第三話


あの出会いから二週間、仁が恵に会えることは滅多にない。現状一課は総勢十四名、それぞれチームや個人で別々の案件やクライアントの確保などに回っており忙しい。
恵に会いたいと思いつつもその理由は無かったし、仁たち都市開発営業部のフロアは五階で、デザイナーフロアは上の九階だった。下の階ならまだと思いつつも上の階には余計に行く理由がない。

昼時、十二時に社内にいるのも珍しくゆっくりと昼が取れそうだと思い仁は弁当を持って上の十一階の食堂に向かおうとすると、部下たちも珍しく揃って昼を食べられそうだからと言って共にエレベーターに乗り込んだ。
あそこのクライアントは、あの案件は、例の場所ですけど。と仕事の話をしていると九階でエレベーターが止まる。デザイン戦略本部のフロアであり、エレベーターのドアが開くだけで、ほかのフロアとはまた違う雰囲気が見えている。
思わず仁は中を覗くようにみるが、目当ての相手は見えなかった。フロアは広く奥まで続いているのだから仕方がないと思いつつ、内心残念に思いながら仁はあまり気にせずに食事をした。

しかし仁に転機が訪れたのは一週間後のことだった。
それは以前から上がっていた企画の一件であり、本格的に動くこととなっていた。本来は仁が担当せずに部下の一人を予定していたが、クライアント側のデザイン指定や細かな依頼があった為、デザイン戦略本部との話し合いの末の決定となった。

再開発案件の一つであり、商業施設のデザインだった。
駅前の古い施設を取り壊し、一新させるというもので、大きさ自体は大したものではないが、周辺一体を大きく変えることとなり、そのコンセプトの一つとして多様なデザインとされ、様々なデザインの施設を作りたいということだった。
アーティスティックなものから、落ち着いたシンプルなものまで、施設ごとのコンセプトを作りたいとの事で、社内のデザイナーたちのポートフォリオを眺めてはコンセプトに合わせる中、その一件を恵に任せようということになったのである。
そのため、一課の営業マンたちはそれぞれがデザイナー達と連携を取るのだが、仁の担当が新しく入ったばかりの恵になるのは必然的だ。入社まもなくの案件。建物の大きさは関係ないが全体的な案件としては大きい。若いが実力のある主任の仁が任されるのは当然だった。

一課にも課長はいるものの、いかんせん仁よりも影が薄い上にやる気が少し薄い。実質仁が課長のようなものだったが、年功序列の会社では誰も文句は言えない。
そんなことは特に気にせずに、仁はそれなりに厚いファイルを見て、小さく息を吐く。

──担当デザイナー:意匠デザイン室 狭間恵

思わず無意識で名前を撫でる。
狭間の姓であった彼女はいつぶりだろうか。

あの頃──もう八百年以上前の昔、今と同じ、叔父の志村に命じられ見合いをすることとなった。見合いというよりも結婚が確定したもので顔合わせだった。狭間という姓は知っていた。武士の家系にいたが父を亡くし、結婚直前に夫となるはずの男を亡くした女。
不幸で、厄がついた女、そういわれているのを耳にした。
両親を幼くして亡くした仁にはちょうど良い相手だと思った。
叔父の志村は無理強いはしないというが、志村の顔に泥を塗るつもりはないとして仁はどんな相手だろうと娶ろうと決めていた。
それは襖を開けてすぐに考えを改めた。まるで花のように美しい娘だったと感じた。儚くて今にも手折れてしまいそうな花。

美しかった。

それは記憶の中の恵についてである。
仁は数週間前に顔を合わせた恵を思い出す。物静かであの頃と変わらぬ態度をした女だった。ファイルの文字を読んでは公私混同は危険だと言い聞かせ、彼はエレベーターへと向かい、九階のボタンを押した。

五階の開発営業本部のフロアとは打って変わった騒がしさがそこにはある。
開発営業本部では常に電話やパソコン、コピー機の音が鳴り響き、誰かしら、いや全員が忙しない中で、九階のデザイン戦略本部は比較的静かだった。広いオフィスフロアの先に志村建設お抱えのデザイナーたち個人のオフィスがガラス張りの個室となっている。
意匠デザイン室はそれまで志村建設でデザイナーとして活動していたメンバーが三名、意匠デザイン室設立時に一人、さらに昨年の十月頃に入社した別会社から引き抜いたデザイナー一人、そして新しく来た恵を含めた計六名である。空間デザイン室といったオフィスや個人宅向けの担当もいるが、そちらも六名、そしてその下に位置するデザイン戦略部のデザイナーたちが二十名弱、広々としているがコンセプトボードや色見本、ほかのフロアと違う色鮮やかさがそこにあり。
仁がフロアに足を運ぶと、営業一課の仁だと気付いた一人が声をかけた。

「意匠デザイナーの狭間さんは?」
「彼女なら一番奥ですよ、ご依頼で?」
「あぁ前から出てた商業施設の一件をな」

なるほどと納得した相手の案内に感謝して仁は足を進める。デザイナーたちはみんな独特の世界観と思考を持っている。正直なところ仁にはあまり分からない世界だ。服装も私服okで自由であるのは志村が自分にはない独創的な世界を作り上げて欲しいからという。
それを聞いた時、正直なところ叔父上も変わったと思うが、八百年も先の世界で、同じ見た目と中身でも時代が変わるように考えが変わるのも当然かと思った。反対に過去に囚われているのは自分ばかりだとも理解している。
とはいえ志村建設の雰囲気を壊すような特段な奇抜性はみんな無い。髪色やちょっとした服装などはあるが、常識は欠かない。それでも派手なネクタイや靴下にスカーフやピアスの数は些かと思いつつ、仁は意匠デザイナーたちのガラス張りの部屋の中を覗く。

個人のオフィスの中もその人の世界観や癖があると思う中、目に入った部屋はあまりにも質素だった。
引っ越してきたばかりのようにダンボールが置かれているが、それは反対にいつでも出て行けるようにも見える。
広さは四畳ほどの広さで、部屋の中には備え付けの机とパソコン、およそ会社から支給された本棚はシックなマットブラックで、そこにはデザイン関係の資料が並んでいる。椅子に座って真剣な眼差しで図面に視線を落としている彼女は立ち上がり本棚にいく。
初日とは違う少しはラフに見えるスーツ姿。ライトブラウンの明るいジャケットとパンツに柔らかい印象を受けるブラウス。下ろした長い髪に黒縁の分厚いメガネの下の眼差しはやはり少し伏し目がちで影がある。
暗い印象を受けそうだった割には背筋はしっかりと伸ばされており、背中から足のラインが美しく、仁は思わず見惚れていた。

洗濯物を干す時の背中や、弓を引く姿によく見惚れていたことを思い出す。
武士の家系の娘であった為、文武両道で妻としても優れた彼女のその背中は惚れ惚れするほど美しい。
よく女は男の背中に安心するというが、仁もあの頃の恵の背中に安心した。あんなにも華奢だというのに、美しく堂々とした背中は勇ましく。心から任せられると思ったほどだ。

だが、仁はすぐにその考えをやめて、頭を軽く横に振って開いていたドアを軽くノックする。ガラスがコンコンと高い音を立てることに振り向いた恵は、相手を見て不思議そうな表情をしていたが、仁は彼女のオフィスに入る。

「お疲れ様です、境井主任、どうされましたか?」
「今お時間よろしいですか?仕事の話をしたくて」
「構いません、いかがされましたでしょうか」

恵はテーブルの上をサッと片付ける。無駄なものは何も出していないから簡単に避けるだけで何も無くなり、彼女は慌てて椅子を出そうとするが仁は立っていても平気だと告げる。
その代わりにテーブルにあった図面と、パソコンの画面、そしてカレンダーをみた上で手の中の資料の入ったファイルを彼女に手渡す。

「来月から動き出す再開発案件があります。都市再開発営業部と、意匠デザイン室の共同案件です、お話は伺っていましたか?」
「薄らと聞いていますが、私が担当するかはわからないとか……」
「本件につきまして、この土地で四件ほどの小さな商業施設を建てる予定です。それぞれコンセプトを持っており、そちらを重視しているそうです。その中の一件を狭間さんにお願いしたいんですが」

狭間と呼ぶことは妙な気分だった。
あんなにも恵と呼んでいたのに、それが本当に夢であっただけのようで、隣にいるのに遠く感じる。今もあと数センチ、手を伸ばせば触れられる。抱き締めて愛を語ることが出来たものは、今ではただの夢。

恵は真剣に資料を読みながら小さく頷いたり呟いたりとしている。その仕草も全てあの頃と同じだと感じていると「……境井主任?」と恐る恐る声をかけられ、自分がすっかりぼーっとしていた事に気付いて返されたファイルを受け取る。

「コンセプトなどは承知しました、期日なども問題ないかと思われますが……」
「思われますが?」
「私で、よろしいのでしょうか……」

恵は不安そうに言った。志村に言われていたことを思い出す。
意見を言わず、引っ込み思案なところがある。
簡単にいえば、自信がないのだろう。
こんなにも背筋がしっかりしているのになぜ?と思うが彼女は真剣に不安な表情をしており、謙虚や謙遜ではないのだとわかる。
しかし仁も彼女を今回の件で選んだ理由は個人の意見では決してない。反対にそこまで公私混同するくらいなら彼は仕事をやめるだろう。恋をするのと仕事は違うと自分でもしっかりと理解しているからこそ、担当する都市開発営業部と戦略デザイナー部は入念に話し合いをして、どのデザイナーに託すかと長時間会議を繰り返したものだ。

「はい、狭間さんのポートフォリオをみて、社内会議の末に決定しました。私個人の判断ではありません」

その言葉を聞いて安心したように小さく息を吐く恵は仁個人ではないことや、しっかりと会議の末の決定だという言葉に胸を撫で下ろす。

「分かりました。至らない点も多いかと思いますが、精一杯務めさせていただきます」

そういって小さく微笑んだ彼女をあの頃のように抱き寄せて口付けられたらどれだけ嬉しいだろうか。
そんなことを考えることに申し訳なさを感じて、微かに視線を逸らして、今後の打ち合わせや、クライアント同席の際や、相談事は全て仁が担当することを告げると彼女は頷いて、今現状気になる点を聞いてはメモをする。
納期や明確なコンセプト、その他資料は社内メールに欲しいということ、それぞれの意見をしっかり交換しあっては、また詳細打ち合わせをしようと約束を取り付けて仁は挨拶をしてその場を後にする。
彼女のオフィスが見えなくなる手前で視線をやると、彼女は真剣な眼差しで早速席に着いていた。それでいいのだと仁は言い聞かせる。
いまはただの仕事仲間、自分にとっての"夢"に近い相手。
それでも今からの仕事として触れ合うことについて微かに喜びを抱いて彼はエレベーターに乗り込んで五階に戻る。この案件は必ず成功させようと思いながら。