第三話
たったひと月だったかもしれない、しかし確かに長いひと月であり、いよいよ四月になった。志村建設は新入社員の受け入れももちろんだが、社内の体制の見直しを検討し、大きく社内...特に都市開発営業部については見直しがされた。
志村社長は仁の一件を重く受け止めた上、再度精査し、前営業部長が関わった案件、また前営業部長と深い関りがあり、さらに共謀していた都市開発営業部の一部係長などを一新することを告げた。社員たちへは今回の件を踏まえて今後一人一人への対応を大事にすることを告げて、全社員へ深々と頭を下げてしまうため、志村の社長としての気概に皆が責められるわけもないと苦笑いをしつつも、その後の社への要望などについては大きく声をだすようになった。
一件落着...というのは会社だけのこと、恵と仁の関係は変わらない。それどころか通常通りに仕事が始まってしまうと以前のように九階と五階でフロアの違う二人は顔を合わせることは出来ない。
営業一課係長は近頃不在である。無理もないだろう、彼もまた営業部長と首謀しており、甘い蜜を啜っていたメンバーの一人であったようで、今回の仁の件は直接ではないが別件にて役員会議に駆り出されている。仁もしばらくは証人として聴取のために呼び出しも受けていたものの、周りが見る目はずっと優しいものだった。
「はぁ...」
正直恵はスランプ状態だ。作品というのは作り手の精神に関わるもので、恵は目の前の小さなオフィスの内装デザインについて依頼を受けているものの一向に浮かばない。コーヒーの差し入れにきた同僚が恵のパソコンを覗き、手元の企画書を見ると真反対じゃないかといったことに、恵は覇気のない声で「修正しますぅ」というだけで、こりゃあダメだと苦笑いをした。
境井仁と恵の仲は小さな噂になっていた。無理もない、解雇間近だった境井仁に対して全く無関係だと思っていた意匠デザイナー室のデザイナーが割って入ったのだという。営業部長や志村社長と密会していたことから黒い噂もあったが、それは人事部の安達部長がしっかりと否定した。社長とは仕事の話を、営業部長とも仕事であり第三者がしっかりいたという証言は大きく、恵も特になにかを噂されたり被害を受けることはなかった。
ただ一つ、あの日の夜に仁に拒絶されたことだけがずっと残っている。
二週間が経過して、どこの部署も忙しそうで、恵自身の仕事は仁の件の前に大方済ませたこともあり、そこまで急ぐものはないが如何せん手に付かない。このまま数か月立てばどうしようかと思うが今は仕方ないとも思う。オフィスの棚の中には白いカシミアのマフラーが物寂し気に鎮座していた。
どこかしらで理解していた、あの時、自分が彼に別れを告げた以上はもうそれ以上など望めるわけもないとわかっていた、それでも期待してしまった自分がどこまでも情けなくてたまらないと恵は思っていた頃、ふと名前を呼ばれ、ハッと意識を取り戻す。何かと思えば目の前には営業一課の安達繁成がいた。恵は何事かとすぐに小さな笑みを向ける。
「今晩一課で飲み会があるんですけど、よかったら来ませんか?」
営業一課といわれた途端に恵は仁の顔が浮かんだ。新入社員の歓迎会兼お疲れ様会兼境井主任の部長昇進会です。といわれた恵は一気にまとめてやるのだなと思いつつも、それは営業部だけの内容ではないのかと問うと繁成は先月の元営業部長の件で助けてもらったこともあるので恵に参加してほしいのだという。
もちろん、恵だけでは居心地も悪いこともあるだろうから断ってくれてもいいとはいってくれる繁成に恵は「それじゃあ」と断りを入れようとしたはずだ。
したはずだったのに、気付けば恵は居酒屋にいた。
十九時頃、どこにでもある、大衆チェーン居酒屋の座敷の席は既に営業一課が全員揃っており、一番上座の奥には仁が座っている、恵はその横に座っており、営業一課の面々十名ほどがあとを適当に座ってはドリンクをそれぞれに渡していた。
恵はビールを受け取っては隣の仁に手渡すと彼は普段通りに「ありがとう」といって受け取るだけだった。それから全員にドリンクが受け渡されるとそれではと仁が姿勢を正した。
「まず初めに営業一課のみんなには迷惑をかけてしまったことについて改めてこの場を借りてお詫び申し上げます」
そういって深々と頭を下げる仁に主任やめてくださいよと部下たちがいうが仁は自分が不在時の仕事を任せたことや、上の連中に色々と押し付けられたり聞かれたりと大変なことをしてしまったことには本当に上司として情けないという。しかし謝罪ではなく力添えをしてくれた彼らに感謝の言葉を強く伝えた。
「そしていつも世話になっている狭間さんにも本件は色々と世話になった、本当にありがとうございます」
恵は自分の名前が挙がり、しっかりと見つめられたことにいえいえと頭を横に振った。仁はそれをみたあと新しく一課には新入社員が二名入ってきており、そのメンバーには今志村建設が少し慌ただしい現状となっているが、それはあくまでも上の話で新入社員の教育を怠ることはなく、さらには期待しているのでぜひ頼むと告げた。
長くもなく短くもない、しかし心地よいスピーチだといって閉めた後、改めてこの場の全員の挨拶をしようといい、恵の向かいから順番に挨拶をする。恵も営業一課とはよく仕事をするためメンバーを知っており、これから関わりの増える新入社員について知れることもありがたいことだと思う間に回ってきてしまう。
「意匠デザイナー室の狭間恵です、普段は九階ですが、何かと関わることも多いと思いますので、よろしくお願いします」
「狭間さんはウチの看板デザイナー部の一人だ、素晴らしい作品が多いから名指し指名も出てくるだろうからよく覚えててくれ」
恵の挨拶ののちにすぐそういった仁。思わず驚いてしまうものの彼は平然とした様子で言っており、他の面々も彼女にはよく世話になっていると話してくれており、特に浮いた雰囲気にはならなかった。
そして流れる様に仁も改めて一課の主任として挨拶をするが、周囲はもうすぐ部長でしょうとはやし立てることに仁はどうだろうなと返事をする頃、ちょうど料理が出揃いはじめたことに乾杯をして全員が飲み会を堪能し始める。恵は話している仁の皿を思わず自然と手にしては、彼が好みそうなものを皿によそって、何に気なしに置いては自分のものもよそう。仁はそれに気づいていても当たり前のように目配せで感謝を告げて、部下と話しており、恵も他のメンバーと話をしていた。
最初はビールにしたものの、みんな二杯目からは自由に飲み始めており、気付けば食事よりも話がメインとなり、三杯目四杯目となり、席も動き出していた頃、恵はメニューをみていれば日本酒が飲みたいと感じ、チラリと仁をみつめた。
「境井さんよかったら日本酒飲まれますか?」
「ん?飲み放題にあるのか」
「はい、種類は少なめですけど、飲むならどれがいいですか」
騒がしくなっている頃、恵は仁に声をかけると彼と二人でメニューをみつめる。その距離感は近く、思わず恵はその距離に意識してしまいそうになるが、仁は変わらぬ表情でこれがいいと甘口の日本酒を頼むことに、恵はその中で一番好む銘酒だと思いつつ、店員を呼んでは日本酒一合とお猪口を二人分頼めばすぐに二人の席に届き、恵がお酌しようとするが仁が先に徳利を手に取った。
「今日は俺が酌しよう」
その言葉に素直に感謝を述べて二人は仕事の話を交えつつ酒を飲み進めた。ちょうど他の人に話しかけられた仁を見計らって、恵は一度手洗いに行くと告げて部屋を出て手洗いに行った。
肩が触れそうな距離感も、彼の伏せたまつげが見える姿も、すべて恵を意識させていた。触れそうなのに触れられないというもどかしさを感じつつも、洗面所の鏡に映る自分を見るとすっかりと火照っていたなと感じる。飲みすぎたかもしれないと思いつつ、もう一度戻るとドアの奥で声が聞こえた。
「境井主任って狭間さんと付き合ってないんですか」
「付き合ってない、なんだそう思ったのか」
「いや、だってお似合いの雰囲気だったので、てっきり」
「彼女と俺は仕事関係だ、変なことをいうな、狭間さんに失礼だぞ」
何も間違ったことをいっていない。恵もきっと聞かれたら同じことを答えるはずなのに、仁に告げられた言葉が悲しくてたまらなかった。
現実を突き付けられたようであり、恵はすっかり自分が浮かれた気がして、仁が見ていない間にカバンを取ると、テーブルの端にいた新入社員の一人に先に帰ると告げてその場を後にした。
挨拶もせずに帰ることの申し訳なさ以上にその場にいたくなかった、あれ以上現実を聞いていたくもない。自分たちの関係は本当に終わったのだと感じるたびに苦しくなり、店を慌てて飛び出した、駅までは徒歩で五分ほどでその間でゆっくりと酔いが醒めていく。金曜日だからなのか人が多く、恵はその足で居酒屋小茂田にいた。ゆなは既に酔った恵をみつめて仕方なく満席の中で唯一開けてある席を案内してやり、恵を座らせて、いつも通りに白嶽を入れてやった。
「これ境井さんの」
「いいでしょ別に、ちょっとぐらいバレるもんかい」
「...確かに、でも私だけじゃ酔えないからゆなさんも飲んで」
「酔いたいのかい?それなら堅二から仕入れた新しいヤツがあるからそっちにしようか」
時刻は既に二十一時を過ぎているため客足は落ち着いている。
ゆなは新しく仕入れたといって取り出した辛口の酒を注いでやると、それまで甘口を飲んでいたこともあってか新鮮でおいしく感じて思わず軽い気持ちで飲んでしまう。そして飲んでいくと次第に口が軽くなり、仁とはっきり別れてしまったことと、それを後悔していることを告げた。
「別れてるし...仕事上、仕方ないってわかってるけど、あぁやって言われちゃうとさぁ」
「はいはい、自分でフったくせに後悔してんのね」
「してるに決まってるじゃないですか、境井さんとなんで別れただろ、今付き合おうっていったら寄り戻してくれないかなぁ」
なんで私あんなことしちゃったのと泣きつく恵にゆなは呆れたように笑った。そんなことを言われた仁はきっとすぐに喜んで受け入れるだろうに、二人ともそれが口にできない人間だと知っていた。ゆなはたかに店を任せてすっかりと一緒に酒を飲む友人として隣に腰かけて勝手に注文しておいたエイヒレを食べながら笑った。
「そんなに仁が好きかい?」
「好きだよ...」
「仁が自分をみてないとしても?」
「それでもいいの...私じゃなくていい...隣にいてくれるなら、それでいい」
あの人の為に生きたい、自分が誰になれなくてもという彼女は昔と変わらないと感じた。数百年前のあの世界でも彼女は仁が何者になろうとも傍にいると告げていた。そんなに想い合う二人が今世で別れることもきっとないだろうと思っている。別れた今でさえ思っている。
「好き...愛してるんです...あの人のためならなんだってできる、地獄に行ったって...」
あの人を一人にしたくなんてない。と恵は瞼の奥で一人の男が暗い海の中にいこうとするのをみた気がして。ふと一度瞼を開けるとどこか見覚えのある男性がそこにいた。
「仁...さん?」
あぁ夢だろうと恵は感じて思わず目の前の男の腰に抱き着いた。
「愛してます、あなたのことを誰よりも、そこに私がいなくてもいいんです」
お慕い申しておりますと呟いた気がして意識を落とした。
夢の中では白桜の下で優しく抱きしめられる夢をみたのだった。