第五話
その日は恵にとっては重要な日となる。
クライアントとの会議が午後にある。この二ヶ月ほど自分自身でずっと話し合い考えて意見を出して、時に衝突して、時に悔しい思いをして、時に自分の力不足を嘆いて。それも今日で決着をつけたい。いや、つけてみせると恵は自宅の中でパソコンを閉じた。
時刻は深夜二時、本来はもっと早くに寝て明日に備えていたかったが不安で何度も見返して、本当に大丈夫なのかと考えていた。同じものばかりをずっと見ているせいか、どうしてもどこかしらに違和感がある気がした。
それでも今回のデザインでパートナーとなってくれた営業担当の境井は真剣に見てくれていた。彼は信じられる営業だと感じつつも流石に寝ようと考えた。意匠デザイナー室はほとんど個人であるため、フレックスではあるが昼前には出社したい。いや、少しランチでも食べて力を付けていこう。そう思いながら彼女は不安を抱いて眠りについた、自分の意見をちゃんと明日いえるだろうかと思って。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です境井主任」
「……今日のトップスお似合いですね」
クライアントとの会議の前に戦略デザイン部門の恵のオフィスに来た仁は最終チェックをした、彼が見るのはデザインではなく、本当にこの建物が作れるかどうかの現実的なものだ。
恵はもう大丈夫なはずだと言い聞かせつつ、PCモニターをみる仁の眼差しにドキドキしていた、もしここでダメだと彼自体が判断すれば終わりだからだ。何度も入念に彼の話し合ってきた為、そんなことは無いはずだが不安になる。
一通りみる彼は指差し確認もしっかり行い頷いては問題ないと姿勢を戻して恵をみた。
「正直今回のクライアントは癖が強いです、私達以外のチームも随分と手を焼かされたと報告を受けてます。ですがこのデザインと内容で文句をいうことはない……いや、文句はいわせません」
「それは難しいのでは」
「言わせませんよ、正直リテイクだけで何回やらされているか、私は構いませんが狭間さんだって、これ以上もう最高には出来ないでしょう」
というより、いじりたくも無さそうだ、とハッキリ言われるとそうだった。確かに当初はコンセプトテーマを貰っていてもフワフワしていたが、それが絞られて形をしっかりと作っていく中で、もうこれ以上のデザインはないと思っている。
だが最終的にはクライアントの判断。
いつも恵をじっくりと眺めては、デザインではなく人となりを見るような眼差しが苦手で、その中には若干の性別への偏見や差別が含まれているのを感じた。実際に一度相手のクライアントから恵に対して「女性のデザインって柔らかいんですよね、男性がデザインするともう少しスタイリッシュっていうか、ねぇ?」といわれたとき、彼女はあなたに何がわかるんだと内心反論した。
デザインに男も女もない。好みとセンスだ。
クライアント側は決まって三名、少し横柄な中年男性と仁くらいの年齢の男性と同じくらいの女性。時代錯誤な一人の言葉に二人が大変申し訳なさそうな顔をしたので、おおよそずっとそんな感じなのだろうと察した。
だが、仁はいつも真っ向から立ち向かってくれた。デザイナーとして意見できない分、数字という名の営業らしく信頼できる物を武器にする。
『デザインの観点は私には分かりかねますが性別は関係ないかと思われます、特に狭間のデザインは男女関係なく万人受けする上に、新しいものをみせてくれると他の者からも評価を受けています』
まだ始まったばかりで、希望があるなら言えばいい、と仁はクライアントにやんわりと伝えた。そうしてくれたからこそ、互いの意見をちゃんと出し合って納得のいく形に落ち着いてこれたのだ。
「境井主任が担当になってくださって助かっています」
「私も狭間さんと仕事が出来て嬉しいですよ、でもそれ以上の言葉はOKを貰えてからにしましょう」
「そうですね、それの境井主任」
「なんですか」
「ネクタイの色、とても素敵です」
そういわれた仁は目を丸くしたあと珍しく照れたように顔を赤くさせて「どうも」と返事をした。
会議室は会社の最上階となる十二階、見晴らしがよく、午後の日差しが柔らかく部屋に差し込んでおり、オフィス街からみえる街とその奥に見える海が特徴的だった。
楕円形のテーブルを挟んで、クライアント側が三名。志村建設側は仁と恵、そして設計部から一名が同席している。
プロジェクターに映し出されたのは、恵がここ一ヶ月半、ほとんど寝る間も削って練り上げた最終案だった。正直なところ非の打ち所がないほど完璧に仕上がっていると志村建設側もクライアント側も感じている。このまま話を上手く進めて行けそうだと思っていたが、一通り説明を受けたクライアント側の一人、代表となる横柄な中年の男が腕を組んであからさまな態度を見せる。
ほかの二名は肯定的な言葉を小さく漏らしているが、中年の男はうーん、と言葉を選ぶように、探るようにしていた。
「全体としてはいいと思いますよ、ただねぇ……正直に言うと、少し“尖りすぎている”印象があります、未来的なのはいい。ただ、我々が想定している利用層はもう少し保守的です。この外観だと、入りづらいと感じる人もいると思うんですよ」
恵はなにも言わず、瞬きもせずに話を聞いているのを仁はなんと返すのか黙って見ていた。デザインの話について意見できることは何もない。考えて練り上げたのは彼女であればその本心を相手に伝える以外はない。
恵は手元の水を一口飲んだ。唇を濡らしてしっかりと相手を見つめる。まるで戦うような強い眼差し。決して今日負ける気はないと戦場に立つ女の姿に仁はかつての彼女を感じる。
「確かに、保守的という視点は重要です。ですが今回の施設は、既存の商業施設との差別化が前提条件でした」
そういって彼女は画面を切り替えて比較資料を前方に映す。
「周辺半径五キロ圏内には、同系統の施設が三件あります。その全てが“安心感”を重視したデザインです。その中で同じ方向性を選ぶことは、短期的には無難かもしれません。ですが五年、十年後に“選ばれ続ける理由”にはなりません」
「だがしかしだね、このデザインは少し冒険しすぎるだろ?ほかの三件はまだしも、この建物は落ち着きもあり、その上でスタイリッシュさを」
「把握しております。これは計算です。昼と夜、季節ごとの印象、導線、滞在時間。全てデータとシミュレーションを基に設計しています、お伺いしました自然と未来の融合のテーマ、特に長年愛されるために……」
クライアント側も今日の恵は違うとハッキリ感じていた。
それまで相手の意見を聞く彼女に自信はあまりみられなかった。
だからこそ、相手につけ込まれるようにされていた部分もあるが、恵は今回提出した内容に迷いは消えていた。何故こうするのか、何故そうしたいのか、クライアントも、建設後の客のことも、何もかも考えている。
仁は恵に頼まれて、そうした資料も用意してやった。デザイナーだからといってデザインだけに気を取られる訳にはいかない、社内デザイナーはあくまでも会社の名前を他の人達に知らしめる存在でもあり、いわば顔の一部だ。
クライアントやその先を見ずに出来上がったものは本当に愛されるのかと考えて練り上げる。だから一般人には出来ない。人を見て、センスを持ち、そしてそれを形にする力を持つ、いわば天才だろう。
それでも相手は引き下がらない、何かしらの理由をつけたいのだ、数万円数百万円ではない、数千、下手したら数億規模になるのだから当然だろう。結局は金だ。そして恵に対する若い女性デザイナーという偏見。
仁は納得しない相手に対して、ここからは自分の役目かと感じて「失礼ですが」と一言置いて話しかける。
「確かに狭間の案は確かにデザイン寄りです。ですが、予算・施工・維持管理の観点からも、現実的な範囲に収まっています。例えば、この外装材ですが、特殊素材ではありません。加工方法を工夫することで、コストを抑えつつ、この表情を出しています。また入口付近の植栽と照明計画を調整しており……」
仁は別の資料を映しては次々と相手の意見を潰すようにしっかりと反論する。もちろん恵を全肯定するわけではないが、あくまでもクライアントの要望をここまで反映させているということを。またこれ以上を求める場合の予算などの話を出せば相手も黙るしかなくなる。
代表となる男が黙り込むと他の二人が小声で何かをアドバイスする、これ以上はもう不要ではないかという言葉が聞こえ、仁は微かに恵をみると、緊張したような表情だった。膝の上で拳を作って祈るようでもある。
そして男はふぅ……と息を大きく吐き出した。
「正直なところ、抵抗がありましたが、こうしてしっかりと見ているとこんなに洗練されたデザインはないでしょう」
恵と仁の背筋がさらに伸びる。
「一度社内で検討します……まぁ、99%OKでしょうがね」
苦笑いをした男に恵が安堵するのが分かり、仁も思わず表情を緩めた。
会議室の空気感が軽くなり、今後の話を軽く進める。細部の調整などは必要になる場合もあるが、このデザインを崩すことはもうないといわれて恵は素直に安心する。
そうして会議が終わり、三人は頭を深々と下げてクライアントを見送るとコーヒーを片手にようやくかと安心したような顔をする。一人は会議室の片付けを請け負うから二人は先に戻ってくれと言ってくれた為、言葉に甘えることにした。
「強く言いすぎたかもしれません」
「そんな事ありませんよ、狭間さんは間違ったことを言っていると思いませんでしたし」
「境井主任はいつも味方でいてくれますね」
「……狭間さんのデザインが好きなので」
あくまでも彼女の作ったものが好きなんだというと恵は小さく微笑んだ。まだ完全にOKを貰っていないが本日中には貰えるだろうとクライアントの言葉から感じていた二人は、それが終わったらようやく大きく休めるなと感じた。
「それじゃあお疲れ様です」
エレベーターは九階で止まると恵は降りていく。
名残惜しいと思いつつもドアが閉まる直前、恵は仁をみて微笑んだ。
満面の笑みではなくて、いつも目尻を下げるような静かな笑顔で、それは昔から同じだった。歳を重ねると目尻にシワが出来そうで愛おしい笑い方だ。
「境井主任と共に出来て本当に嬉しいです」
『あなた様と共に過ごせたこの人生は幸福です』
そういってドアが閉まってしまうと仁は目を見開いた。
一人残されたエレベーター内で仁はやはり彼女は恵だと感じた。
あの頃の彼女で無くても人の魂は変わらない。
狭間恵は、境井恵だ。
自分の妻だった人なのだと彼は感じてほんの少しだけ鼻の奥が痛くなる気がして、五階について自身のデスクに戻ると、部下たちがOKを貰えて泣くほど喜んでるのか?と驚いたもの、仁は違うと笑った。
ただ彼女が彼女であることが、こんなにも嬉しいとは思わなかったのだ。