第四話


木曜日の夜、居酒屋"小茂田"は既に客で賑わっていた。
小さな土木建築で働いている大工の竜三は仕事終わりのその身なりで店の戸を開けるなり、カウンター席で見覚えのある姿が目に入り、真っ先にその隣に腰掛けるとカウンターにビールを頼んだ。
何も言わずに俯いたまま、日本酒を飲んでいる隣の男を眺めていると、ビールを手にしたゆなが竜三の所へやってくる。

「どうしたんだよこいつ」
「女にフラれたって」
「例の?早くねぇか?」

竜三は仁の幼馴染だった、中学校まで共に過ごし、高校は家庭の事情で行けずそこから疎遠になり、大人になってから土木建設会社"菅笠組"として働いていたが時に再会した。経営が傾きかけて上が夜逃げをして社員たちが路頭に迷いかけた時、仁が志村に声をかけて、いまでは志村建設の子会社扱いではあるが、しっかりと彼らは働いていた。
以前に比べても安定した食と環境を得られた彼らは志村建設に多大なる恩義を感じており、ビジネスパートナーとして手を組んでおり。当初仁の提案にプライドから跳ね除けた竜三も、仁の真っ直ぐな思いに負けて、自分以外の他の社員を守るためにも、その提案を受けたのだった。

仁にとって竜三はかつて自らが殺した男だ。

自分がもっと素直に、強く彼を引き止めていれば、あんな事にはならなかったと過去を悔やんだからこそ、どんなに跳ね除けられても仁は竜三のプライドを潰してまでしつこく迫ったのだった。

過去のことなど知らない竜三は、この真面目一徹なこの男が幼い頃から子供ながらの恋心を向けられてもなびかず、思春期になって相手に求められても答えず。ただ一言「俺には心に決めた相手がいる」といっていたことに不安さえ覚えた。
どんな相手かも知らず、見たこともない相手を求める仁は一種の狂気にも感じていたものの、以前、竜三が一人で飲みに来た時に仁がついに"運命の相手"と再会したという話を聞いて、本当にいたのかと驚いたものだった。

しかしそれをいわれてから早数週間、仁は俯いて、あからさまに落ち込んでいる様子であったことに、可哀想だがそれも恋だと慰めて、仁の注文していたワカサギの天ぷらを一匹奪ったところ、小さく低い声が聞こえ、なにかと耳を澄ませた。

「まだフラれてはない」
「そう思いたくないだけとか?」
「本当だぞ竜三!俺は決してフラれてはない!!」

珍しく荒れた仁が泥だらけの竜三のシャツの襟首を掴んで揺さぶる為、本当にこの男はその相手の話とくれば暴走する、と思いつつ分かったと返事をした。
この件についてからかうのは良くない、何故なら昔からかって二度、痛い目にあった。
一度目は小学校の頃だったが、殴り合いの喧嘩に発展して互いに本気で怒られた。二度目は中学校の頃、男子だけの柔道の授業で本気で投げられて、あまりにも痛くて病院に行くと肋が一本折れていた、もちろん仁は相当叱られて、志村直々に頭を下げられたほど。
恵という名の女が仁にとって、相当な存在だと理解していた為、あまりからかうのはやめておいたが、再会して早々何があったのかと思っている間に、カウンター越しのたかが朝から仕入れてきた魚で、刺身の盛り合わせを作ってくれたことに目を輝かせる。

「仕事でご一緒出来なかったそうですよ」
「仕事って、同じ会社で向こうデザイナーだろ?」
「そうだ……大したことじゃない」

本格的に今回の企画が動き始めてから、仁は恵と会う機会も話す機会もそりゃあ当然増えた。有難いほどに彼は必要とあらば九階に行ったし、メールで何度もやり取りをした。周りには気合いが入ってますね。と言われる程には力が籠っているのは自分でもわかっていた。

デザイナーのことは何も知らない。
あくまでもクライアントとデザイナーの間にいるのが営業だ。
どんな考えをして、どんな風にデザインするかなど分からない。
その中で同じ企画の別のデザイナーと仁の部下にあたる営業担当が、先日現地へ下見に行ったのだという。通常は個人で行くことが多いが、偶然営業もデザイナーも予定が被った為、せっかくならコンセプトの話し合いもあるからと言って二人で行ったらしい。
もちろんそこには下心はない上に、実際にいいデザインや話が出来て、いい具合に出来そうだと言っていた。

それを聞いた仁はこれを自然に誘える"でぇと"だと認識した。
恵と二人きりで過ごしたいという欲望はあった。だがしかし理由はなかった。同じ部署でもなければ企画も始まったばかり。それなのに突然飲みに行こうと言っても男女であれば不信感を抱かせるのは当たり前のこと。明確な理由が欲しい。と悩んでいた際の棚からぼたもち……というのは少し仁の武士道に反するのだが、男としての欲望はあったのも事実。

そして、それを聞いてすぐに恵と打ち合わせがあった際に仁は恐る恐る声をかけたのだ。それはもう繊細なものに触れるように慎重に。

「現地については既に別のデザイナーの方と行ってまして……」
「そ、そうか」
「すみません、せっかくご提案くださったのに」
「いや、いいんです、ついでにと思っただけですから」

ちなみに別のデザイナーって?と聞くと、同じ企画のもう一人の女性デザイナーで、個性派の一人だった。仁は男でなかっただけよかったと心から思った。そうでなければ嫉妬していたと素直に思ったからだ。
あからさまに静まる仁に、恵も流石になにか悪い事をしたかと少しだけ申し訳なさそうにして「今後またあれば、お声かけしてもよろしいでしょうか?」と控えめに声をかけた。今回、車の免許がないため車で行くと言われたことに有難く乗せてもらったが、営業をしている仁も同じく免許があり、それこそ営業用の専用車があった。

「別の企画の際でも必要なら、いつでも呼んでください」

そういった時点であまりにも分かりやすい反応だったが仁は公にしないが、隠すつもりもないため、問題はなかった。

だが、やはり共に過ごしたかった。
車で一時間半の距離のため、その間を楽しんで、少しお茶でもと言えたかもしれない絶好のチャンスを逃したのは、相当な痛手だと思いつつ、過ぎた過去に仁は小さく息を吐いてワカサギの天ぷらを食べるのだった。

納期はおよそ二ヶ月。
その間にクライアントとも何度か話をした、コンセプトをさらに整えてデザインを練り上げる。仁は営業として予算や建設についての話などを交えて、それぞれ三方向からの意見を擦り合わせていく。
そこがある意味、一番難しい部分でもあるのだろう。
予算を気にせずに好きに出来たら、クライアントの意見なんてなければどんなに楽に自由に出来るかと、社内のベテランデザイナーがよく愚痴をこぼすが、フリーランスでもない雇われデザイナーは仕方なく指示を従うようにしている。

企画が始まって一ヶ月半、納期間近の頃には恵がよく残業しているのを見かけた。仁も外回りをしたり、別の仕事で戦略デザイン本部に足を運ぶのだが、定時を過ぎたあとも恵はよく残っているのが見受けられる。

ある日の夜八時、既に定時からは二時間すぎて、ほとんどの社員が帰っていた。
仁はクライアントとの会議や、自分の仕事の関係で外にいたため、社内に戻ってきた時間も遅く、その上で忘れぬうちにと戦略デザイン本部に求められていた紙資料を届けに静かな九階に来ていた。
誰もいない九階の奥のガラス張りのオフィスの一室、そこだけ明かりが付いており、恵がメガネをかけて髪をひとつに縛り真剣にペンを走らせたり、マウスを動かしたりとしていた。仁は遠巻きにそれを眺めると周囲を見渡した上でコーヒーメーカーに手をやって、恵のオフィスに近付いた。

「随分遅くまで熱心にされてますね」
「こんばんは境井主任、えぇ……中々デザインに悩んでいて」
「よかったら、どうぞ煎茶です」

部屋に現れた仁に驚く様子がなくなっていたのは、それほど二人がこの仕事で親密になれたからだろう。コーヒーではなく煎茶だといわれて受け取る恵は珍しいと思いつつも「煎茶好きなので嬉しいです」と微笑んだ。
仁は知ってる、と胸の内だけで呟いた。
自分もコーヒーは飲むが、どちらかといえばお茶派だった。それに恵のテーブルの上には既に冷めきったコーヒーが置いてある。一日に何杯も飲むのだろうが、たまには味を変えた上でほっと一息つく方がいいと判断しただけの事だった。

「それで、どうなってますか?」
「もうすぐ納期が近いんですけど、どうも中々固まらなくって」

椅子に座った恵がマウスを操作してコンセプトアートを見せる。
いくつかの候補が当初あったものの、その中から絞り込んだものを手直ししている形で、大きくは変わらないが、窓やドアの位置、一つの色が変わるだけで印象が変わる。
特に恵が担当する場所は自然と進化と未来をテーマとしていた。
明るいが華々しすぎない、落ち着いているがスタイリッシュで先鋭的。求められることはシンプルなのにそのせい反対。しかし恵はクライアントの言葉を丁寧に受け取っていた。

「この手前に桜の木を植えるそうでして、そうするとこっちの方がいいんでしょうけど、そうすると冬場は少し寂しいかな?って思いますし……」

真剣に話をする恵に仁も思わず前のめりになって画面を見て話を聞いていた。確かにシミュレーションやコンセプトアートでは、クライアントが言っていたことを汲み取ると恵のいうようになってしまう。

「その中でこれが一番かと思うんですけど」

言葉は出なかった。
それは美しいから言葉にできないのではなく、プロのデザイナー相手に伝えられる言葉を持っていないからだ。
シンプルで素直な言葉しか出せずに仁は「いいな、すごくいい」と少し興奮気味に、恵に向くと、互いの肩が触れて、モニターをみていた互いの顔はとても近かった。思うよりもずっと近くて、仁が行動すればキスをしてしまいそうな距離感。誰かに勘違いされてもおかしくはない距離感。
大きな恵の瞳がモニターに反射した光を吸い込んでいるが、その瞳には仁を大きく捉えていた。

「す、すまん」
「いえ……平気です」

熱中しすぎたと慌てて二歩後ろに下がった仁に恵は何も文句を言わなかった。反対にあんなに熱心に自分の作品を見てくれる彼に視線を奪われたのは恵の方だった。
外はすっかりと暗くなっており、仁は時計を見ると九時を回ってしまいそうで、そろそろ帰った方がいいと告げて、送ることは少し違う気がして声をかけられずに出ていこうとする時、恵から彼に声をかけた。

「境井主任、来週のクライアント会議、必ずOKもらいましょうね」
「……あぁ」

それじゃあお疲れ様。
そういった仁は境井主任と呼ばれるのにも慣れた。
エレベーターに乗り込んで、ふと息を吐き出した、近い距離で感じた彼女の石鹸の香りは違う。けれど自分を見た時のあの眼差しは変わらない。少しだけ触れた肩が今もまだ恋しいと思うのだった。

その頃、一人オフィスに残された恵は肩を撫でた。
境井仁は不思議な人だと感じた。
初めて見たときから、彼はまるで何かを見つけたような目をした。
それが怖いと思えたのに、仕事をしていく中で彼の誠実さと真面目さ、そして隠すつもりも無さそうなあの恋心が怖くも、悪いと思えない自分が嫌だった。部屋の中にはダンボール箱がある。その中身を全て出し切るのはまだできないと思いつつ、彼女は最後の仕上げをするためにモニターを見つめる。煎茶は少しぬるくなっていた。