第二話


立派な家だと感じる恵は自宅にヒノキ風呂はいいなと湯船に浸かりながら感じた。百合にシャンプーを一式とメイク落としなどを教えられたが、恵は自分が気合を入れてしまった事実が少しだけ恥ずかしかった。仁にそんな余裕があるわけがないのに自分だけ期待していたと思った。
そもそもフェリーが到着した時点で二十一時を過ぎていた。本土から対馬まで船で真っすぐ来てもそれなりに時間がかかることを忘れていた。空港で来た方が早かったと思う頃には遅く、バスはわからずにタクシーに乗り込んできたものの、思っていたよりもかかったことに恵は自分の自宅は上県なのだから、その下にある青海も同様に時間がかかるだろうと思い出しては思わず自分の猪突猛進具合に頭を抱えた。

「(境井さんの実家...境井さんのお風呂...)」

懐かしいと感じた。彼の自宅で風呂を借りたがここよりも当然狭いがいつも二人で入浴剤にこだわりを持っていたことを。乳白色の湯舟をみては肌がつるつるとするのを感じて、いつもこれなのだろうかと感じると恵はほっとする。そろそろ逆上せる前にあがろうと立ち上がった彼女は自分の身体を見下ろした。下手な期待をするなと思いつつもダメになっており、彼女は思わず冷水を頭から浴びては浴室から上がった。
浴衣も久しぶりだと思いつつ着付けていると、白桜のような落ち着いた白い浴衣に同じ色の帯を巻いた彼女が居間にいくと百合だけが残っていた。足音を聞いて振り向いた彼女は恵をみては羽織を忘れていたと慌てて彼女に薄手の紺色の羽織を着せてやった。少し大きく感じると思う恵に前の紐を締めてやる百合は仁のものだといった。

「やっ!そっそれはさすがに」
「よろしいのです、お坊ちゃまも同じようにされますでしょう」
「そう...ですか、そういえば百合さんは境井さんと長い仲だとか」
「そうですね、生まれた頃よりお世話しております」

仁の母親の友人であり、仁の父親と三人昔馴染みであったのだという百合は生まれた仁を受け取ったのも百合だったという。仁の母親は病弱なところがあり、仁は早産で予定よりもずいぶん早く生まれたのだという。自宅で寝ていたところ産気づき、その頃からこの家によく出入りしていた百合が産婆を務めたが生まれた仁はまるで玉の子のようにかわいかったという。
そう語る百合の眼差しは母や祖母のような眼差しであり、恵は仁が愛されていることを嬉しく感じた。

「昔からしっかりした人でした。将来を見据えており、結婚相手も自分と歩いてくれる相手が良いと言っておりました」
「昔から...ですか?」
「お父様が亡くなられてからでしょうか、あの方もそれなりに同じ年頃の子に好意を寄せられるのに答えないことが不思議で聞いたのですが、まるで運命の相手がいるようにいったんです」

子供の話だと笑っていたものの恵をみて百合は確信した。こんな夜更けにやってくる彼女が仁の運命なのだと、その顔を見ればすぐに分かった。二人は何か強いものを持っている。まるでかつての仁の両親のような縁だ。誰も切ることのできない赤い繋がり。
恵はそれをいわれると思わず暗い表情をしてしまう。それは自分ではないと思ったからだ、しかし百合はその不安げな彼女をみて優しく目を見る。

「ご心配なさらないでください、あの方は今の状況では何も言えないかもしれません。それでもあなたを想う気持ちは確かだと、この百合が保証いたします」

なんせ三十二年あの方をみておりますと言われると恵は心強いと感じつつ仁の話を聞いては頬を緩ませた、運命でもなんでもいい、ただ隣にいたいと願うだけの気持ちがあり、それに答えてくれれば、それ以上に望むものはないと思うからだ。
そして百合に感謝を告げて、二階の仁の部屋だという突き当りの戸を軽く叩けば低い返事が返ってくる。恵は戸を開けると浴衣姿で外をみる仁がおり、その部屋の中には布団が二枚敷かれていた。

「すまないな、客布団を敷く場所がここしかなくてな、別の方がいいようならどこか移動させるが」
「結構です!ここで!」

思わず声をかぶせる様にそういった恵は自分がなにをいったのかと思い出して顔に熱を感じるが、仁は少し呆気を取られた後、それならいいかと納得して窓を閉めようとするが彼女は傍によって隣で眺めた。
仁の部屋からは外の山がよくみえて、まばゆい月明かりが外の桜を照らしており、ここは本土よりもいくらか早い段階で桜が咲いているのだなと今更気付くと仁はここの桜は数百年単位で長生きな桜だと嬉しそうに話した。彼は本当に対馬が好きであると恵は話や表情から感じるが、冷たい夜風に思わずくしゃみをすると仁は窓を閉めて、もう日付も変わってしまったので寝ようかといった。
部屋の中に敷かれた布団には数十センチの距離があった。恵も仁も電気を消すとおやすみと告げたが身じろぎした仁の音が聞こえて、思わず視線を向けると彼は背中を向けていた。今回の件で彼は何を思っているのかわからなかったが恵の行為に言及しないあたり、彼自身なにかを悟っているのはわかっている。
その広い背中をみつめると恋しさが募る。布団の距離は数十センチ、きっと派手な寝相の人間なら相手の布団に行ってしまう、手を伸ばせば触れられる距離感で偶然を装うこともできる。寝たふりをしてその背中を抱きしめることができるのに、恵は出来ない。

「境井さん...私はあなたに酷いことをしましたね」

思わずつぶやいた本心を仁は背中で聞いた。そんなことはないと言いたいのをこらえて寝たふりをした。抱きしめたいのにそんなことは許されない、自分たちはもうあの時に終わったはずなのだと仁は言い聞かせるが、恵は再生を望んでいた。

「私やっぱりあなたがいいんです、もう一度触れてもいいですか?」

抱きしめなくていい。ただその背中に手を置くだけでもいいから許してくれないだろうかと恵は告げる。仁は固く目をつぶった。

「仁さん」

懇願するような恵の声、布団が擦れる音がした、恵の手が布団からでて、仁の浴衣をまとった背中に手を触れようとしたとき、その声はまるで刃のように鋭く冷たく部屋の中に聞こえた。

「ダメだ、俺たちはもうそんな関係ではないだろう」

明確な拒絶だった。恵を拒絶することなどほとんどなかったはずの仁からの断り。まるで付き合い始めてすぐに抱いてほしいと強請ったときのような拒絶に恵は声を出せず、自分の差し向けた手をみつめた。何も言い返せずに彼の背中を見続けた。時が流れていき、夜風が窓を叩く音が聞こえる。恵は泣きたかったが泣けなかった、ここは仁の家で逃げる先はない。仁は振り向かず、恵は身じろぎ一つしない彼が余計に辛くて思わず背を向けた。

「そう...ですよね」

ごめんなさい。と消えそうな声でつぶやいたあと互いに背中を見せて眠った。
翌朝二人は同じ時間に起きて、百合の朝食を食べた後、恵は百合に手土産をいくつももらい受けた後、仁にフェリーまで送ってもらった。仕事については今取っている有休消化後で大丈夫であると告げて、互いに昨晩のことは嘘のように仕事の話をして他人のように話をした。一時間ほどの車の運転の中で恵はいつかのように同じ方向を向いているのに、その視線の先が違うのは何故なのだろうかと感じた。サイドブレーキに置かれた手が自分の手を握ることはなく、フェリーのある船着き場までくると恵は車を降りた。

「ありがとうございました」
「あぁまた会社で」

車を降りた彼女が頭を下げた、昨日は泣いたのだろう。瞼が少しだけ腫れているのがわかっていた。惚れた女を何度泣かせればいいのだろうかと仁は思いながら背中を向けて歩く彼女の揺れる水色のコートと白いカシミアのマフラーをみて、聞こえぬようにつぶやいた。

「本当に綺麗だ恵」

船着き場の待合室でチケットを買い、ただ静かにたたずむ恵はマフラーを外してみつめた。もう今更戻れないことなどわかっていたのに期待して夢を見ていた自分の愚かしさに眉を下げて笑った。それでも一晩だけ彼と過ごせた夜が幸せだったと思えて、もし運命があるのだとしたら、それはきっと境井仁なのに、気付いた頃にはもう遅かったのだと恵は知る頃、マフラーの上には雫が落ちた。フェリーの音が聞こえた、もういかなければならない時間だった。