第五話


恵は目覚めると同時に昨日は悪酔いしたなと感じた。最後の記憶は居酒屋小茂田だが何を話したのかもわからなかった。しかし目覚めた場所は自分の部屋ではなかった。味噌汁のいい香りがして思わず周囲を見渡してすぐにここが仁の家であると気付く程度には彼女もこの家に通いなれていた。
慌ててベッドから飛び起きると服などもそのままで本当に連れて帰られただけなのだと一目でわかった。隣のリビングに行くとキッチンの仁がエプロンをして味噌汁の味を見ている。

「おはよう、寝れたのか?」
「おはようございます...あの、私、昨日...」
「ゆなから迎えに来いと言われてな、家を知らんからここに連れてきた、味噌汁でも飲んで帰るといい、二日酔いが残ってるだろう」

当たり前に言われてしまうことに恵は戸惑った。しかし二日酔いのためなのかあさりの味噌汁を炊いてくれた仁に恵の胃袋は素直に彼女に訴えかけるため、一杯だけもらうことにして席に着くと、仁は軽く握り飯と味噌汁に漬物を出してくれた。
自分の分も用意していたため、ついでだというようだったが、恵のためであるのは明白で、そうした小さな愛情が痛々しいほど好きだと感じた。他人なら他人と切り捨ててほしいのにしてくれない。わかっているはずなのにと恵は思うが二人は丁寧に手を合わせて朝食を摂った。
テレビは土曜日の朝の旅番組をしており、特集は北海道だった。札幌や小樽に函館など有名観光地を中心に巡っており、温泉特集については思わず恵も仁も羨望の眼差しを向けてしまう。二人とも風呂が好きなのだ。

「この白菜のお漬物美味しいですね」
「百合が漬けてくれていたものだ、持って帰るか」
「もしよければ少しほしいです、袋に入れてもらっていいですよ」
「漬物以外にも梅干しもあるがそっちはどうする」
「ほしいです」

遠慮なくというように受ける恵と提案する仁、交際の時期から変わらないものであり、懐かしかった。白菜は甘く漬け込まれており、ゆずの皮も入っていてさっぱりしていた。おにぎりには百合が漬けていた梅干しも入っているらしく甘く美味しい。料理上手で学びたくなると思う恵に仁は先に食べ終えるとてきぱきと恵の持ち帰りそうなものを袋に詰め込んでいってやる。タッパは洗って帰すのが困るため、いつの間にか家も近いことがあり、食品用の厚みがあり電子レンジでも使える専用の袋を使うようになっていたのだが、仁はそれに慣れた手つきでいれる。

「ごちそうさまでした」
「つけ置きだけでいい、ついでにまだ食えそうなら桜餅があるんだが食うか?お茶ももらってある」
「そういう提案って本当断れなくて困るんですよね」

その言い方は嬉しそうで仁はくすっと笑って、断れないから聞いてるんだろうといった。数日前に取引先にもらった桜餅に百合に贈られた桜の塩漬け、そして新茶を煎れて二人は朝からすっかり昼のようなお茶を堪能した。
朝からよく食べたと思いつつも、昨日は意外と食べられなかったことを話す。飲み会の席になると話してばかりで最初は飲むが結局後半には何もできず、帰ってからはラーメンを食べるという恵の話に仁も頷いた。まるで付き合ってる頃と何も変わらない。その空気感が心地よく幸せで恵は苦しくなった。

どうしてこんなにも平然としているのに、どうして自分たちはもう恋人ではないのだろうか、ここで今伝えたらいいのかと思いつつも言えるわけがないが、恵の瞳は既に仁にそれを伝えており、仁は彼女を真っすぐ見た。

「もう一度俺にチャンスをくれないだろうか」

待ち望んだ言葉に恵は少しだけ目をそらした。
求めたのは自分なのにいざ言われてしまうと答えを出せない、もしまたあの瞳の先の正体が気になれば、その先にいるのが自分でないと知るときに耐えられるのか、仁は本当に自分を愛してくれるのかという不安が消えないわけではないが。仁もそれを理解していた。

「もし俺にチャンスをくれるのなら、今日の夕方、あの喫茶店に来てほしい、そして俺の話を聞いてほしい。ちゃんと全部話すと約束しよう」
「...境井さんはそういうお気持ちなんでしょうか」

慰めだとしたらやめてほしいと恵は心から思った。同情からくる愛情なんて長持ちしない。
だが仁は彼女に嘘偽りもなく、そしてその瞳誰かを映すわけでもなく、はっきりと目を見ていう。

「恵がいい、狭間恵という人以外と俺は共になりたくもない。その言葉の意味を考えたうえで選んでくれ」

そういった仁が空になった二つの湯飲みと皿を片すのをみて、恵は静かに荷物を受け取った。短くお邪魔しましたと告げて部屋を後にして廊下に出ると、マンション風が彼女を撫でる。これが最後だろう、どんな話だとしても聞かねばならない、そして最後に自分でちゃんと決めようと彼女は決心して足を進めた。女はいつでも身だしなみを作る、戦場に赴くために。

仁と恵の家はドアトゥドアで約二十分の距離であった。
恵は帰宅してすぐにバスタブを洗い湯を張って貰った漬物などをタッパーや小鉢に移すなり冷蔵庫に片した。時計はまだ九時頃で仁と二人、早起きだったからだと気付き風呂が沸くと、すぐに風呂に入った。熱めのお湯で身体をより一層丁寧に洗った後、湯船に浸かる。一時間ほどゆっくりと体を休めて夜と変わらないケアをしたあと、時計を見て恵は十五時にアラームをかけると一度眠った。酒は抜けていると分かっていてもとにかく必要だったからだ。

アラームより十分早く目覚めた恵は身支度を整える。
顔を洗って歯を磨き服を選ぶと淡い桜色のロングスカートが目に入り、白い柔らかいシフォンのブラウスに合わせる、春らしい重たすぎないデニムのショートジャケットを羽織り、靴にはアイボリーのオフィスでも使えるようなパンプス、カバンは特に入れるものはないが少し大きめの黒い革タイプのショルダートート、中には財布やリップに癖のように入れてしまうエコバッグ、そしていつの間にか御守りのように持ち歩いている白いカシミアのマフラー。メイクは薄く、髪の毛は控えめなハーフアップにビジューがあしらわれた華やかなバレッタを添えた。
話をするだけとわかっていても今日はこの格好がいいと思った。どんな形であれ彼には自分を見て欲しかったから。

喫茶店はあの日二人で話した店だった。
四月中旬は初夏へと向かうように暖かく心地よい、羽織ってきたデニムのジャケットが少し暑いと感じるくらい。
喫茶店は少し仁の自宅よりだが、仁と恵の自宅の間の駅にある、一駅だけ電車に乗ってそこから十分ほど線路沿いの道を歩く。石畳になったその道には桜がちらほらと落ちている。今年は随分と遅かったと思う中でも恵はじっくりと仁のことを考える、初めて出会った頃から今まで、二人の間には大きな問題などはなかった。恋人としては当たり前のことを過ごして、相違して別れただけ。相違した理由は自分にあることはわかっていた。けれどそれが良い悪いという話ではないことも薄々わかっている。もし仁が浮気をしていたり、本当に別の恋人だった人や恋をしていた人と自分を重ねていればもっと恵も非難できたかもしれない。
それが出来なかったのは彼は自分をしっかりと見つめて愛していると語っていたからだ。口ではなく眼差しで語る。対馬で過ごした夜、二人で話をしていたとき、ずっと何かが懐かしいような、恋しいような気がしていた。運命だという言葉では到底納得できないほどのもの、まるでパズルのピースがハマったような居心地の良さだった。
二人で過ごす休日の朝はいつも心地よい、ご飯が炊けているかといって二人で魚を焼いたりおにぎりを結んでみたり。当たり前のように過ごせる時間の幸福感はこれまでの恋人にはなかった。

――この人と結婚するかもしれない。

互いにそういう年齢であればそう思うのも無理はないだろう。期待しているというよりも必然のように感じる何か。昔仁にいわれた結婚前提に...という言葉はしっかりと交際してからは聞いていなかった。悲しみを抱きしめてくれた彼が海のように受け入れてくれた時に自然と交わした唇と小さな言葉。あれだけで二人は静かに恋人へと発展した。
大人であるのだからそれは特段おかしいことではない。反対に大人になって告白から始まる恋愛の方が一般的には少ない。日本人らしさなのだろうか、言葉にせずともわかるものというのがある。
では今から恋人ですね...なんていう方がおかしいのに、あの時そうしていれば違ったのだろうかと恵は考えてしまう間に、いつの間にか喫茶店の前に辿り着いていた。

今どき流行りの店ではない。
少し古びたようにも感じる味のある店は外装が黒く塗られた木でできており、窓はすべてステンドグラスになっている。ステンドグラスの理由は喫茶店のマスターが昔ステンドグラス職人だったからだという。ステンドグラスの作り方なども本格的に聞かせてもらい、その手間とそれに合いする美しさを理解して仁と二人話をしたと思った。
何度もモーニングを食べに来た。タバコの香りと煙が奥からしてきて、若い人は多くない店内はいつもそれなりの騒々しさがある。仁と二人でモーニングのホットサンドのセットを注文すると野菜とハムとチーズがたっぷりのホットサンドに小さなグラタンとフルーツのたっぷり入ったお皿にサラダ。朝から多いほどの量だがカッティングボードの上に乗ってやってくる。二人で出かけるときは少し贅沢にそれを食べる。
仁も恵も朝はしっかり食べれるタイプで、和食が多い分、外のモーニングやランチはパンなどが多かった。懐かしいなと思ってしまうほど互いに時間が空いていた。あの日、最後にマフラーを置いていった日、その時もしばらく仁とは仕事の忙しさにかまけてあっていなかった。
いつだって怖いものから逃げようとするのは癖なのかもしれないと思いつつ、風に揺れるスカートをみた、いい加減入れという後押しかと思いドアを引くと若いアルバイトの店員さんに声をかけられる、連れがいると思うというとすんなり通される。

あの日もこんな日だった。
いつも仁は先に来ていて、恵が遅れる、待たせたくなくて早く用意をして出てきても彼はいて、どうしてそんなに早いんだというと彼は「恵に会いたいからだ」と平然と言う。恥ずかしいほどに真っすぐと愛を伝える彼に。、どう反応すればいいのかわからずに照れくさくて言葉が出なくなるのに彼は気にせずに歩き出す。
視線の先には仁がいた、背中がみえた、非喫煙の手前の席で、彼は何も頼まずに窓際で座っていた。時刻は十六時で外の光が店内に差し込んでいて向かいの席がキラキラとステンドグラスの光を反射させて光る。
仁はそれを綺麗だといって、そこに座る恵を嬉しそうに眺めていた。今どきそんなにも人を愛おしく見る人がいるのだろうかと恵は戸惑った。受け止めるのには彼の愛が大きいからだ。

「お待たせしました」

小さく足音を立てて近付くと仁の背筋がさらに伸びる、なにもせずに外を眺めるだけの彼はどれほど待っていたのだろうか、もしこなければ閉店までずっといたのだろうか。そうだろうなと恵は一人納得する。
まるでハチ公のようにただ一人を待ち続ける彼を知ることもないのだろうと恵は思いつつ席についてメニューもみずに何にするかと話した。ちょうど水を持ってきた店員に仁はホットコーヒーをひとつといったあと、恵をみてなにも返事を聞かずにホットのカフェオレだといった。なにもいわないのに彼にはわかる、アイスよりもホットがいい、コーヒーよりもカフェオレが好き、砂糖は一つで、熱いと飲めないから少し冷ましてから飲む。全部知られている。
それが愛でなければ何かと感じながらも互いの前に置かれた熱いドリンクをみつめた、ティーカップはマスターの趣味で選ばれたひとつで、提供される一人一人、全員が異なるもので、今日の恵には白地に桜が、仁には海のような深い色合いのものが。

「冗談や嘘だと捉えられもいい」

ようやく口を開いた仁に恵は彼を見つめた。
仁もそれを話すのは恵が初めてに等しいという。
等しいとはどういうことなのかと聞くと彼は至極真っ当に恵をみて告げる。

「前世の記憶がある」

前世...その単語に恵は自分の以前の生についてかと理解する。よく占いなどで前世についての話が出てくるがあんなものは良くても半信半疑なものだが、仁の話が冗談でないことは彼の今まででわかっている。
だが、その前世にどんな関係があるのかと恵はようやく冷めたカフェオレを飲みながら感じる頃、仁は恵を悲しそうに愛おしそうにみつめていう。

「俺たちは夫婦だった」
「いつですか」
「八百年前対馬で、わかりやすくいえば、蒙古の襲来があったときだ」

嘘だと思ってくれてもいいと仁も恵に告げるのはこの話が普通に話せば当たり前に正気を疑われるからだ。彼だって自分でわかっていながらこの場で話すということは本気なのだと恵は感じた。
真実か嘘かの判断は今はできない、それなら仁の話を聞きたかった、それに夫婦だったといわれたのは悪い気分ではない。反対にどこか納得も行く気がした。初めて出会った頃から、彼は落ち着く相手だったから。

「真偽を問うつもりはありません、ですが話を聞きたいです」

あなたが私に執着する理由も、その時の自分たちも、と恵がいえば仁は安心した。恵だから話せる。彼女はきっとこの話をどう受け止めるのかはわからないがきっと聞いてくれると思っていたから。
仁はその返事に小さくうなずいて、一度唇をコーヒーで濡らすと話を始める。

「八百年前俺たちは武士の夫婦で俺は君を二度も守れなかった」
「二度...ですか?」
「一度目は蒙古襲来の時、俺たちは襲来された際に共にいなかった」

仁は戦場へ、恵はそれを見送ったから、という仁に納得できる。八百年といえばおおよそ鎌倉時代ごろ、元寇といえるだろう、恵も対馬出身であるため、あの土地の歴史は学んでいる。惨敗といっていい結果だったはずだ。生き残ったということなのかと恵は歴史を思い出しながら話を聞くとき、蒙古襲来を受けても生きていた自分を不思議がった。

「俺はあの地で唯一生き残り、そして俺の名が知られお前は村の人間の代わりに捕まった、そして傷つけられたのが一度、そして二度目は対馬を去った後、別の土地で殺された」
「...別の土地って」
「蝦夷地...北海道だ、俺たちは子宝に恵まれ静かに暮らしたがお前は殺されたんだ」

そうつぶやく仁は顔を伏せる、恵が重なった、あの日の彼女と今の彼女の顔は同じで、声も、仕草もすべてが同じだった。
苦しそうな仁をみて恵は彼の手を取った。そして顔を覗き見て告げる。

「教えてください、私たちがどうして夫婦になったのか、そして最後を...ちゃんと知りたいんです」

何も変わらないことはわかっている、それでも仁の苦しみの理由をすべて知りたい、彼だけが知る過去の自分も何もかもをだ。仁の瞳は少しだけ揺れていた。そして恵を見つめて、ちゃんと初めから話すと告げた。例えそれがどんなに悲しい思い出だとしても...。