第七話


時刻は既に十九時を過ぎていた。恵は仁を連れて公園にやってきては二人はベンチに座り黙り込んでいた。なにをいうのが正解なのか恵にはわからず、仁も胸は軽くなったが彼女の重荷になることはわかった。
四月の夜は少しだけ遅いが、それでも十九時にもなればすっかりと真っ暗で子供はおらず、散歩をしたり帰路につく人が見えた。本来ならコーヒー片手でもよかったが既に飲んでいた二人にはそれもいえずにベンチで隣で座り合うだけだった。

「すまなかった、こんなことを言われも困るだろう。ただの妄言だと思ってくれて構わないんだ」

恵はその言葉にそんな事ができるわけがないと思った。
あの時自然に出た言葉も、仁に対する懐かしさと安心感、そのすべてが明確な証拠ではなくても、何かしらを感じるのだ、本能が――魂が、この人と数百年前夫婦だったのだと理解していた。嘘偽りもない。
戸惑いはあるが恵は仁を疑う気もなければ、何を答えるのかを悩んでいるだけで、彼の手を取ってしっかりと返事をする。

「はっきりとなにがあってというわけじゃないですが信じます、境井さんの言葉が嘘じゃないって感じるんです」
「感じる?」
「...馬鹿馬鹿しいけど、心でそう思うんです」

恵も仁も数字を信じる人間だ、オカルトを信じるタイプではない。
論理に基づいている手のタイプで、仁の記憶がなければ互いに前世についても呆れて聞いてしまう人間だっただろう。冷めたわけではないが現実主義者であるのだ。
だが、それでも仁が覚えている記憶を聞いた恵はそれを嘘ではないと、明確な証拠も出せないが感じた。自分と仁が夫婦であり、悲しい過去を辿ったあの日。
手に取った仁の手を見ると、何故か傷が少ないと思ってしまうのはきっと記憶を聞いてしまったせいで、恵は今の傷のない仁の手に安心した。そして彼に告げていなかったことを自分のことを伝えなければならないといった。

「私は今の世界でもあなたが思うような綺麗な人間じゃありません」
「そんなことは望んでいない」

仁ならそういうことはわかっているが恵は懺悔した。
以前の恋人に別れ際に乱暴をされ、その傷心から全てを諦めたこと、そして以前、仁をハメた営業部長を騙したことと彼に触れられたこと、そちらは未遂だったが、あの時もはっきりと仁の顔が浮かんだ。彼にも触れられたこともない場所を嫌悪する人間に触れられること。仁が自分の身体を大切にして、婚前には触れないといえど、自分はそんな人間ではないということ。

「私はあなたを守るために必要ならきっとどんなことも今世でもできてしまう」

綺麗な花のように扱われてもそういう汚い人間ですと恵は泣きそうに告げた。
きっと仁は自分の為になにをしたのかわかっているが、その詳細など知る由もないだろう。友人の知り合いに頼んで相手のパソコンをハッキングしたことや、夜更けに営業部のフロアに潜んだことも、相手の弱点や弱みを握るためならどこにだっていける。自分は蛇のような女であり。醜く、きっと蒙古の襲来を受けた際もずっとそうだった。
民を守るためと動く仁の背中だけを見て、ただ彼に幻滅されないように自分は仁のためだけに動いており、そのためならどんなことだってしたはずだと。きっとどれだけ生まれ変わったとしても、そこに境井仁という人間がいる以上、自分は卑劣な人間になってしまうのだという。

「誰を映していても、誰を好きでも、誰を想っていてもいい、隣にいさせてくれるなら...私はなんだっていいと思う女です」

あなたの足に縋り付いてしまう愚かな女だと背を丸めて仁の手に重ねた自分の手の甲に額を置いた恵は自分がこんなにも浅ましい人間であったのだと知ってしまう。都合のいい女でもいい。仁が望むならどんな形になってもいいといえる。そんな卑怯な女であると涙する彼女に仁は彼女を傷つける者すべてが憎らしく、殺してしまいたいと深く感じた。
そして目の前で自分の為に涙する彼女を手放すこともなければ、二度とどこにもいかせたくないと思えた。自分の家に閉じ込めて自分だけを見て自分だけと話をして生きてほしいと思うその醜い欲望をよく理解していた。

「顔を上げてくれ恵、その言葉は俺がいうべき言葉なんだ」

恋人でも夫婦でも友人でなくてもいい、それでもほんの少し彼女の人生の隅にいさせてくれるだけで仁は幸せであるのに、もう互いに中心から互いをずらせないことはわかっている。涙する恵の目元を優しく親指で拭った。今の恵は泣き虫だと感じて愛おしいと思った。彼女の小さな変化があるように、きっと仁もあの頃からずっと変わったのだ。それが時間というものであり、必ずしも同じものがあるわけではない。少しずつ劣化して壊れて再構築されて、そして新しい自分たちがいる。

「俺は過去と今のお前を重ねていた。だがはっきり言える、今の恵が好きだ、恵だから好きなんだと言える、だからどうか俺と」

仁はベンチから降りて、多分こうだっただろうかと片膝をついた。
武士の頃でもこんなことはあまりしなかった。両膝をついてしっかりと相手を見据えるのに、今どきはそうじゃないのだと思った。本来は指輪のひとつでも用意しているはずが生憎と仁には指輪が用意できていなかった。
だから、手を差し伸べるだけ。

「結婚を前提にもう一度付き合ってください」

本当は結婚を申し込みたかったが段階がまだ必要だと思うが、恵は立ち上がり仁の手を取り彼を立ち上がらせる。それだけで仁は幸せだと感じるのに彼女は仁の胸に抱き着いた。力強く彼を確かめるように抱きしめる。

「結婚します」

あなたの奥さんがいいですとはっきりと告げたことに仁は目を丸くして見下ろすと恵は微笑んだ、仁もあぁそうだと笑い返すと抱きしめてあの頃のように接吻した、四月の桜が散って、二人の上に舞い落ちる。
恵の桜色のスカートが揺れた、二人はただ静かに、愛おしいと感じ合い、もう二度と離れないと誓い合った。