第一話
四月の朝は騒がしい。
通勤の際の道も、電車も、みんな新しい生活によって慌ただしくしている。新年度の始まりを告げる空気は、毎年変わらないはずなのに、なぜか今年は少しだけ落ち着かなかった。
電車の中で揺られる中でも境井仁は新しい社員が来る日かと考えていた。
その為、境井仁も今日からまた忙しい日になると思い、普段より出社を早めていた。三十二歳にして大手建設会社の営業部主任、普通ならもう少しあぐらをかいてもいい様な男だが、彼は決してそうしない。
新卒で入社した時から、自分のルーティンや信念は必ず守るようにしていた男のため、下手に彼に合わせるとしんどくなる故に仁は部下には自分のやり方をしろと告げていたのだった。
県庁所在地である、その場所の中心部のオフィス街、そこにある他よりも一際大きなビル ──志村建設 と書かれたビルが彼の職場であり。日本有数の建設会社、志村建設株式会社の本社だった。
志村建設株式会社は、社員数約五千人規模の大手ゼネコン会社であり。子会社も複数あり、建築関係はもちろんのこと、公共施設やインフラ整備、都市開発や再開発プロジェクトなども請け負っていた。
社長の志村は仁の叔父であり、幼少期に両親を失ったあとも彼を親代わりのように育ててくれた唯一無二の恩人であり、尊敬すべき人で、仁は必ずこの会社に就職すると決め、大学までしっかりと経営や建設について学び入社した。
志村と境井仁の関係は社内では知られている。
入社当初こそ、コネ入社だと散々言われていたものの、それを想定していたからこそ仁は実力で相手を黙らせ、しっかりと評価を得て、若くして今の地位に立っていたのである。
仁は都市開発営業部、第一営業課で主任をしており。
都市再開発・複合施設案件の獲得、主要クライアントとの折衝をしており、主にプレゼン・調整・契約までの全工程の中心を担う存在であり。特に営業部は会社の利益・評判を左右するため、社内でも発言力が強い存在でもあり、その中の第一営業課ともなれば特に大きな存在だった。
早めに出社した仁はまだ物静かな都市開発営業本部のフロアで掃除をして、クライアント資料の確認などをしていた頃、フロアの入口のドアを叩く一人の男がいた。
それは社長であるはずの志村であり、仁は彼を見るなり思わず表情が和らいで「社長」と間違いのないように声を上げた。
「境井、少し構わんか?」
「はい、社長自らいかがされましたか」
「今日から新しい社員が来るからな、その事で話しておきたいことがあってな」
態々足を運んでまでやってくるとは珍しいと思いつつ、流石に社長をこんな場所では悪いと思いつつ、近くの会議室にコーヒーでも飲みながらと招くと二人は都市開発営業部の第一会議室の中に行き、ドアを閉めた。
志村自ら足を運んでくるということは何かしらの理由があるのは察していたからであるが、新入社員のことについて態々言いに来る必要があるほどとは何かと彼は不思議に思った。
もちろん、新入社員についての情報詳細は人事部しか知らない。仁のいる都市開発営業部には新しく二名の新卒の男女が来ることは知っているが、その教育者は仁ではなく、別の部下が予定しており、噂で聞く限りでは特別な相手でも無さそうだったが、何かしらの理由でもあるのかと疑問に思いつつ、コーヒーを入れて手渡した。第一会議室は他の会議室よりも広い上に、コーヒーのラインナップが一番豊富で豪華だった。
「それで話とは?」
「あぁデザイン戦略本部があるだろう、そこの意匠デザイン室に一人入ることになってな」
デザイン戦略本部はこの会社のデザイン関係の全てを担う部署であり。意匠デザイン室は昨年頃から新たに出来た部署である。
具体的にいえば硬派を貫く志村建設がアーティストチックで、世界観を重視したり、ブランド戦略・コンセプト設計、さらにはプレゼン用ビジュアル作成など、様々なデザイン関係を扱う部署だった。それまで建設が主であり、シックで落ち着いて、堅実なデザインを重視した志村建設だったが、ここ最近の世間の傾向などをみても、もう少し自由度を広めてもいいのではないのか、という意見や本来いたデザイナー数名も新しいことを求めて出来た部署だ。
社内でも新しい部署であることや、独創的な世界と、常人には理解できないセンスなどもあってか、多少肩身の狭い部署に新しいデザイナーが入ることに仁は特段驚きはしない。反対にデザイナーを雇う際には真剣に考え、社長自らも面接をするほどなのだから、それほどの腕の相手なのだろうと納得した。
「しばらくはお前と関わることになるかもしれんが、少し困った相手でもある」
「はぁ……」
デザイナーというのは少し癖があるような人物が多い。
仕事をする以上は仕方ないものだが、デザイナーは特にこだわりが強い存在が多く、仁も度々手を焼かされたが、そんなにもかと思わず苦笑いが出そうになるが、志村は仁が思うようなタイプでは無いと言った。
反対に持ってきていた書類を手渡してきては何かと思うが、そのデザイナーがデザインしてきたものだといわれる。スタイリッシュで無駄がない今どきのシンプルなデザイン。しかしどれも落ち着きがあり日本人の心にどこか響く心地よいもので、仁はすっかり心を奪われる。資料に建設場所なども書かれているが、複数枚のポートフォリオをみると志村が相手を雇いたくなる気持ちを十分に理解した。
「素晴らしいですね、これを作るデザイナーに対してなにか不安が?」
「デザイナーの腕への不安はないが、意見を言わないタイプで少々引っ込み思案だ。折角の腕を腐らせたくはないからな。お前からも意見を言うのはもちろんだが、しっかりと支えてやって欲しい」
「社長がそこまで言う相手なんですね……」
「個人的なことにはなるがお前には言っておかねばならんから言っておくが、ワシとそのデザイナーの親から知り合いでな、周りはそれを知れば非難するやつも出てくるだろう。それに潰されて欲しくないと思っている」
その言葉について仁は痛いほどに理解できた。
──社長の甥っ子だから。
──社長のコネで入社した。
──社長の力で昇進したんだ。
そんな事実はないと言うのに、周りは勝手な推測で物を言う。
腹正しさはなかった。反対にそれを黙らせられる力を持たない自分が悪いのだと言い聞かせたからこそ、今の地位に彼はいる。しかし、それは仁がたまたまそう思えるような人間なだけで。人間は等しく同じだとは思わない。普通なら気を病んでしまうことであり、理解できる立場であり、腕を見込んだ存在だからこそ、仁に力になって欲しいと志村は自ら頼んだことに仁は仕事仲間として、しっかりとぶつかると約束をすると志村は安心したように仁の肩を抱いて「頼むぞ」といって出ていった。
仁は残されたポートフォリオをみては、ずっと心惹かれた。
見ているだけで心地よい。きっとこの建物が本当に存在するなら何時間でも時を忘れて居られそうだと感じた。
朝九時、都市開発営業部のフロアは既に出社した人達で溢れていた。
月曜日の朝であり、それぞれ各課ずつの朝礼をしていた。今週の予定やそれぞれの流れにクライアント情報の共有。いつだって忙しいもので、ちょうど仁が朝礼をしていた頃、顔を覗かせたのは人事部の安達晴信だった。
上品な紺色のスーツにシンプルなトーンの明るい黒のネクタイの内側はドット模様が入っており、少しだけお茶目にも感じる。
周りからは人事部というだけで緊張感を持たれるものの、そこまで気難しい相手ではなく、その後ろには見慣れない男女が三名いた、二人は新卒の新しい仲間であり。
もう一人を見た時、仁の時は止まったようだった。
シンプルな黒いスーツ姿。少し堅苦しくも感じるが入社初日には丁度いい堅苦しさで、長い黒髪を一纏めにした女性は伏し目がちだった。
「本日付けでデザイン戦略本部・意匠デザイン室に配属となった新しいデザイナーの狭間さんだ」
そういって彼女の前にいた安達が一歩横にずれて、仁の前に彼女が現れる。
整った容姿に惹かれたわけではない。その長い黒髪と影のある表情に目を奪われた訳じゃない。記憶の中とは違っていてもわかる。魂が彼女だと告げる。
ずっと夢に見て探していた相手。
───かつての自分の妻である女性。
彼女は伏し目がちだった瞳で仁を真っ直ぐと見つめた。
「狭間恵と申します。本日からお世話になります」
静かな声は騒がしいフロアの中だと消えてしまいそうだった。
小さく頭を下げた彼女に見えたつむじは一つだけ、綺麗な染めたこともない黒髪、頭を下げると同時に揺れるのはまるで木葉のようである。
キラキラと室内なのに彼女には陽の光が当たったかのように輝いており。仁は言葉を失いそうになるが、誰にも悟らせないように「第一営業課、主任の境井仁です」と在り来りな挨拶をした。
特別な印象をつけるにしてもここじゃないと分かっている。
安達はこれから仁の担当案件は恵に任せることになるため、二人の接点は増えることになるだろうからと告げた。
志村からいわれていたことを思い出して、すぐに飲み込んだ仁は短い返事をしつつも、その視線は完全に彼女を捉えていた。少し不安そうに辺りを見渡していたが仁と目が合えば伏せてしまう。
まるであの頃、初めて見合いをした時のような姿に感動した。
今すぐその手を引いて結婚の誓いを立ててしまいそうになるほどには考えてしまう。
薄い唇が、伏せたまつ毛が、細い首筋が、全て初めて見るはずなのに初めではない。全てが全て夢の中の彼女は違うが、まるでパズルのピースがハマったように重なってしまう。
「分からないことが多く、ご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いします」
地獄まで共に……といった女とは違う声のトーンと視線。
それは初めて出会った頃と全くおなじで愛おしかった。
お前はこんなにも初心だったんだと、あの頃のように思い出してしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そういって思わず手を差し出すと、驚いたように彼女の手が返される。
冷たい手はあの頃のように華奢で、このまま温まるまで繋いでいてやりたいと思うのに、周りに「主任が握手なんて珍しい」といわれて、思わず手を離してはデザイナーと直接コンビを組むのは珍しいからと言い訳をすると、みんなは特に何も気にしなかった。
「それじゃあ狭間さんの仕事場の案内をしよう」
「はい」
安達の言葉にそういって去っていった彼女の背中を見届け続けていると他の仲間にからかい混じりに「惚れました?」と聞かれてしまい、仁は素直に「かもな」といった。だが真面目な彼のその言葉にみんなはただの冗談だと流してしまうのだった。
去りゆくその背中さえ、あの頃と変わらないんだなと仁は呟いても彼女はもう振り向かなかった。あの頃の彼女とは違うのだから当然だった。