第四話
溜まっていた有休消化ついでに戻っていたつもりであった仁だが、恵のおかげで休みを早く切り上げることとなり。恵と分かれて二日後に本土に戻った。スーツを着るのを久しぶりに身に付けると思いつつ、しっかりとネクタイをつけて鏡を見ると普段と変わらぬ自分がいた。
いつも通りに昼食のお弁当を持っていくついでに冷蔵庫を開けると百合から手渡されていた漬物や小鉢料理が冷蔵庫内を埋め尽くしていることに思わず恵の顔が浮かんだ。百合の料理が好きな彼女に手渡すかと思い浮かべた後にすぐにやめた。もう自分と彼女はそんな関係じゃないのだと言い聞かせる。
――浮かれてしまう。自分の為にと動いてくれる彼女をみていれば自分が愛されていると錯覚さえ覚えてしまう。あの夜、触れたいと願ってくれた彼女は確かに自分を想ってくれているが、彼女の想う形で答えられないことはわかっていた。
中途半端に答えて傷つけることは出来ない、それなら距離を保ち、彼女と会社だけの関係であれば一番いいと思うのは逃げだとしても自分の正当性を信じてしまう。
本土の桜は対馬より少し遅れていて、四月が始まって少ししてから満開となり、普段は入学シーズン前に散るというのに少し遅れたがいい時期だと感じられる中、仁は久しぶりに感じつつ出社した。
すぐに三階の社長室に呼ばれた仁は連絡一つも取っていなかった伯父であり社長の志村に頭を下げて言葉を聞いた。内容は営業部長についてのこと、仁が完全な白であること、恵が伝えたように鑓川技建のことはしっかりと守るから安心しろという言葉、そしてここ数日で会社全体をしっかりと見直して、これから志村建設は変わっていくであろうことを説明される。
「ありがとうございます」
「ワシではなく狭間くんに言え、彼女が全てをしたんだ、鑓川技建に頭を下げたのも、営業部長に直接啖呵を切ったのもな」
「...直接、ですか?」
「ああそうだ、彼女なりの誠意でもあるんだろう、直接話に行って自白しろといいに行った。もちろん、ヤツはそんなことはしなかったがな」
それどころか彼女に手を出すような卑劣な男でもあったという志村に仁はそれは聞いていないと思い、恵が手を出されたとはどういうことかと思わず動揺して問いかければ、恵自身は大ごとにする気はないといっていたが、個室の店に呼ばれて警察沙汰に発展しかねないことをされたという、その場には恵の知り合いが後ほど同伴した為、難を逃れたがあの行為については別件で訴訟されてもおかしくない案件だと話した。
また営業部長に伴い他の営業課長なども同じように言葉にそそのかされて、何かしらに手を染めていたのが散見されており、今一度全員処分を下すため、営業部は大きく体制が変わることとなると志村はいう。
「その中で仁、お前に営業部長を任せたいと思っている」
「私ではだめでしょう、年齢も経験も足りていませんし、他の者が納得しません」「営業部一同からの推薦だ、断ってくれてももちろん構わん」
あくまでも現場の意見を聞いての判断だと言われた仁は断れるわけもなく受け入れたが、少し状態が落ち着いてから全体を見つめなおした後にしてくださいと頼み話を終えた。
志村から伝えられた恵の話、さらに役員会議で証人としてみせられた資料や、他の部長クラスに教えられた内容はすべて到底簡単には拾えない情報ばかりで、恵がどのように情報を入手したのか、仁は不安を抱いていた。
部長に乱暴をされたというが、それを恐れないわけがない、またあの頃のようなことなのかと仁が不安を抱いているのに気付いたのは彼の一番の部下である、安達繁成だった。休憩所で二人きりの時、彼は仁に素直に話をした。
恵が部長のパソコンのファイルを盗んだこと、また表には出ていないようだがスマホの情報もパソコン経由で盗み、その中には以前から噂になっていた他のクライアントとの闇取引についてのメールや電話内容もあったのだという。
「正直狭間さんがしたことは表にはいえませんでしょうし、よくないかもですが、俺たちにはできないことをしてくれました。営業部にいま境井主任がいなくなったらきっとこの会社は持ちません。だから帰ってきてくれて嬉しいです」
「ありがとう、お礼と新しいメンバーの歓迎会も兼ねて飲み会でもするか」
「いいですね...あっそういえば境井主任、部長に昇進だとか」
「...主任でも部下には奢るさ」
会社経費になるしな、と笑って返事をすれば繁成は喜んで店の予約をしときますと笑った。
あの日から恵と会うことはなかった。もとから仕事のフロアも違う上に案件で同じにならなければ顔合わせをすることがないのだから当然だった。それでも別件で九階にいくときに恵のオフィスをみてみれば、彼女は疲れ切った顔でモニターを見ており、仁は思わずコーヒーを淹れて別のデザイナーチームのメンバーに恵に渡してくれと告げた。
「自分で渡せばどうですか?」
苦笑いを返して仁はその場を去った。不用意に近づいて傷つけたくなかった。
けれど周りはそれを知らないのか、はたまた嫌がらせかのように引き合わせようとして、仁は何も知らなかったが飲み会の席には恵がいた。一課のメンバーは今回の件では恵に世話になったので呼ばない方が悪いだろうといった。それに新人たちも遅かれ早かれデザイナー部とは連携を取って仕事をするのであれば、名高い恵を知るのもいい機会だという。
「意匠デザイナー室の狭間恵です」
そういって挨拶をする彼女に仁は終わるなり口が滑った。本当はもっと彼女が優れたデザイナーであるかを語りたかったが申し訳なさを感じてやめた。恵のことになるとすぐに口が緩んでしまう、物理的にだ。きっとにやけて、ずっと彼女ばかりをみてしまうと思い、席を決める時は反対に行こうとするのに全員に二人して止められたせいで上座の誕生日席の仁と、その角で隣になった恵はできるだけ仕事仲間として話をして酒を飲んだ。
自分が話している間に自然と皿をよそってくれる彼女が彩も好物も気にしてくれていることが愛おしいと思った。恵の皿も彼女の好みのものが入っていた。カルパッチョは恵の好きそうな味で周りが見ていない隙に自分が食べるふりをして恵の前に置くと自然と手に取った。
隙間々々で彼女を見てしまう。今日は髪はおろして、鎖骨が綺麗にみえるトップスは編み込みでギャザータイプでリボン結びにされている。その内側にはレースがあり華やかな春らしさをみせ、パンツは明るめのブルーのデニムで、靴下はレースの薄いグレーのラメが入っているのが見えた。スーツのみの営業部とは違うラフさがあるが、甘すぎず嫌な雰囲気はないのは他のデザイナーの癖が強すぎるせいなのかとかつて他のメンバーとも話したことがあった。
「境井さんよかったら日本酒飲まれますか?」
恵にそういわれて飲み放題のメニューにあるかといえばあるようでメニューをみせられる、ここで寄ってしまう距離は仕方ないものなのだと仁は言い聞かせるが恵の愛用しているコロンの香りや、開いたトップスからみえる鎖骨に薄いリップで色づいた唇などが視界に入る。触れたい、今すぐ数か月前に触れていたように、と思いながらもすぐにその思考を取りやめる。
程よく楽しんだ後、恵はお手洗いに行くといったまま帰ってこず、そのまま気付けば部下に囲まれた、酒に酔っているのかとすぐに気づいて恵が心配にもなるが話題が恵になってしまうと止まってしまう。
「境井主任って狭間さんと付き合ってないんですか」
その言葉が酷く胸を痛くする。
付き合っていた、それどころか俺たちは昔夫婦だった、遠い昔、ずっと昔に、そういえたならどれだけいいことなのだろうか。今だってずっと愛しているのだから、堂々といってやりたいのに、恵に迷惑はかけたくはない。
「彼女と俺は仕事関係だ、変なことをいうな、狭間さんに失礼だぞ」
だからそういった。これが大人として、仕事仲間として、上司としての当たり前の回答だろうと思って出したのに、今すぐ違うと訂正したかった。
彼女は俺の最愛の人で、ずっと捜し求めていた相手で、今もなお触れたいと思う相手なのだと言いたい。だけどできないことがつらかった。そのまま部下が恵の話をするのを聞いていれば彼が恵に魅力を感じているのだろうと感じられた。恵は仕事が真面目で、話し方や物腰も柔らかい、その上決めたことは筋を通すタイプで性格がいい、見た目も入社当初は暗く感じたが今では明るくてとっつきやすく穏やかな優しいお姉さん気質で甘えたくなるし甘やかしたくなる。
それを聞くうちにイライラしてしまった、それはすべて理解できる言葉だからだ、陰があり難しいタイプかと思えばそんなことはない、気を許した相手にはことごとく尽くすタイプで献身的な女性、淑やかでたおやか、まるで大和撫子を体現するかのような気高い女性。
そう思っている頃、仁のスマホが震えた、ゆなからだった。
『恵が潰れてる迎えに来て』
いつの間にか帰っていたらしく周囲を見渡すと恵はいなかった。新入社員の一人が一時間ほど前に恵が帰ったといったことに先に教えてくれと告げて、ラストオーダー間際のため、もう帰ろうといって全員その場で解散して、仁はすぐに会計を済ませてタクシーに乗り込んだ。
居酒屋小茂田までというと運転手は知っているらしくすぐに走り出した。店内は意外と騒がしいがオーダーなどは落ち着いており、常連で埋まりやすいカウンターはもう空いていた。その一番奥でカウンターにうつ伏せている恵と横に座るゆなをみて仁は慌てて駆け寄ろうとするが足を止めた。
「それでもいいの...私じゃなくていい...隣にいてくれるなら、それでいい」
「好き...愛してるんです...あの人のためならなんだってできる、地獄に行ったって...」
『あなた様と往けるのなら、地獄まで参りましょう』
酔いつぶれてそういった恵に仁は何百年前と変わらないとやはり感じた、彼女の過去があったから今も好きなのだといわれた否定できない。だがしかし記憶がなくても彼女のことをきっと愛していた。記憶もなく自分のために全てを放り投げて守ってくれようとする彼女を愛せぬわけがないのだ。
ゆなが仁に視線をやると、仁は恵に近づいた、帰ろうと声をかけようとおもうのに、彼女は仁を蕩けた瞳でみつめる。愛おしい人を見る甘い者の眼差し。
「愛してます、あなたのことを誰よりも、そこに私がいなくてもいいんです」
「お慕い申しております」
輪廻転生を繰り返せど人の根は変わらない。
仁は恵を抱き寄せてやり会計をしてやろうとするがゆなはいいと断った、ふとテーブルを見ると店には滅多に置かない高い日本酒が置かれていたが、どうやらこれが原因かとわかった。恵は今日ビールに日本酒にと胃の中をかき混ぜていたのだから酔っても無理はないだろうとあきれてタクシーを呼んだ。
恵の自宅にはいったことはない。
以前の恋人の兼ね合いから自宅に人をいれるのは嫌だろうと思っていたからだ。恵も気付けば仁の家に来るのが当たり前になっていたので、仁は彼女を簡単に背におぶったまま自宅に帰り、布団を出してやる間は自分のベッドに寝かせてやった。服は...仕方がないのでそのまま、客布団を出しては恵を見に行くと彼女は布団を抱きしめていた。
「仁...さん...」
愛しい人を呼ぶようにつぶやく彼女の顔を覗き込んで仁は「ここにいる」とつぶやいた、望むのならどこにもいかない。お前だけをみているのだと彼は胸の中だけでつぶやいて、彼は別の布団で眠りについたのだった。