた。
仁と別れてから居酒屋小茂田にもあまり行けていないが、ゆなは特に気にしなかった。仁の噂は聞いているといった彼女に疑いが晴れたので迎えに行くのだと告げた。

「これあいつに渡されたんだよ」

ゆなに少し店に寄ってほしいと言われて昼間の居酒屋小茂田にいくと、ゆなに手渡されたのはあの日仁に渡された白いカシミアのマフラーだった。恵が一度しかつけていなかったあのマフラー。仁は自宅に置いておくのがつらいからとゆなに託したのだという。その言葉だけでも彼女は胸が苦しくなる。仁を苦しめたのは自分だと感じた。

「ちゃんと迎えに行ってやりな」

その言葉に恵はタクシーで自宅に帰るとスーツを脱ぎ捨ててクローゼットを開いた、マフラーに合う格好をしよう、春らしくて彼を迎えに行くのに適した格好をと思い次々と服をだしてあぁでもないこうでもないと言いつつ合わせていく。

「うん...これだ」

鏡の前で自分を見返しては恵は仁は何か思ってくれるだろうかと思った。
ナチュラルホワイトのラフなトップスに、アイボリーカラーの落ち着いたワイドパンツ、差し色としての柔らかい水色のコート、自然豊かな対馬の歩きやすさを考えたオフホワイトにブラウンが少し入ったヒールのないショートブーツ。引き締めるような黒い小さめのショルダーバッグを持ち、メイクも直して、髪も巻いてしまい、これではデートに行くようだと思いつつも、隠しようのない乙女心があった。仁に少しは何かを思ってほしいというひそかな想い。
電車を乗り継いで魚市場に辿り着くと恵は伺うように顔を見せると、彼女に気付いたのは丶蔵ですぐに近づいてくるなり船を案内してくれる。

「遠かっただろ仕事だったから悪かったな」
「いえ、私こそ突然すみません」
「構わねぇよ、それより仁を迎えに行くのか」
「はい」

船の用意をする丶蔵が恵をみつめるため、彼女はどこか変だろうかと不安になるが丶蔵は笑って親指を立てた「その恰好ならあいつもイチコロだ」といった。恵は笑い返して船に乗せてもらうとエンジン音が大きくなって船は進む。
丶蔵の船の名前は彼の子供の名前がついている。漁師が自分の船に家族の名前を入れるのはご利益や帰ってこれることを祈るためのものであると恵は知っている。誰かの帰る場所になるというのは羨ましいとさえ思って恵もいつかそうなれる人間になりたいと思いつつ、春の暖かい海風を感じて目を細めた。
対馬が見えている、自然豊かな愛おしい島、生まれ育った場所のはずなのになぜか少しだけ寂しさと懐かしさを感じる島だ。仁はそこで何を思うのだろうかと考える彼女は白いマフラーに顔を埋めるとほんの少しだけ仁の香りがした。
抱きしめられたい、ただ彼に触れたいと思う恵はもう仁以外を想うことなどは出来なかった。