第二話
恵が入社をしてきた日の夜、仁は月曜日にも関わらず、仕事を定時に終えるやいなや、自宅から一駅隣で下車するなり、徒歩十五分の静かな住宅地にある創作居酒屋"小茂田"に入店した。
店の中は月曜日の十九時前である為か、客は一人もいなかった。
「あれ?仁?」
気さくに彼の名前を呼んだのはこの店の女店主のゆなだった。
ゆなは仁と長い付き合いであり、なおかつ彼の心から信頼できる友人だった。
「え?境井さん?」
次に聞こえた声は明るい若い男性の声で、奥の暖簾から現れたのは、ゆなの弟のたかだった。
姉弟で経営しているこの小さな居酒屋は、月曜日であるため人はいなかったが、金曜日や土日になれば溢れんばかりの人となる。
居酒屋"小茂田"は対馬から直で貰った新鮮な魚や野菜を主に取り扱った創作居酒屋であり。元割烹料理をしていた料理人のたかが独立をした際に、姉であるゆなと共に経営しているのである。
生まれが対馬であった二人は本土に出てからも思い入れの強い対馬の食材はもちろんだが、酒なども取り寄せており、店内の壁にはありとあらゆる日本酒が立ち並び、そうした所もこの店にマニアを寄せ付けるものだった。
「月曜日から来ちゃってどうしたんだい、なんかやらかしたのかい?」
「いや…そういうわけじゃない、兎に角、酒とツマミをくれ」
「あいよ」
そう言って分かりきったようにゆなは仁がボトルでキープしている対馬の銘酒をカウンターに座った彼の前に置いてやる。本来は徳利やおちょこを用意してやるが、ゆなにとって仁は客よりも友人だった。
仁も文句を言わずにカウンター越しにたかから適当なグラスと水を貰って割った。酒を飲むのはいいが後に響くのは困るため、せめてもの水割りだ。
たかは小さな小鉢に今日のつき出しとして、ごぼうとこんにゃくの煮物を置いてくれた。味の染みていい色をしたごぼうとこんにゃくに酒を進めさせてくれそうな唐辛子の赤色が魅力的だった。
ゆなも隣に腰掛けて仁のボトルから酒を貰うと、二人はグラスを掲げて静かに飲み、仁はしっかりと挨拶をして箸をつける。思い悩むことはもちろん良いが出された料理を放置するのは話が違う。
「それでどうしたのさ」
もう一度問いかけたゆなは様子のおかしな仁に心底心配した。
どんな客やどんな理不尽にも基本的に冷静に対処する男が、こんなにも動揺するのは叔父上関係か?と思ったからだ。
しかし仁はこんにゃくを口に含んで飲み込んだ後、少し間を置いて酒を一口飲んで告げる。
「恵に…会ったんだ…」
その言葉にゆなは目を丸くした。
「恵…って、あの…?」
「あぁ……狭間恵だと、名乗っていた」
明らかに動揺した仁にゆなも驚いた。
その理由は仁が数百年前の記憶を持っていたように、ゆなも同じ記憶を持っていたからだ。彼女の記憶が思い出されたのは小さな頃、弟のたかが交通事故に遭いかけた時だった。
その瞬間に、あの日守れなかった弟の記憶を取り戻し、今世では必ず幸せに、そして大切にしてやろうと強く決めて、大人になり、弟と店を持とうとした時、仁に出会い親身になってもらい、助けてもらったのだった。
前世でも友であった二人は、今世でも変わらぬ友情を持ち、店と家が近いこともあって、ますます親睦を深めていた。
その中で仁が告げた、恵という名前をゆなも以前の記憶から知っていた。
その頃の恵は、狭間ではなく、境井の姓を名乗っており。
仁と恵は夫婦であった。
男女の仲に興味などなかったゆなだが、仁と恵の夫婦としての絆については強い思いを抱いていた。自分が男に人生を注ぐことはないが、もし理想の夫婦や恋人を挙げるなら、この二人以上はいなかった。
暗い道へと進む夫の手を優しく握り、提灯を手にして共に進んでやろうとしていた女。あんなにも良い妻は前世も今世も恵以上はいない。
『あんた、仁について行っても苦しいだけだよ、今ならまだ志村殿の所へ帰れるんだから帰りな』
仁が言えぬことをゆなは女として告げた。
何も知らなかったからこそ、箱入りの武士の妻として扱ったのに、女はその雰囲気とは反対に強い眼差しでゆなを見つめて返事をした。
『私の未来には仁様しかおりません。あの方のいない場所にいる意味はないのです……それに、あの方はきっと一人じゃ耐え切れませんから、私が半分支えなければなりませんので』
そういった恵は強い女だと確信した。
仁が見合いだけで出会ったとはいえ惚れる理由を理解したのだ。
黙り込む二人にカウンターからは、アカアマダイの塩焼きが出された。対馬から今朝仕入れたばかりで、刺身でもして何人前かに分けて出す予定だったが、たかは仁が来てしまうといつも最大級のもてなしをしてしまいがちになる。
昔も今も、たかはずっと姉と仁を深く尊敬し、感謝していることが二人には幸福なことだった。
「恵さんって、あの例の方ですよね、ついにお会いできたんですか?すごいなぁ…まるでドラマみたい」
嬉しそうに笑顔でそういったたかも、仁の夢物語のような話を聞いており、信じていた。
数百年前に共に過ごした最愛の妻、仁は三十二歳の人生の中でずっと彼女を探しており、それが故に他の女性に靡くことは出来なかった。恵以外を愛せず、恵以外は眼中にもない。一度諦めて別の女性と共になろうとした経験もあったが、それは当然上手くいかなかった。
仁の記憶全てに恵が重なっており、それは呪いのようだったが、仁は呪いでも構わないから縛られていたかったと思った。
朝に見た数分間だけの、あの姿。
まるで青海の実家の庭で佇んでいた姿と同じ儚さと美しさであり、触れていたかったと感じる。
「綺麗だった、今も昔もあいつは本当に可憐で麗しい」
「ちょっとこんなところで惚気けないでよ」
「危なかった、もう少しあの手を握っていたら俺は確実に婚約を求めていただろう」
「そりゃやばいよ、あっちは記憶あるの?」
その言葉に仁はあの反応は無さそうだと首を振った。当たり前だろうとゆなも思う。人は何度も繰り返し転生をするとはいうが、記憶を持っていることなど普通はないだろうと神を信じない彼女も思った。
自分と仁の記憶が残っているのは前世の罪を償うためでもあるだろうとさえ考えるほど、仁の罪は軽いものでもなければ、それで救われた人がいるのも確実だった。
「でもそれでいい、もし記憶があれば、俺から逃げるかもしれない」
「……今のその子は逃げないって?」
「いや、逃さないだけだ、必ず手にしたい」
「武士が聞いて呆れる、流石は冥人様」
そういわれてしまうと仁は苦笑いをした。
元から彼女がいなければ生きる意味も分からないほどだった。
それがいま目の前にあるのなら望みたいと思うのは当たり前のことであり、もしそれを拒絶されるなら、それはそれで構わないと仁は思いつつアカアマダイの目を食べた。そういえば恵もアカアマダイの塩焼きを作ってくれたなと思い出すと、その懐かしさに胸を打つのだった。