第一話
朝になる前に丶蔵に船を出してもらい、早朝――地元対馬に戻ってきた仁はそのまま真っすぐと実家である青海へと向かった。船着き場すぐのバスに乗って静かに揺られる彼はただ何も考えずに島に身を預けた。
仁の知る青海は昔から小さな村ではあった。しかし数百年もの時を経たいまも変わらず小さな村であり、仁の知る青海とは違うと感じつつも好ましい場所だった。三十戸もなく村民も百三十人ほどの村で名物となるのは端正につくりこまれたその段々畑だ。仁がいた頃にはなかったもののどこかの段階でかつての境井ではない武家領となり、手入れがされたのだろう。
それでも変わらぬ場所もあり、仁はバスに揺られて一時間、到着した青海の静かな場所を歩いた。朝方でも畑仕事に精を出す村人は仁をみるなり明るく挨拶をしてくれる。昔から民は変わらず真面目でよい人々ばかりで、仁は村の一番奥にある一番大きく立派な昔ながらの自宅の門をくぐった。ヒバの木を使った表札には境井と記載されており。設置されてから雨風を受けて長年耐えた姿には味があった。
行き届いた庭からじっくりと眺めていると足音が聞こえ、仁が振り向くとそこには老齢の女性が一人いた。今世でも会えるとは思いもよらなかった自身の乳母――百合だった。
「お坊ちゃまお戻りになられたのですね」
「百合、久しぶりだな」
「このような時期に戻られるとは、朝ご飯は?」
「頂けるだろうか」
仁の前世からして境井家はこの島から名を抜けたはずだが、数代前に戻ってきており、その後志村家と交友を深め、仕事をするようになった。仁の父である正は志村建設の元役員でもあったがそれを知る者は役員以外にはいないほどで。仁は縁とは深く難しいものだと感じつつ自宅に上がり居間で待っていた。
老齢の百合は同じく自宅の庭師として雇った若者太一と二人でこの自宅を見てくれているが、年老いた彼女ではつらいこともあるだろうと数年前に自宅を大きく改装し、外装は和装だが、中身は和洋入り混じる部屋となり、百合は当初不慣れでもあったが慣れてしまうとすっかりと気に入ってくれたようであり仁は喜ばしいものだった。
あの頃の名残は今の家にはないが寂しさは不思議となかった。
時代というのは流れ進化する。それでも変わらぬものもあるのだと自分の運命や恵との出会いなどを思う。朝食を百合と共にして軽く村の人間に挨拶をして、畑仕事を手伝った午前を終えると仁は家の裏の傍の鳥居を過ぎて山に入っていく。昔から変わらぬ場所として青海の人たちの墓となった、その場所、そこには境井の墓があった。最奥の広々とした場所に変わらずにある墓石。
あの頃にあったものとはまた違う墓には父と母や祖父母などが眠っているもので、いつきても丁寧に管理され美しかった。春風が仁の頬を撫でる。寂しそうな風だと感じつつしっかりと自分で墓を磨いた、一時間以上綺麗に掃除して、線香を焚いて頭を下げた。何をいうわけでもないが今世も同じこととなったと感じた。
白桜が足元に舞い落ちるのをみて顔を上げるとあの頃と変わらぬ白桜が仁の上を覆いつくした。あれは紅葉の美しい季節だったと仁は歩いた。広々とした海辺に出ると仁はあの頃、志村と過ごした日々を思い出す。
刀の稽古をつけて武士とはなにかを教えてくれた志村、彼から完全に離れることを決意した時だ。死ぬことから逃げたのは恵が告げたからだ。
『例えなにがあろうと死を選ばないでくださいませ、あなたが死を選ぶのでしたら私も連れて行ってくださいませ』
仁に恵は殺せなかった。どれだけ望まれてもそれだけは出来ない。自分に背き続けてもなお愛した女だけにはそれが出来ず、仁は対馬から抜けることで全てを終えたのだ。思わず座っていると何かが仁の服を引っ張った。何かと思い振り返ると野生の狐がそこにいた。今どきは珍しいと思いつつも狐は仁となにかとなじみ深い生き物で、仁は立ち上がると狐はどこかへ案内するように仁を招く。
狐の巣だろうか、懐かしいと思いつつ追いかけていくと、そこは青海も、対馬も一望できる場所だった。それははるか昔に恵と共に過ごした場所だった。小さな祠と温泉があったはずだが、それはもう無くなっている。それでも変わらぬ景色があり、白桜が青海を埋める様に咲いている。
『もし私が私で亡くなったとしても愛してくださいますか』
『当たり前だ、お前がお前でなくなることはない、お前が人でも獣でも必ずやみつけ愛するだろう』
当たり前のことを語り約束した。
もし来世というものがあり、その時に彼女が男でも女でも老人でも子供でも愛せる、人でなくてもいい、獣でもモノでもまたは自然でもよい。彼女が彼女であれば仁は愛すると感じた。
けれどもそれが彼女を傷つけたのだろうかと感じた、ステンドグラスに照らされたあの日の喫茶店の彼女の表情は諦めと悟りだ。それは仁の胸に残っており追いかけられなかった。
愛しているのにそれだけではだめなことくらいわかっていたというのに仁はうまく彼女に接することができなかったのだ。惚れた女を泣かせるなど男としてあるまじき行為で、あの時いくらでも何かをいえた、恵もきっと一言いえばどんな意味でも少しは安心できただろうに、そうさせられなかった仁の落ち度だと彼は自分を責めても意味などない。
自分のために走る彼女のことを聞いた時、仁は心から嬉しかった、彼女はいつだって変わらないのだと感じたから。それと同時に自分と出会ったことを後悔した。求めるだけならよかったのに出会った以上は抑えられない感情を出してしまったのだ。
抱きしめて眠ったとき、彼女の温もりは変わらず、愛おしいものだった。
気付くと日は暮れて暗くなっており、仁は遅くなりすぎると山道は危険だと思い自宅へと戻った、過去は過去だと洗い流す必要があるだろうと言い聞かせ、彼は百合と二人、夕食を取った。
採れたての野菜と先日もらったイノシシ肉で鍋をして、二人で囲む頃、百合は良い相手ができたのかと問いかけた。恵と付き合ってすぐに一度一人で戻ってきた際には聞かれなかった言葉に仁は驚きつつも「...一時だ」と話すと百合は以前、お盆に来た時に既にそうだったがなにもいわなかったがあの頃からかというため、やはり目ざといなと苦笑いをした。
「お坊ちゃまは昔からご決心の強いお方でございましたから、百合は心配でした」
「結婚をしないと?それは悪いことをしたな」
「今どきは...といいますが、やはり老婆心でしょうな。盆に帰省したお坊ちゃまのお姿は今までにないほど生き生きしておりましたゆえ、あぁ本当に運命のお相手をみつけたのだとわかりました。」
今どきそんなことをと笑われてしまいそうなもので、百合自身も申し訳ないがそう思っていたという。素直な意見に仁は当たり前だと笑って返事をする。どんな相手かもわからないが運命の相手以外受け入れないと百合に宣言をした仁に彼女は亡き父、正になにを言えばいいのかと悩んだ。仁の幼少期に病死した母親、残った父正は厳しい考えの者であり。仁の言葉を聞いていればきっと頬を打つくらいはしたかもしれない。
『男がなにを甘えたことを抜かすか!』
運命や天命など馬鹿馬鹿しいといったかもしれない。仁も現実主義者だが正もだ。自分の息子が運命などという妄言を吐けばあの男はきっと許さなかっただろうが、それを言い始めたのは父を亡くしたあとだった。
「昔一度お伺いしましたね。運命のその相手はどのような方かと」
「ああそうだな」
「あまりにも具体的で本当にその相手がいるのかとその時思いました」
それが見た目だけの話であればまだ理想論だといえた。しかしそれを聞いたのは仁が高校生の頃であり。彼は相手のことを話した。見た目はどうなのかはわからないが中身ははっきりしていた、真っすぐと誠実で決して弱気を見捨てない人、共に生きると決めれば最後まで添い遂げ、その道が修羅だとしても手を取り隣を歩いてくれる存在。それは仁自身のようにも感じた。
現代社会にそんな人間がいるのだろうかと百合は思った、自分の頃と違い今の若者は貧弱で甘えがちな人間だ。その上、人は他人のために人生を捨てることなど滅多にない。今どき夫婦だとしてもそうだ。百合達の世代であれば離婚など言語道断といえるが、現代社会は五組に一組は離婚しているというほどで、それがどうかというわけではないが、運命の相手を待っている仁の理想が高いのではないのかと思った。
「俺はきっと彼女をみつけたら、死ぬまで傍にいたい...いや、死してなお共にいたいと願うだろう」
顔も名前もわからない運命の相手を望む仁の言葉はやけに真剣で、本当にその相手と一度出会い探しているようにも感じられた。百合はかなわぬ恋をした。それは仁の父、正に向けて。
だからこそ、仁の愛情を守りたいと思った。それでもうまくいかないことはあると理解しているが、仁をよく知る百合だからこそ、きっとまたその運命の相手とは縁が繋ぎ合わさるだろうといった。何故なら運命とはそういうものだからだ。
百合の言葉はいつも重たく心地よいと仁は夕食を楽しんだのちに湯舟に浸かった。
風呂を好む仁は自宅とは違うヒノキ風呂はその香りと温もりが心地よく、気軽に温泉に行けないがそれでも雰囲気を味わうには十分で仁は実家に帰ってくる大きな要因だと感じている間にのぼせそうになる頃、百合に声をかけられて上がるなり手慣れたように浴衣を着付けて自室に戻る。
和室である仁の部屋の中は既に布団を敷かれており、仁は窓際に腰かけて小さく窓をあけて夜風を浴びた。疲れがどっと流れていくように感じられると思っていれば、襖が小さく叩かれた。
「坊ちゃま、狭間様とおっしゃられるお客様が来ております」
「...恵が?」
「お話があると」
「通してくれていい、俺も下に行こう」
百合の声に仁は目を丸くして百合の後を続くように階段を降りると、玄関先には恵がいた。白いカシミアの、あの日渡したマフラーを巻いた彼女はまるで共に出かける約束をしていたようなめかしこんだ格好であり。仁は玄関の時計を見ると時刻は既に二十二時であり、彼女も申し訳なさそうな顔をしていたが百合は優しく招くと仁は居間の隣の客室に案内をしてやり、百合は夕食はと恵に聞くが食べてきたと返事をするため、そのままお茶の用意をするといって百合は去ってしまう。
「夜分遅く申し訳ございません、思ったよりも遅くなってしまいまして」
「構わん、それよりよくわかったな」
「志村さんに教えていただいておりましたので」
「そうか...」
恵は薄水色のコートを脱ぐのをみては仁は白で統一されたコーデに水色の差し色は良く似合うと思った。特にコートは対馬の海や空のように心地よい色味で、仁がじっと眺めている間にマフラーやコートを小さく畳むため、仁は皺になるとよくないからと受け取りハンガーに掛けてやった。
客間である和室は小さなテーブルと椅子のみだった。恵がここに来るとは思わず動揺はしたものの、百合が二人の静かな空間に茶菓子を持ち寄り、すぐに去ったのを機に仁は来た理由を問いかけた。なにもなく来ることはないだろうと思ったが恵は本来玄関でもよかったのだがといいつつも緊張した面持ちで話す。
「懲戒解雇の件について取り消しになりました」
「どういうことだ」
「営業部長が境井さんの名前を騙っていたことが無事に認められました、今回の件で巻き込まれる形となった鑓川技建につきましても証言をいただきましたが、鑓川技建に関しましては被害者ですので、志村建設としまして一度予算など計画書の見直しはありますがそのまま鑓川技建さんに今後もお願いする形になるそうです」
「...つまり、鑓川技建はそのまま続けられるんだな」
「はい、今回の件で巻き込まれていた境井さんや一課の皆さんに関しては部長への聴取があるかもしれませんが、そこは素直に話してもらいたいです」
仁が一番懸念していた点を恵はしっかりと伝えてやり、今回は営業部長が全責任を負うことになり、結果的に彼は懲戒解雇になる可能性は高いといった。それがないにしても社内でのハラスメント行為なども散見されたことや、謁見行為も見受けられており。志村建設が問題を訴えずともそのうちにすぐに営業部長が訴えられる可能性が高いことを恵は説明した。
仁はわかっていたことが動けなかった状態だったはずがここまで動いているとは思わず驚いた。そしてそれをするために恵がどんなことをしたのだろうかと考える間に、彼女は椅子から離れて床に手をついて頭を下げた。
「今回の件に関しまして出過ぎた真似であることは重々承知しています。境井さんのお気持ちもある中でこのようなことをしたことにつきましてお詫び申し上げます」
「やめてくれ、俺のためにしてくれたのだろう、怒る理由がない」
「ですが、境井さんは全てをわかっていて受け入れようとされたんですよね」
恵は顔を上げるが仁にそう告げる。その通りだった。自分一人で済むならそれでいい、営業部長についてどのような形でも取ることは出来たが、もう二度と志村を幻滅させたくはなかった。卑怯者だといわれるくらいなら自分が悪役でいいのだと彼は思っていたが恵はそれを受け入れられないと思った。
「以前の会社で私も境井さんと同じ立場にいました。自分のせいでもないのに責められて、誰も助けてくれない、その辛さを理解しています」
表向きは平気だといえど永久にも感じるようなその苦しみ、そして最後にはもうすべてを投げ捨ててもいいという思い。恵はあの時、孤独だった。
仁がどれだけ心の強い人だとしても恵はその人の苦しみを十分理解し、だからこそ戦うことに決めたのだ。どんなことになってもいいと思う気持ちは仕事仲間だけではない情がそこにある。
「境井さんが誠実な人だってわかってます。志村社長が動けない理由だって、一課の皆さんだって、みんなわかってるんです、だから私が動きたくて動いただけです」
「もし今回の件で自分が巻き込まれて解雇される可能性については考えなかったのか」
「それならそれで構いません。あなたを一人にする方がずっと怖かったんです」
そういってお茶を飲んだ恵の瞳はあの頃と変わらぬもので、仁は胸が締め付けられた。心から彼女を思った。
しばらくの沈黙ののちに「本当にありがとう」とただ一言感謝を告げると恵は立ち上がりコートを手に取り玄関に行こうとした、靴を履いて家を出る頃にはもう二十三時を過ぎていたが、どこかに泊るのかと聞くと恵は帰ると告げたが、この時間にはもうフェリーもすべて止まっているというと彼女は顔を青ざめさせた。
「申し訳ございません...」
「構わん、それより後風呂で悪いほどだ」
「いえ、そんなこと気にしませんので」
「そうか...じゃあゆっくりしてくれ」
結局近隣にホテルもないため悩んでいれば百合に泊るようにいわれてしまい、恵は言葉に甘えさせてもらい、寝巻の浴衣を受け取って浴室へと向かい、仁は気まずそうな顔をする頃、百合が笑った。なにもいっていなかったが長年彼をみてきた彼女には既に仁と恵の関係はわかっていたようである。
「客布団はしばらくお坊ちゃまの布団にございますのでお願いできますか?」
「...百合」
ふふふっと笑ってお茶を下げに行ってしまい、居間に一人残された仁は思わず顔を手で覆い隠してため息を零した。嬉しいような何とも言えぬ気持ちが心を満たすのと耳先が熱くなるのを感じながら、一言だけつぶやいた。
「今日もまた一段と綺麗だったな」